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8 血

 政治も哲学も芸術も、何のことやらさっぱりな私は、人々がおしゃべりに花を咲かせている間ずっと、池の中のランドルフを目で追って過ごした。


 水に手を浸けてみるとひんやり冷たかった。ランドルフは大丈夫だろうかと、心配になったくらい。魚は風邪をひくんだっけ?


 何だかんだ退屈な時間を楽しんでいた私の名を、品のある渋い声が呼んだ。


 顔を向けるとすぐそばに、厳めしい男が立っていた。歳は私の目には四十半ばくらいに見えた。彼は私のパパでは及びもつかない、かつて国王軍に従事していた経歴を持つ大貴族だ。私はこの侯爵と、これ以前にも二、三度顔を合わせたことがあった。


 私が退屈していると思って声をかけてくれたらしい。何か面白いことを教えてくれていたんだろうけど、私の目は彼の背後に釘付けになっていた。


 影だ。


 侯爵の肩越しに、ランドルフにあるのと同じ、影が見えたのだ。ランドルフのものより色が濃かった。


 言うまでもないことだろうけど、私は侯爵に想いを寄せてなどいなかった。


 足元から崩れ落ちてしまいそうなのを、何とか耐えた。少なくともこの影は、私の気持ちのせいで現れるわけではないのだ。それが分かって影に対する恐ろしさが、いくらかマシになった。


「私の話も、退屈かな?」


 侯爵は相づちを打つことすら忘れた私を見下ろしながら、苦笑した。私は慌てて首を横に振った。


「いえ、そんなこと。侯爵の言葉遣いがあまりにも洗練されているので、わたしには難しくて」

「ああ、申し訳ない。歳を取ると回りくどくなっていけないね。では簡単に言い直そう。若い子は第一、第二身分に課税するという国王の考えに、どういう印象を持っているのかな? 私は今度の集会に参加するので、ぜひ世代を越えた意見を聞かせてくれ」


 ランドルフが泳いでいるのが目の端に見えていた。私は何故か、試されているような気分になった。侯爵にも、ランドルフにも。


「賛成です。だって税を払えば、王家の散財や税の使い道に、特権階級は今よりもっと、関心を示すようになるでしょう? それはきっと愛国心に繋がりますよね」


 私の返答に侯爵は眉をひそめた。まさか私が自分の意見を持っているなどとは、想像もしていなかったらしい。


「何というか、ずいぶんと過激な意見だ」

「それは、誰の立場に立って考えるかによります」

「最近の若い人は歴史や文化を尊重しない人が本当に多い。我々は長い間平民の生活を支えてきた。彼らには自分の生活を支える力が無いからだ。我々は平民を支えるが、平民は我々に何をしてくれた? 我々が税を払うようになれば、平民の存在価値は無くなってしまうのではないか?」

「いいえ、平民の労働力が我々を支えているのです。彼らは労働も、商売も、税を払うことも出来ますが、我々は何一つとしてこなせません」


 侯爵は侮蔑するように、鼻を鳴らした。


「ああ、君はものをあまり知らないんだな。悪かったよ、政治の話は君には、早すぎたようだ」


 侯爵は私の返事も聞かずに去っていった。しっかりと影を背負ったまま。


 ちゃぷ、と水が跳ねる音がした。私は興奮していた。心臓がどくどく鳴って、指が震えて力が入らなくてどうしようもなかった。どうしてあそこまでむきになってしまったのか、今でも分からない。今日のことは絶対にランドルフに話そう。私はそう決心して、震える息を吐き出していた。


◇◇◇


 よく晴れた日のことだ。私は不機嫌だった。立派に不機嫌をやり抜かなければならなかった。あるいはちょっと元気がないフリを装わなければならなかった。なぜならランドルフから、いつもと違う香りがしたから。甘ったるい薔薇の香り。絶対に彼自身の好みじゃない。絶対に。


 いつもはシワひとつないシャツの襟が、少しくたびれているのも気にさわった。もっと、ちゃんとするべきだ。彼はもっと、ちゃんとするべきなのだ。私はそう信じて疑わなかった。


「聞いてます?」


 ランドルフが私の眼前でパチパチと指を鳴らしたけど、私は気づいていないフリをした。黙々と古代語をノートに書き写しながら、頭のなかでは、伯爵家のサロンで見かけた茶色いぶちのある魚を、焼き魚にするところを想像していた。ランドルフを、焼き魚にしてやった!


