24 霧雨
私は教会の祭壇の前に座って一人、ステンドグラスを見上げ、呆然としていた。
「〈なぁ、あの男、まだ外で待ってるぞ〉」
チャーリーが私の隣に座り、話しかけてきた。私はぎくしゃくとした動きで隣に視線を向けた。
「〈どうしよう〉」
「〈つきまとわれてるのか? 追い返そうか?〉」
「〈違うの。だけど会えない。どうしよう、すごく怖い〉」
チャーリーは首をかしげるしぐさだけで、どうして、と尋ねてきた。
そんなこと、私にだって分からなかった。
「〈だって私、変わっちゃった〉」
つぎはぎだらけの服。泥にまみれた靴。荒れた手。借金まで抱えて。彼が知っているのは気楽で能天気な頃の私で、その頃の自分も変わってしまった自分も、私は恥ずかしくて、隠してしまいたくてたまらなかった。
ランドルフは四年前と変わらず、いや、もっと素敵になったのに。
彼と話をすることを想像すると、みぞおちをぐっと持ち上げられるような苦しさを感じた。
何故ここに来たのかも、今まで何をしていたのかも、聞くのが怖かった。そんな臆病な自分を知られることさえ、恐ろしかった。
チャーリーはひとつため息をついたあと、どこかへ行ってしまった。しばらくして戻ってきて、紙切れを差し出してきた。
「〈帰ってもらったよ。これ、渡してくれって〉」
几帳面に折り畳まれた紙を開くと、そこには隣町の住所が記してあった。
ランドルフと再会してから一週間、私は一生分くらい悩んだ。誰にも相談しなかった。会いに行けと言われるに決まっていたから。
教会でのボランティアを終えたあと、私は歩いて隣町へ向かった。
考える時間が欲しくて、片道一時間の道のりを黙々と歩いた。霧雨が降っていて、暑さは感じなかった。
ランドルフがくれた紙に書いてあった住所には、葉っぱの形の看板を出している美容院の二階、と但し書きがしてあった。
それほど迷うことなく目的の建物を見つけた。だけど中に入る勇気はなくて、しばらく店の前でうだうだしていた。
さらさらと降り続ける雨が、はらってもはらってもまつげにまとわりついた。二階の窓を見上げながら、あそこにランドルフがいるのだと思うと、なかなか勇気が出なかった。
「〈いらっしゃい〉」
ぼーっと突っ立っていたら、声をかけられた。目の前にある美容院の扉から顔を覗かせていたのは、凝った髪型の老婦人だった。
「〈大丈夫? 雨宿りしたいなら構わないわよ〉」
そう言って手招きしてくれた老婦人を見て、私は腹をくくった。
「〈ランドルフという人を探しているんです〉」
私は何故かその場から一歩も動かず、少し離れた場所から老婦人に尋ねた。老婦人はふわりと微笑み、片手を頬に当てた。
「〈あのかわいい坊やのこと? 少し前に買い出しに出かけたみたいだけど、もうすぐ戻ってくるんじゃないかしら。店の中で待ってみたらどう? お茶をいれてあげる〉」
「〈いえ、留守ならいいんです〉」
私は早口にお礼を言って、それから逃げるように来た道を引き返した。
仕方ない。留守なら仕方ない。
何度も心の中で言い訳しながら歩き続け、二十分ほど経ったとき。
「待って!」
振り向かなくても、誰に呼び止められたか分かった。ひょっとしたら追いかけてきてくれるかもと、ほんの少し期待していた自分に、腹立たしさのようなものを感じた。
駆け寄ってきたランドルフに何か言われる前に、私はしどろもどろに言い訳をした。
「ごめんなさい、今日しか暇がなくて。避けてたわけじゃないの。だから、その」
ランドルフは肩で息をしながら片手をひらひらと振った。
「いえ、いいんです。急ぎの用があるって訳でも、ないですから」
膝に手を置いてぜぇぜぇ息をしているランドルフは、雨でびしょ濡れだった。
本当に、彼が本物だとはとても信じられなかった。お前は今幻を見ているのだと通りすがりの誰かに耳打ちされても、きっと驚かなかっただろう。
「送ります」
息を整えたランドルフは私の肩を抱いて歩き出した。私は慌てて首を横に振った。
「そんな、いいわよ。遠いから」
「せっかくここまで走ってきたんですから、送らせて」
走ってきたからか、ランドルフの腕は熱かった。だけど全く不快じゃなくて、だからといって平静でいられるわけでもなかった。幸い、私が大人しく歩き出したと同時に彼は手を離した。
