25 汗
明日晴れたら手紙を持っていきます、とランドルフは約束してくれた。
次の日、空は一点の曇りもない晴天だった。だけどランドルフは待ち合わせ場所に現れなかった。
私はがっかりするよりも、心配になった。
私の祖国では、待ち合わせの時刻というのは大方の目安のようなもので、きっちり守る人はあまり多くない。そんな中で、ランドルフはそれはそれは時間をよく守る人だった。
それなのに、その日ランドルフは時間に遅れるどころか約束自体をすっぽかした。急用ができたのかもしれないとは思ったけど、そういうとき彼は手紙で知らせるくらいのことはする人だ。
まさか事故にでも遭ったのでは、と私はいてもたってもいられなくなった。前日に黒い影は見えなかったけど、でも私と話をしたせいで再び彼に危険が迫っているのかもと、不吉な考えが頭にこびりついてぬぐえなくなった。
家に残していた諸々の用事を終えたあと、すぐに隣町に向かった。とにかく早く無事を確認したくて、奮発して馬車に乗り、あの美容院を訪ねた。
前日に言葉を交わした老婦人が、店の前に干したタオルを取り込んでいた。私の姿を認めた老婦人は、あら、と声を上げた。
「〈昨日お会いしたわね?〉」
「〈はい、あの、何度も尋ねて申し訳ありません。ランドルフが今どこにいるかご存じですか?〉」
老婦人は眉尻を下げて、頬に手を当てた。
「〈ああ、彼ねぇ、具合が悪いみたい。昨日雨に当たったのがいけなかったのかしら。今部屋で休んでるわ〉」
のちに老婦人が語った話によると、私はこの時、この世の終わりのような顔をしていたらしい。老婦人は大層気遣わしげな表情を浮かべて、一度店の中に引っ込んで、紙袋を持って戻ってきた。
「〈これ、蜂蜜とりんごが入ってるからね。これが部屋の鍵。看病してあげてちょうだい。雨漏りしたところを見てくれるって言ってたんだけど、風邪引いたままじゃ頼めないから〉」
「〈そんな、勝手に入れません〉」
「〈いいのよ。雨の中走って追いかけるくらいだもの。あなたから訪ねていって、悪いわけないわ〉」
一応、ノックはした。だけど返事はなく、私は盗みに入る泥棒のように慎重に鍵を開けて、部屋の中に入った。
部屋は閑散としていた。簡素な机と椅子が壁際に置いてあり、小さな棚と、クローゼット、あとはベッドしかなかった。ベッドのそばには本が何冊か積んであった。
窓は開け放たれていて、ぬるい風が吹き込んでいた。どこかの家で晩御飯の準備をしていたのか、風に乗ってソーセージを焼くようなにおいが漂っていた。
「〈ゲルタさん?〉」
窓のすぐそばにあるベッドの上の、シーツの塊がもぞりと動いた。緩慢な動きで体を起こしたランドルフは、部屋の端に立ち尽くしている私を見て「うわ」と声を上げた。宇宙人でも発見したかのような顔をしていた。
「何やってるんですか」
「心配になって、来てみたの。大丈夫?」
ランドルフは「ええ、まあ」と心ここにあらずという様子で頷いた。顔色が悪く、座っているのも辛そうだった。
「ごめんなさい」
私が何に対して謝ったのか、ランドルフはすぐに理解してくれた。彼は気恥ずかしそうに頭の後ろをかいたあと、へらりと笑った。
「あーあ、どうしてあなたはピンピンしてるんでしょうね」
「キッチン借りてもいい?」
「どうぞ。好きなだけ私の城を荒らしてください」
言い終わらないうちに、ランドルフはベッドに突っ伏した。まともに私の相手をする気力もないようだった。
私は包丁とスプーンを駆使してりんごをすりつぶし、蜂蜜を混ぜてランドルフが眠るベッドに向かった。
ランドルフは横向きになって、静かに眠っていた。窓から差し込んだ光が彼の上気した頬を照らし、額には汗が滲んでいた。
汗を指の背でそっとぬぐってみると、まぶたがゆっくりと開き、うろんな瞳が私を見上げた。
「お腹すいてる?」
「あんまり」
「そう。でもこれ、食べてね」
「何のために確認したんですか」
文句を言いつつもランドルフは体を起こし、私が差し出した器を大人しく受け取った。そして、気だるそうにスプーンを口の中に運び始めた。私は半分朦朧としているランドルフから、タオルの在りかをなんとか聞き出した。小さなタオルを選び取って水に浸し、所々塗料の剥げた古びた椅子をベッドのすぐそばまで運んでいって、そこに腰を下ろしていざ、汗を拭おうとランドルフの額に手を伸ばした。すると彼は突然目が覚めたみたいにすばやい動きで私の手から逃れた。
「やめてください。そこまでしなくていいですから」
「嫌だった?」
「いやぁ」
「ごめんなさい」
「いや、そうじゃなくて」
引っ込めようとした腕をすかさずつかまれた。熱があるのだから当然だけど、ほとんど力が入っていなくて、熱かった。
