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28 雷雨

 今日はランドルフと結婚してちょうど一年が経つ、記念すべき日。でもそんな大切な日の前日に、私たちは大喧嘩をしてしまった。


 今までも小さな言い争いはあったけど、こんなに大きな喧嘩をしたのは結婚して以来初めてだ。


 ランドルフは昨夜、言い争いの最中に部屋を出ていった。どこに行ったか私にはお見通し。彼は今、他の女の部屋にいる。私たちが暮らす部屋の下の階に、ゲルタさんという悪女がいるの。


 これを自慢だと受けとらないで欲しいのだけど、私は昔豪邸に住んでいたから、いくらランドルフが下の階に逃げたところで私にとっては同じ家にいるのとあまり大差ない。彼はまだまだ甘いなぁと思う。


 厚い雲に隠れた太陽は、真価を存分に発揮することができないまま沈もうとしている。結婚記念日がもうすぐ終わる。窓の外では小雨がぱらついている。私は窓を開けて、ベッドのふちに腰かけ、灰色の空をぼんやり眺めて時間をつぶした。


 部屋には革を染めるためのインクのにおいが満ちていた。ランドルフはここ最近製本の仕事に精を出している。製本師としての評判は上々で、大繁盛というわけではないけど、本人はとても楽しそうだ。


 扉がぎぃときしむ音がした。それから足音がゆっくりと近づいてきた。私は外の景色から視線を外さなかった。やがて、ベッドの一部が沈んで、背後から二本の腕が伸びてきて、私の首に巻き付いた。


「ごめん」


 ランドルフはあからさまにしょんぼりとした声で呟いた。こんなやり方はずるいと思う。


 大体、ランドルフという人は知れば知るほど目まぐるしい人で、私はこの一年間、彼の変化についていくのにとても苦労させられた。


 火傷してしまいそうなほどの激しい愛情をぶつけてくることもあれば、風ひとつない日の湖面のように、穏やかに微笑みかけてくれることもある。ランドルフが言うには、私の方が突拍子がなくて油断ならないそうだけど、とんでもない。ランドルフに比べれば、私は本当につまらない人間だ。


 そして私は間違いなく、彼のことを知る機会に誰よりも恵まれている。


 だから彼の言った「ごめん」の意味もすぐに理解できる。これはつまり、何が悪いのかはよく分からないし、本当は悪いとも思っていないけど、とりあえず喧嘩を終わらせるために謝っておくか、という意味の「ごめん」である。


「秘密の愛人のお部屋はずいぶんと楽しかったみたいね」

「ケーキをもらいました。食べます?」


 ランドルフは一旦ベッドを離れてから、再び私の背後に腰を下ろした。私の背中におぶさるようにもたれかかってきて、切り分けたケーキの乗った小皿と、フォークを持った手を左右から伸ばしてきた。


「美味しいですよ。ほら、クリーム好きでしょう?」


 わざわざフォークを持ってきておきながら、ランドルフはふわふわしたクリームを自分の指ですくって、私の口元に近づけてきた。それを私がぱくりとくわえると、ランドルフは仲直りの儀式は終了とばかりに、頬にキスしてきた。


 夫婦喧嘩のきっかけなんて古今東西、大抵くだらないものだけど、どうして私たちが昨日喧嘩をしたのか、ぜひ聞いて欲しい。


 私たち夫婦は結婚式までに指輪を用意できなかったということを、以前申し上げたと思う。だから一年かけてこつこつと貯金して、結婚記念日である今日、二人で指輪を買おうと約束していた。


 だけど貯まったお金を見て、私は思った。これだけのお金があれば、ランドルフは数週間、里帰りできるかもしれないと。


 ランドルフは絶対に、自分から故郷の話を持ち出したりしない。私が気にすると分かっているからだ。でもそんなふうに優しくされると、時々彼がたくさんの犠牲をはらってくれていることを、忘れそうになる。


 私はそれが一番怖い。


 最近、おばあさまが亡くなった。私はおばあさまを看取ることも、お葬式に参列することもできた。だけどランドルフは? 彼は家族を看取ることができない。そう考えると胸が張り裂けそうになる。


 指輪はいつでも買えるけど、家族にはいつでも会えるわけじゃない。そう言って帰郷を勧めた私の意図を、ランドルフは上手く読み取ることができなかったのだろう。私の説明が下手だったせいだ。


 ランドルフは私が、彼に飽きたと思ったのだ。無理もない。祖国の情勢は今でも不安定で、そんな国に突然帰れと言われたのだから、どうなっても構わないのか、と解釈してしまっても仕方ない。