しばらく無言で、ぬかるんだ道を歩いた。私はランドルフを濡れ鼠にしてしまったという罪悪感や責任感から、先に沈黙を破る任を請け負った。
「いつこの国に来たの?」
ランドルフは頭の中で計算するみたいに、斜め上を見上げた。
「もう一か月経つのかな。つい最近ですよ。お嬢様の居場所を突き止めるのには、ずいぶん苦労しました」
「もうお嬢様じゃないわ」
「そうでしたね。今は歌姫でしたっけ?」
含み笑いしながら言ったランドルフを控えめに肩で小突くと、彼は明るい笑い声を上げた。
「ダニエルさんから手紙を預かってるんです。直接渡したかったんですけど、雨の日に持ち出したくはないので。また晴れた日に持っていきます」
私は思わず足を止めた。
「ダニエルは無事なの?」
「ええ。あの人はそれはもう、立ち回るのが上手いの何の。私も何度か助けられました。でも、絶対に安全だとは言いません。今、国の政治は、国王が生きていた頃よりも悪くなりつつあるんです」
それは私も新聞を読んで知っていた。政権を握った革命家は、反革命派を手っ取り早く処刑できるような仕組みを次々と整えようとしていた。
再び沈黙が二人を包み、どちらからともなく無言のまま歩き出した。ランドルフは私に、何かを尋ねたりはしてこなかった。そこで私は思い出した。そうだった。この人はこういうやり方で気をつかってくれる人だった、と。
「いつまでここにいるの? ずっとこの国にいるわけじゃないんでしょう?」
いずれ、聞かなければならないことだった。いつ帰ってしまうのだろうとヒヤヒヤしながら毎日を過ごすなんて、想像するだけで耐えられなかった。
ランドルフはあいまいな笑みを浮かべ、頬をかいた。
「実は、帰国するための旅費までは準備できなかったんですよね」
祖国も、私たちが移り住んだこの国も、ここ数年ずっと不況だった。勝手の分からない国で人を探したり、部屋を借りたりするだけでも、ランドルフにとっては相当な出費だっただろう。
私は急いで頭の中で計算した。これから頑張って節約すれば、半年くらいで旅費を貯められるだろうか。それはさすがに、厳しいかもしれない。
そこまで考えて、ふとあることをひらめいた。お金に困った女性が、髪を売ってお金に換えたという話を聞いたことがあった。ときどき、あまりの生活苦にその話が頭をよぎることがあったけど、この瞬間まではいまいち踏み切れないでいた。
でも、これは最高の使い道ではないだろうか。私はそう確信した。これ以上の使い道はない。私だってランドルフの役に立てる。
「帰るためのお金、用意できるかも」
ちょうど馬車が通り抜けていったので、私の言葉を、ランドルフは上手く聞き取れなかったようだった。
「え? 何?」
「帰るためのお金、私が用意するわ。会いに来てくれて嬉しかった。だから、それくらいのことはさせて」
ランドルフは立ち止まって、いや、その、と何かを呟きながら視線を泳がせた。それから険しい顔でうーんと唸った。
「あの、すみません、見栄張りました。旅費が無いっていうのは、嘘です」
「嘘? どういうこと?」
「帰るつもりはないんです。そういう覚悟で、会いに来ました」
今度は私が動揺する番だった。やはり今目の前にいるのは私に都合のいい幻のランドルフではないかと、そう思えてきた。
「帰らないの? どうして?」
ランドルフはどうにでもなれというような態度で言った。
「私の気持ちはもう、ご存じのはずでしょう?」
細かい雨が屋根や窓を叩く音が、私の心をひっきりなしにかき回していた。すぐにでも心が破裂しそうだった。
「ランドルフ、あの、私今、毎日余裕がなくて、だから」
「いえ、いいんです。私もまずは自分の生活をなんとかしないと。別に勢い任せに攻め落とそうってわけじゃないんですよ。ただ、無事を祈るだけの毎日はこれ以上、耐えられなかったってだけで」
空は曇っていたけど、ランドルフのはにかんだ笑顔はとてもまぶしかった。私はこのときようやく理解した。どうして自分が、ランドルフの気持ちを上手く受け取ることができないのか、その理由を。
自分の気持ちが彼をどこかへ押し流していってしまいそうで怖かったのだ。だから私は心が氾濫しないように、私とランドルフの間に堤防を築くだけで、精一杯だった。




