4 川
あの日はとても、天気が良かった。私は素足を水に浸けたまま、川べりに横たわり、力強い自然の音にうっとりと耳を傾けていた。
小さい頃、魚を飼いたかった。なぜって、魚が川で泳いでいる姿を見たかったから。
子供の頃は魚も犬みたいに、川で散歩させたあと飼い主の元に戻ってくるものだと思っていた。この頃になってようやく私には、両親が娘に甘いだけではない、貴族にしては視野の広い人たちだったことに感謝する気持ちが芽生えていた。もし両親が私のわがままを叶えようとして観賞用の魚を好きなだけ娘に買い与えていたとしたら、私はそれを川に流していた。それは生態系を乱す行為だと両親は知っていたし、また乱れても構わないと思うほど彼らは無責任な大人では無かった。
懐かしい思い出に浸りながら、冷たい水の感触に意識を向ける。せっかくの楽しい時間を、ジャリ、と砂を踏む音が邪魔した。
「危ないですよ」
逆光で顔がよく見えなかったけど、声とシルエットでランドルフだと分かった。寝転んでいる私の顔を覗き込んだランドルフは、聞こえよがしにため息をついた。
「一人で来たんですか? 皆さんあなたのことを探してますよ」
足を押す水の流れが、速くなった。
「宿題、やってないの」
「だからこんなところまで逃げてきたんですか?」
「こんなところとは何よ。気に入ってるのに」
「遠くに雨雲が見えます。とにかく屋敷に戻りましょう」
渋々、立ち上がった。スカートの裾が川の水を含んで重たくなっていた。
ランドルフはくどくどと文句を言ってきた。自分の仕事はあなたのお守りではない、どうして本来の仕事をさせてくれないのか、うんぬん。
私は彼の話を聞き流しながら、名残惜しく川の水しぶきを見つめていた。それから後ろ髪を引かれる思いで川から視線を外し、ランドルフを見た。
背筋が凍りついた。
しかめっ面でこちらを見ているランドルフの背後に、黒い影があった。彼の背中におぶさるように、肩のあたりに煙のように、黒いもやが立ち込めていたのだ。
「お嬢様?」
ランドルフが眉をひそめた。
私は硬直して、一歩も動けなくなった。
ランドルフはしばらく私の様子を窺っていた。ふいに、こちらに手を伸ばしてきた。私は反射的に後ずさった。
水に濡れた草で足が滑り、あっという間に川の中に体が沈んだ。
白のあぶくが目の前に踊った。息の止め方を思い出せず、口の中一杯に冷たい水が侵入してきた。
遠くで雷が光った気がした。
私のことをより深く理解してもらおうと思ったら、この話をしないわけにはいかない。
六歳の頃まで私には、ジョエルという友だちがいた。
私たちは本当に気が合った。いくらか歳が離れていたけど、それでもジョエルは私の大親友で、婚約者だった。
私はジョエルが大好きだった。その気持ちが恋だったのかどうか、今でもよく分からない。
ジョエルと共に過ごした子供の頃の記憶はもうおぼろげだ。だけどこれだけは胸を張って保証出来る。ジョエルはとても面倒見がよく、親切な人だった。道端で誰かが泣いていると放っておけずに、泣き止むまで側についていてあげるような、そんな優しい人だった。彼の弟のダニエルも、そんな兄のことが大好きだった。
だから私が川で魚を泳がせてみたいと言ったとき、ジョエルは親切で教えてくれた。わざわざ魚を連れていかなくても、川にはもう魚が住んでいるんだよ、と。
危ないから、川に近づいては駄目だと大人に言われていた。でもジョエルは、僕が一緒に行くから大丈夫だと言ってくれた。その言葉を疑うわけがなかった。だってジョエルは私よりずっと大きくて、頼りになるお兄さんだった。だけど世間一般の感覚で考えてみれば、まだ子供だった。
初めて川を間近で見てテンションが上がった私は、服を着たまま冷たい水に飛び込んだ。
ジョエルも一緒に川に入って、二人で魚が通りかかるのを待った。
川の流れがあんなに強いなんて、知らなかった。
両親が言った。二人一緒に流されていたから、近くを通りかかった大人は私一人しか助けられなかったのだと。成長してものが分かるようになると、農奴であるその人がジョエルより私を優先させた理由が、嫌でも分かるようになった。
二人一緒に流されたというけど、多分、先に溺れたのは私だった。ジョエルはきっと、私を助けようとしてくれたのだ。この時のことを思い出そうとしても、霞がかかったみたいによく思い出せない。人間の記憶とは本当に都合よくできている。
唯一、はっきり思い出せることがある。ジョエルが行方不明になる数か月前、彼の背後に黒い影が現れた。何度か指摘してみたけど、ジョエルは黒い影なんて見えないよ、と笑っていた。最初は煙のようなもやだった影は、二人で川へ行く日にはもう、カラスの羽で編んだかのような、漆黒の幕になっていた。
意識がはるか昔の過去からゆっくりと浮上していく瞬間、ぼんやり思った。ジョエルは今、一人ぼっちなのだろうか。冷たい水の中で凍えながら。あんなに温かい心をもった、優しいジョエル。可哀想に。きっと寂しいだろう。私のことを恨んでいても、仕方ない。
「ジル!」
目を開けると、ママの顔があった。ママの背後には、パパが立っていた。
枕から頭を持ち上げようとしたとき、後頭部がズキリと痛んだ。
「動かないで。川で頭を打ったのだと聞いています」
セヴェール家専属の医者が、私の額に触れて頭を枕にそっと押しつけた。私は意識を失う直前のことを飛び散る火花のように鮮明に思い出した。ランドルフの背後に見えた、あの黒い影を。
「ランドルフは!?」
医者の手を押し退け、体を起こした。ママは表情を強ばらせていた。
「帰ってもらったわ。渋ってたけど、ずぶ濡れだったし、ここに居てもランドルフにできることは何も無いから」
ベッドから飛び起きて部屋を出ようとしたら、パパに腕をつかまれた。
「ジル、大人しく寝ていなさい」
「嘘ついてるんでしょう、あのときもそうだった! 本当はランドルフはまだ溺れたままなのよ!」
パパの表情が硬くなった。その隙に扉に手をかけようとしたけど、やっぱりその手をつかまれた。
「離して! 助けに行かなきゃ!」
「ジル、よく聞きなさい。お前は頭を打っただけで、溺れちゃいない。ランドルフは意識をなくしたお前を屋敷まで背負って帰って来てくれたんだ」
「でも、影が、ジョエルの影が」
「大丈夫か? ここがどこだか分かるか?」
パパは私が、頭を打って錯乱しているのだと思ったらしい。まるで小さな子供にするみたいに、私を抱き締めて、もう大丈夫だと何度も語りかけてくれた。