「いけない人ですね。病人をもてあそぶなんて」
うらめしげに言われて、私はなすすべなく黙り込んだ。
ランドルフはすぐに手を離してくれた。それから何も言わずに食事を再開した。
私は再び勇猛果敢にランドルフの額に手を伸ばした。彼はやっぱりそれをよけた。
「食べてる間は大人しくしててもらえませんか!」
「はい」
私は待てをする犬よろしく行儀よく待った。そしてランドルフが全て食べ終わって、ベッドに仰向けになったところを見計らって再び手を伸ばした。今度は上手くいった。彼は全てを諦めたような顔をして、なされるがままだった。
首まで綺麗に拭いて、手を引こうとしたとき、引き留めるようにやんわりと腕をつかまれた。
「待って。気持ちいいから、そのまま」
ランドルフがうわ言のように呟いた。私は迷った末に、濡れたタオルを彼の額に乗せた。彼はタオルを押さえる私の手の上に、自分の手のひらを重ねてきた。
「あなたのおかげで命拾いしました」
ぐったりしながら大げさなことを言い始めたので、思わず吹き出してしまった。
「弱気ね。大丈夫よ、死ぬほどの熱じゃないから」
「いえ、違います。あの日、あなたに告白した日のことです。あのときひっぱたかれて、命拾いしました」
ランドルフは過去を思い浮かべるためか、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「男爵家が亡命してしばらく経ったあと、逮捕されたんです」
前置きなく突然打ち明けられた事実に、私は情けないほどうろたえた。
「逮捕? ランドルフが?」
「はい」
「どうしてあなたが逮捕されなくちゃいけないの?」
「革命政府が、反革命派を粛清するために国中に調査員を潜り込ませていたんです。それで、町に潜んでいた政府の人間に、私が男爵家と密かに繋がっていると、疑われてしまって」
「私のせい? 私がランドルフの家に行ったから」
「いえ、お嬢様の侍女だったマリーが、私とあなたの仲が怪しかったと吹聴していたんです。でも彼女の証言はあやふやで。他に二人が恋仲だったと証明する人間もいなかったし、家中ひっくり返されましたけど、当然あなたはうちに潜んではいませんでしたから。ダニエルさんの助けもあって、すぐに釈放されました」
苦しそうに息を吸いながら、ランドルフはポツポツと語った。申し訳なさやら安堵やらの感情がないまぜになって、私は返す言葉を見つけられなかった。窓の外から、子供たちの笑い声が聞こえてきた。
「国はひどい有り様ですよ。誰があんなことになるなんて予想できます? 王制が廃止されても、平民が政権を握っても、上に立てば人は皆同じですね」
「きっといつか、よくなるわ。なんでもそうでしょ」
何とか声を絞り出した。ランドルフは険しかった表情をふっとほころばせた。
「家庭教師を辞めたばかりの頃は、一杯一杯で。周りが見えてませんでした。その気になればあなたをさらったりできるかもなんて、考えてましたから」
ランドルフの手のひらから熱が伝わってきて、それが私の腕を経由して、頬までゆっくり移動した。
「だから、命拾いしました。あのときちょっとでも優しい言葉をかけられていたら、多分、止められなかった。自分ではもう、どうしようもなくて」
ランドルフは目を閉じていたから、私は彼の寝言をこっそり盗み聞きしているような気分になって、とても申し訳なくなってしまった。この話は彼が熱で朦朧としているときにするべきじゃない気がして、わざと話題を変えた。
「それにしても、無事でよかった。心配してたの」
「それは私の台詞です。あなたの姿を見つけたときは一生分の運を使い果たしたと思いました。だから、許します」
ランドルフはまぶたを持ち上げ、苦笑しながら私の顔を見上げてきた。私は彼の言葉の意味を測りかねて、困ってしまった。
「許すって、何を?」
「ダニエルさんの伝言です。あのタイミングは酷くないですか? 今考えてみても、あれは酷い。私があのあと、どれだけあなたを恋しく想って、苦しんだと」
途中で言葉を詰まらせたランドルフは、私の手を押さえているのと逆の手で自分の目元を覆って、そのままじっと黙り込んだ。
私は沈黙に耐えられず、到底場違いな、明るい声を出した。
「病気なのにいろいろしゃべらせてごめんなさい。疲れたでしょ」
「いえ。それほどは」
ランドルフはひとつ深呼吸したあと、濡れたタオルを押さえていた私の手をそっと持ち上げてしげしげと観察し始めた。私は火傷の痕がある左手でタオルを押さえていたことを心底後悔した。
「あんまり見ないで。ボロボロだから」
「でも、綺麗だ」
そう言って、ランドルフは私の手のひらに唇を押し付けた。




