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7 水槽

 ランドルフに彼女がいたことが発覚してから、何週間かたったある日。パパの学友である伯爵の、サロンに招待されることが決まった。パパは言った。伯爵夫人は音楽や古代語の詩について、私と楽しくおしゃべりすることを期待しているようだと。


 楽しくおしゃべり? 音楽と古代語の詩について? 機知に富んだ話を?


 頭を抱える私に、ランドルフは冷たい声を浴びせた。


「勉学をおろそかにすると、こういうことになるんですね」

「おろそかにはしてない。ちゃんと学んでるじゃない」

「お貸しした本は全然読んでないみたいですけど。たった五冊ですよ」

「あなた自分の文字を読む速さが人と比べて異常だってことにどうして気づかないの?」


 ランドルフは怪訝な顔をした。本当にどうして気づかないのか。凡人の私には知るよしもない。


「サロンでは歌を歌うんですか?」

「そういう成り行きになればね。多分そうなる」

「ダニエルさんも一緒に?」

「ダニエルは歌わないわよ」

「ああ、いえ、一緒に参加なさるんですか?」

「ううん。パパとママがついてくるの。これって最悪。親同伴のパーティーみたいなものよ。行く前から恥ずかしくて、もうどうしようって感じ」


 確かに、それは最悪だ、と言ってランドルフは笑った。この日のランドルフは優しかった。それまでの態度は何だったのかと思うほどに。


 それにしてもさっきからおしゃべりばかりで授業が全く進んでいないが、いいのだろうかと、私は内心で密かに考えていた。何故密かに考えていたのかというと、それを口にした瞬間授業が再開してしまうから。


 ランドルフの相づちがあまりに絶妙なので、私はどんどん饒舌(じょうぜつ)になった。サロンに来る人物の名を挙げていると、ある代議士の名にランドルフが関心を示した。


「バネル議員も参加なさるんですか?」

「うん。知り合いなの?」


 ランドルフは苦笑いして、首を左右に振った。


「いえ、知り合いというほどでは。ただ、この時期に第二身分の家に出入りするとは勇気があるなと思って」


 この時代の身分は、三つに分かれていた。


 第一身分の聖職者。第二身分の貴族。そして、第三身分の平民。第一身分と第二身分は、いわゆる特権階級と呼ばれる層だ。


 バネル議員は、第三身分だ。この授業の一か月後に首都で開催された、それぞれの身分の代表が集まり議論する集会のために選出された、代議士だった。


「平民だけじゃなく聖職者と貴族にも税を課すかどうか、決定するための集会なんでしょ?」

「驚いた。ちゃんと勉強なさってるんですね」

「パパがお金の話を見逃すわけないもの。夕食のときの話題は、そればっか」


 パパは議員には立候補しなかったけど、特権階級への課税には反対していた。課税される側としては、珍しい意見じゃない。そしてこれ以上課税しようのないほど懐を痛めていた平民は、当然、特権階級への課税に賛成していた。


 つまり意見が対立するに決まっているのに、平民であるバネル議員が貴族のサロンに出入りすることに、ランドルフは驚いていたのだ。


「ランドルフだって同じことしてるじゃない」

「給料がいいのでね。それに、自由主義者の私を雇ってくれる貴族なんて、そういませんよ」


 ランドルフは、特権階級だけではなく国民一人一人が政治の決定権を持つべきという思想を持っている。家庭教師として雇われる前、パパにはっきりそう伝えたらしい。パパはランドルフの思想にはあまり興味が無かったようで、それでも構わないと、彼を雇った。


「特権階級への課税が見送られたら、ますますランドルフに嫌われちゃう」


 冗談めかして落ち込んで見せると、ランドルフは唇をほころばせた。


「嫌いじゃありませんよ」


 やけにはっきりとした口調で告げられて、どきりとした。


「そうなの?」

「ええ。嫌いじゃない」


 茶色い瞳が、まっすぐ私を射抜いた。


 私は息を呑んだ。


 ランドルフの背後に居座る影が、うごめいていた。そして、心なしか闇が濃くなった気がした。


「お嬢様?」


 はっとして、瞬きした。手のひらがじっとりと汗ばんでいた。


「最近、体調はどう?」


 唐突に尋ねた。ランドルフは当然、不審げな顔をした。


「なぜ?」

「ちょっと、顔色が悪い気がして」


 ランドルフはますます怪訝そうな顔をした。彼はしばらく考えに沈んだあと、ふと、微笑を浮かべた。


「確かに言われてみれば、最近は悩んでばかりですね」

「そうなの? どうして?」

「私にもいろいろあるんです。でもご心配なく。何があっても家庭教師は続けますから。私は結構、この時間が好きなんです」


 そう言ったランドルフの笑顔が弱々しく、私はますます彼のことが心配になった。


◇◇◇


 伯爵家のサロンは、男爵家のサロンとは比べ物にならないほど豪華だった。なんといったって、部屋の中に池があったのだ。池の中では色とりどりの魚がすいすい泳いでいた。何ならちょっと、魚くさかった。どうしてこんなことになったのか、誰か説明してくれないものかと心底思った。


「気に入った?」


 伯爵夫人が背後から話しかけてきた。私は呆然としたままゆっくりと振り返った。


「すごいですね」

「あなたは魚が好きだと聞いたから。張り切って準備したのよ」


 苦笑いしか返せなかった。ジョエルのことがあってから、私は魚を飼いたいと両親にねだることをしなくなった。両親もわざわざ、飼おうと提案してきたりはしない。


 まさかあんな不意打ちの攻撃を受けるなんて思わなかった。しかもまるで悪気のない歓迎という形で。


 喜ぶべきだったんだろうけど、唇の端をひきつらせることくらいしかできなかった。両親も微妙な反応をしていた。


 反応に困る私たちを救ったのは、バネル議員だった。


「趣味のいいインテリアだ。餌は何を? パンですか? ああ、この魚たちは第二身分なのですね」


 パンの値段が高騰していることを揶揄した嫌味だった。伯爵夫人は嫌味に気づかなかったフリをして、別の客人に挨拶しに行った。


 私は池の中に、茶色いぶちのある魚を発見した。何となくランドルフを思い出して、その魚を心の中でランドルフと命名した。ランドルフは水面に軌道を描きながら、すいすい泳いでいた。

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