2 水鏡
ランドルフと出会ったのは、確か八歳のときだったと思う。
ママはお茶会が好きだ。正しく言うなら、お茶会の中で繰り広げられるおしゃべりが好きだ。
私はパパに似てしまった。つまりおしゃべりがあまり得意ではなかった。
あの頃、ママにはおしゃべりが必要で、私には沈黙が必要だった。ママの物差しで考えるなら、人が沈黙するのは死んだとき以外にあり得ない。だから私はいつも半ば強引にお茶会の場に引きずり出され、生きていることを証明しなければならなかった。
好きな子はいるの? 好きなタイプは?
何度当たり障りのない答えを返しても、次のお茶会で再び同じ質問をされる。何が恐ろしいって、私には絶対に触れられたくない話題があった。だけどそれは事前に触れてくれるなと言えるたぐいの内容では無かった。会話の事故で、誰かがあの話に触れてしまったら。そうやってビクビクしながら食べるお菓子が美味しいわけがない。
くたびれてしまった私は、お手洗いに行くと言って人々の輪から抜け出し、こっそり男爵邸の敷地の外へ出た。
並木通りをのろのろ歩いていると、はしごが立て掛けてある菩提樹を一本見つけた。
地面には木の枝や葉っぱが散らばっていた。誰かが木を剪定したあと、はしごを外し忘れたのかもしれない。
私ははしごを登り、太い木の枝に腰を落ち着けた。
そのまま長い時間ぼーっとしていた。突然強い風が吹いて、慌てて木の幹にしがみついた。そのひょうしに立て掛けてあったはしごに足をぶつけてしまい、突風の力も作用して、はしごは遥か遠くの地面にバタンと倒れた。
その時初めて、高いところを怖いと感じた。しばらく硬直していると、知らない人が目の前の道を通りかかった。でも、恥ずかしくて声をかけることが出来なかった。
日の傾きに比例して、恐怖が大きくなっていった。橙色の夕日に照らされる町はとても美しかったのだろうけど、景色に魅了されるほどの余裕はそのときの私にはなかった。
木の幹にしがみついてすんすん泣いていると、どうしたの、と声がした。
見ると、並木通りに男の子が立っていた。怪訝な顔で、私のことを見上げていた。
「降りられないの?」
うん、と頷くと、男の子は真顔で木のそばまで歩いてきて、ぱっと両手を広げた。
飛び降りろと言うのか。
そこのはしごを立て掛けてくれればいいのにと一瞬思った。でも木の幹にしがみついたまま泣き続けていた私はもうヘトヘトだった。
捨て鉢になって飛び降りると、男の子はちゃんと受け止めてくれた。
男の子は私を家まで送り届けてくれた。その道中、気を遣ってかたくさんの話をしてくれた。今なら分かる。本来無口である彼は、あのとき相当無理をしていたに違いない。子供向けのおとぎ話を教えてくれたと思ったら、私の髪を褒め始めて、それから道端に咲いている花の名前を教えてくれたりと、目まぐるしかった。
会話の最中、私は彼の名前がランドルフであることを知った。
あの日の、私を元気づけようと一生懸命に話しかけてくれた彼の声は今でも鮮明に思い出せる。
あの頃、ランドルフは声変わりを迎えていたらしく声がずいぶんと掠れていた。私はそれを、風邪を引いているのだと勘違いしていた。
子供から大人へと成長した彼と再会したのは、その七年後。ランドルフがあのときのことを覚えているかどうか、私は知らない。確かめようとは思わない。あの日の思い出は、小さな箱の中に隠して、自分だけの宝物にしておきたいから。
◇◇◇
「ダニエル、彼はランドルフ。ジルの家庭教師で、古代語博士なのよ」
ママの言葉にランドルフは恐縮した。
「博士だなんて、そんな大層なものでは」
ダニエルは右手を差し出し、彼の特技である、うわべだけの笑顔をランドルフに向けた。
「工場へ配達に行ったときに何度か顔を見たことがある。確かお姉さんが一人と、弟が二人いるよね。皆元気?」
「元気すぎて、うるさいくらいです」
「そんなに堅くならなくていいよ。僕はまだ貴族じゃないし、君と同じ平民なんだから」
「でも父から、くれぐれも失礼のないようにと釘を刺されたので」
「さすが。男爵家御用達の製本師は、ぬかりが無いね」
ダニエルの気さくな振るまいに、緊張のせいで強ばっていたランドルフの表情が少しほころんだ。
その日の夕食は意外にも盛り上がった。
会話の内容は、ほとんどがランドルフの幼少時代について。
ランドルフが小さかった頃、製本に失敗した本が彼のおもちゃ代わりだった。三人の姉弟はとてもやんちゃだったけど、ランドルフは本を読むことが好きな、大人しい子供だった。大人しくて本ばかり読む子供は、いつの時代、どの国でも変わらずいじめっ子の標的にされるもので、ランドルフも例にもれずよく近所の子供たちにからかわれて泣いていたらしい。その頃の思い出を面白おかしく語って、彼は恥ずかしそうに笑った。
古代語はほぼ独学で身に付けたという。何故"ほぼ"かというと、発音の仕方だけは本で学ぶことが出来なかったから。
古代語は聖職者の共通語でもある。だからランドルフは足しげく教会に通い、古代語で聖典を読めるようになりたいと言って、神父様に発音の仕方を教えてもらったのだ。
私は料理の上を飛び交う会話に耳をすましながら、白身魚をナイフで慎重に割いていた。グラスに注がれた水が、鏡の代わりになるのではないかというほど、慎重に。
ランドルフは私たち家族の過去について尋ねるなんていうヘマはしなかった。私たちへの質問は、作物の実り具合や、流行りの本や芝居。そんな、ありきたりなこと。その気遣いによって彼は、私たち家族の好感を勝ち取った。特におばあさまはランドルフをとても気に入った様子だった。
「将来は製本師の仕事を継ぐつもりなの? 製本師は語学の才能を生かせる仕事なのかしら」
おばあさまの問いにランドルフが答える前に、ダニエルが口を開いた。
「彼の才能はむしろ印刷屋向きですよ。ランドルフは弟が二人もいるんだから、うちの仕事を継げば? 何しろ印刷屋の方のセヴェール家には子供が一人しかいないんだ。くだらない法律と慣習のせいで、僕は親の仕事を継げずに、人殺しの夫になるってわけ」
その瞬間、私のすぐそばで鏡のように沈黙していたグラスの水に、いくつもの輪が広がった。