 無言を貫く私に対して、ランドルフは妙に粘り強い態度を取った。てきぱきと動く私の右手を、彼は無理やり握りしめて止めた。


「体調が優れないんですか?」


 そう言って心配そうな顔をするから、私は罪悪感に苛まれるはめになる。私が悩むのはいつだって彼のせいだと思うと、余計に腹立たしかった。この人は私のせいで悩んだりはしないだろうなどと考えて、勝手に落ち込んだ。


「ダニエルの方が、教えるのがずっと上手だと思ってたところよ」


 思ってもないことが口をついて出てきた。ランドルフの行いが悪いせいだ。ランドルフのせいで私は、こんな意地悪を言ってしまったんだと、心の中で言い訳をした。彼がどこかの女の香りをまとって、よれよれの服を着て、髪だって少し濡れていて、そんな格好で私の部屋に入ったりするから。


 自分から憎まれ口を叩いておきながら、怖くてランドルフの顔を見ることができなかった。私の右手をつかんでいるランドルフの手に、ぎゅっと力がこもったのが分かった。


「教え方が、分かりにくかったですか? どこが悪かったか教えて下さればすぐに直します」


 私は神様にだって、保証できる。彼のこの言葉が嘘でないことを。

 彼は私が勉強でつまずいたら、それがどんなにささいな問題であっても、次の授業までにもっと分かりやすい説明の仕方を必ず考えてきてくれる立派な先生だった。そういう一面を知るたびに、私は彼のことをもっと好きになった。だってそれは、次の授業の日が訪れるまで何度も、私のことを考えてくれたってことだもの。そういうふうにしてくれるのが好き。私のことだけを考えていて欲しい。


 でも、だからどうだというのだろう。彼のことが好きでたまらないと思った次の瞬間には、私はいつもこんなふうに、自分を戒めた。もしランドルフが私のことを考えてくれるようになったら、何なの? 結婚できるの? そんなことあり得ないって物知りなランドルフはよく心得ているはず。


 私は一人っ子だから、将来、男爵家の財産を継ぐことが決まっていた。だから私が結婚するとき、持参金だけでなくセヴェール家の財産全てが私の夫の家に渡ることも、変えようのない運命だった。


 貴族が最も恐れることは何か。それは、家系の断絶。


 貴族は貴族と結婚しなければならない。平民と結婚することは犯罪ではないけど、それは、後ろ指をさされる行為。道化師の格好をして日々を過ごすことは犯罪ではないけど、誰もしない。それと同じ。


 でも私が貴族と結婚したら、私の家名と夫の家名が、一つの家系に存在することになる。一体どちらを優先して子供に継がせるべきだろう?


 先ほど言ったように、貴族が最も恐れることは家系の断絶。私の夫となる人は、私の土地や不動産、持参金は喜んで受け取るだろうけど、私の家名と家紋は敬遠するだろうと、貴族であれば誰でも容易に予測できた。だってそれを受け入れるってことは、自分の家名と家紋が、断絶するってことだから。そして大抵、この世は夫の望みを優先して叶えられるようにできている。


 だけど、夫の家名よりも妻の家名を優先して子供に継がせることができる状況というのが、一つだけある。


 それは、妻の家名を継ぐ人間が妻以外におらず、かつ、夫の身分が妻よりも圧倒的に低い場合。


 残念ながら、セヴェール家はこの状況を作ることができなかった。なぜならセヴェール家よりも圧倒的に身分の低い貴族なんて、存在しなかったから。


 だから私はダニエルと結婚しなければならなかった。この結婚には、二つの利点があった。


 一つは、子供さえできれば、絶対にセヴェール家の家名と家紋をその子に継がせることができるということ。私とダニエルは二人とも男爵家の血筋だから、どちらの家名を優先して子供に継がせるべきかで揉める必要がない。


 もう一つは、パパの財産と、叔父さんの財産を統合できること。パパと叔父さんに分与された男爵家の財産を、再び一つの家系に収められるのだ。


 もちろんこの結婚には欠点もあった。


 いとこと結婚すれば、親族が減る。万が一私とダニエルが子供を一人も残せなかったら、セヴェール家は本当の本当に、この世から消滅してしまうことになる。私たちの政略結婚は、いわば、危うい賭けだった。


 そして、ダニエルは平民だ。貴族と平民の結婚が歓迎されないことは、先ほどお話した通り。


 でもこれは大目に見てもらえることが分かっていた。前例がいくつもあったから。皆、同じ状況に置かれれば考えることは同じ。家名を子供に継がせるための戦略ならば、貴族階級の人間は理解を示してくれる。少なくともダニエルは男爵家の血を引いているから、不文律を破ることにはならない。貴族とは、そういう都合のいい考えをもった集団だった。


 こんなふうに、常識と建前に踊らされるだけの貴族を、ランドルフが嫌うのは無理からぬことだったと思う。彼は自由主義者。彼は封建制度が国を衰退させると考える、聡明な人。だから私は彼を好きになった。彼の視線の先には夢と希望にあふれた未来がある。だからこそ彼の瞳は、はっとしてしまうほどに美しいの。

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