 彼は知らないのだ。私が彼の背後に現れる影を目安に、彼の安全を確認していることを。


 ちなみに私の影を見る力は健在だ。おばあさまが息を引き取る数か月前にも、あの影は彼女の背後にちゃんと現れた。通りすがりの人の背後に見えることもある。あれは多分、死相のようなものなのだと思う。


「私は指輪より、ランドルフの方が大事なの」


 お皿とフォークを受け取って、ケーキをつつきながら言った。ランドルフは私の腰に腕を巻き付けて、私がケーキを解体する様子を肩ごしに眺めている。


「やけに粘りますね。そんなに俺を追い出したいんですか?」

「私ってそんなに信用ない?」

「だって、想像してみて下さい。ひと月近く会えなくなるんですよ。平気なんですか?」


 俺は嫌だ、と言って、ランドルフは腕に力を込めた。

 ケーキの切れ端をフォークに刺して、肩ごしに差し出す。彼は心得たもので、フォークの先にぱくりと食いついた。


「亡命で鍛えられたの」

「俺にも鍛える時間を下さい。五十年くらい」

「ふざけてるの?」

「なぁ、ジュリア。この問題は俺の中では、国を出ると決めたときに終わったんだよ。とっくに片が付いてるんだ」


 私は体の向きを変えて、ランドルフを見上げた。そして思わず吹き出した。


 愛する夫の威厳を損なわないために、私は素早くランドルフの顔を引き寄せて、彼の口の端に付いているクリームを舐め取った。


 誘われたと勘違いしたのか、ランドルフがキスしてきた。


「待って。話はまだ終わってないってば」


 肩を叩いて制止すると、ランドルフは非難がましいため息をついた。雨脚は徐々に強くなり、窓から冷えた風が吹き込んでいた。


「分かりました」


 ランドルフは突然神妙な顔つきになって、居住まいを正した。それから、教師然とした口調で語り始めた。


「遠い昔に滅んだ古代の国には、現代と同じように、墓石に花を供える風習があったことをご存じですか?」


 私はすかさず身構えた。これはランドルフお得意の、古代の豆知識を披露して、私が感心している間に話し合いをうやむやにしてしまおうという、秘技なのだ。


「それとこれと、どういう関係があるの?」

「まぁ聞いて下さい。死生感も言葉も宗教も、時代さえ違う国に、現代にも通じる風習が存在していたんです。それはきっと、人間の根本的な本質はどれだけ時代が巡り環境が変化しても、変わらないという証なのだと私は思うんです」


 家庭教師と生徒という関係だった頃に戻ったようだと、私はぼんやり思った。


「誰かを愛する手段が、人間には必要なんですよ。相手が死んでいても、言葉も温もりも受け取ってもらえなくても、それでも何とかして愛したいから、人は死者に花を贈るんじゃないかな。届かないと知っていて、そうせずにはいられないんです」


 多分、今私が思い浮かべている光景と、ランドルフが思い浮かべている光景は同じだと思う。


 光を反射する水面。白いしぶき。川べりに並んだ、色とりどりの花束。


「花だけじゃなくて、もっと他のものも受け取ってもらえる間は、そばにいたいと思ったんです。分かって下さい。だからこそ私はこんな異国の地まで、全てを捨てて、あなたに会いに来たんですよ」


 ランドルフの秘技は炸裂した。私はすっかり胸を打たれて、あらがう術をひとつ残らず失った。


「いいわ」


 私はランドルフの首に腕を回した。ベッドの上に置いたお皿とフォークが、カチャリと音を立てた。


「煮るなり焼くなり、好きにして」


 全く、今日は素晴らしい記念日になるに違いない。


 雨は止む気配がなく、窓の外で雷が光った。数秒遅れて、巨大な岩が転がるような音が聞こえてきた。こんなに狭い部屋で、彼と二人きり。白い感情も黒い感情も濁流のように押し寄せてくる。そんな場所に、私たちは必死でしがみついている。


◇◇◇


 冒頭に述べた、あの頃起こった出来事が私にとって幸だったか不幸だったか、その答えを打ち明けるときがついにやって来たというのに、私ときたら、まだ答えを見つけられずにいます。


 革命によってあらゆるものを失った。だけどかけがえのないものを手に入れた。この気持ちはとてもじゃないけど、善や悪、正や誤といった範疇(はんちゅう)に留めてはおけない。


 だけど私は、確信している。


 私は、あの人を幸せにするために生まれてきたのだと。


 あとは水辺でぼーっとするためにも生まれてきたかもしれない。あとは甘いものを楽しむためにも。


 私の未熟さが明らかになってしまう前に、物語を切り上げる必要がありそうです。


 最後まで耳を貸して下さり、どうもありがとう。私の心を受け取って下さり、どうもありがとう。


 あなたの人生に雨のように、この世界のあらゆる幸福が降り注ぎますように。

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