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20 湧き水

 毎年夏が来ると、屋敷の住人たちは一か月間バカンスに出かける。この時期、屋敷の管理のために残された使用人たちは、交代で休暇をとることが許されていた。私も毎年一週間の休暇をもらって、ジーゲルトさんの邸宅で三日ほど家族と過ごしていた。


 駅馬車に乗って移動していたとき、長時間の移動で退屈したため、ランドルフにもらった古代語の辞書をためつすがめつ眺めることにした。中身を読む気力はなかったけど、本自体は私の心の支えで、眠るときなどはいつも、子供がぬいぐるみを抱えるみたいに胸に抱いて眠っていた。


 この本にすがるときはいつも心の余裕がないときで、だから受け取ってから三年も経っていたのに、私はこのときまで本の細部、特に本の中身にはあまり目を向けてこなかった。


 てっぺんから本を見下ろして、やっぱり歪んでるな、と再確認した。何が原因で歪んでいるのか急に気になって、私は本の構造を念入りに調べた。


 観察のかいあってか、おもて表紙とうら表紙の厚さが違うせいだということを突き止めた。


 うら表紙の方が少し厚かった。全体が厚いのではなくて、一部が崖の断面のように盛り上がっているのだ。


 私はうら表紙を開いて、盛り上がっているでこぼこを指でなぞった。次の瞬間、慌てて本を閉じた。


 心臓がバクバク鳴っていた。指は震えていたかもしれない。


 乗り合いの客に動揺していることを知られないよう、必死で呼吸を整えた。


 馬車が駅についてすぐ、私は馬車を降りて人気の少ないベンチに腰を下ろした。


 護身用のナイフをとりだし、本のうら表紙の内側を、慎重に切り開いた。蓋をするように革が縫い付けてあったので、その縫い目に沿うように四角く切り抜いた。


 革をめくると、そこには銀貨がぴっちり三枚、並んでいた。何故ランドルフが銀貨を仕込んだのか、私はすぐには理解できなかった。この物語の冒頭で、私は何もかもを偽りなくお話しすると約束した。だから正直に打ち明けよう。三枚の銀貨を発見したとき私がどんなふうに思ったか。これでパンが買える、と思った。パパの痛み止めの薬も買える。休暇のせいで減った給料を、気にしなくていい!


 こんな調子だったから、私の回想を通してでは、ランドルフの高潔さがいつまで経っても伝わらないかもしれない。だから今、冷静に説明しようと思う。


 まず、私が切り取った革の裏側には、古代語でこう書かれていた。


《私の敬意が、伝わりますように》


 この一文を読んだパパは、涙を流していた。あれは、私が生まれて初めて見たパパの涙だった。


 三年前、革命が始まる少し前。別邸に食料を届ける役目を引き受けてくれたランドルフに、ママとおばあさまが銀貨を三枚握らせたことを覚えているだろうか。男爵家に示してくれた敬意に対する報酬。そう言って、私たちを裏切ることに後ろめたさを感じるように仕向けた。


 あれはパパのアイディアだった。そしてランドルフは、このアイディアにこう返したのだ。「このお金が無くても、裏切りませんよ」と。


 私たちが亡命を決意した日、別邸ではなく屋敷に町民が押し掛けていた。当然だ。私たちが別邸にいることは、ランドルフしか知らなかったのだから。そしてあの日、彼の敬意を繋ぎ止めるための三枚の銀貨は、私の手の中にあった。


 たかが銀貨三枚で、と思わないで欲しい。下女の給料、一か月分はゆうに越える。不況、不作。そして、ランドルフは失業していた。首都は緊張状態で、国の先行きは不透明だった。もっと言えば彼はあの日、私たち家族を脅して大金を手に入れることだってできたのだ。もしも私が今、あのときのランドルフと同じ立場に置かれたとしたら、手の中に飛び込んできた銀貨三枚をみすみす手放すなんてこと、絶対にできないだろう。


◇◇◇


「新聞によると王政は廃止されたらしい。私たちは完全に没落した。領地は全て金を持った市民の手に渡るんだろう。くそ、ブルジョアめ」

「テオ。食事中にお金の話はやめて」


 久しぶりの家族全員での食事の場で、パパは珍しく饒舌だった。ママいわく、体を動かせないので口がよく回るようになったのだという。


 私たちは全員で、ランドルフのことを褒めちぎった。皆で楽しくお酒を飲めたのは、彼のおかげだったから。


 そして、話題はランドルフから叔父さん一家に移っていった。彼らとは手紙のやりとりをしていなかった。祖国は未だに不安定で、私たちから手紙を送るという行為はダニエルたちにとって危険だった。こちらから手紙を送れないから、ダニエルたちは私たちがどこに住んでいるか知らない。だからあちらから手紙を送るということもできないのだ。


「あなたとダニエルはきっと、素敵な夫婦になれたでしょうに」


 かつての栄光を思い浮かべるように、ママがしみじみとした口調で言った。私は最初、適当な愛想笑いを返していた。でもママの話が、私とダニエルの間に産まれるはずだった男爵家の跡取りの話題にまで及んだとき、とうとう神経質な声を上げてしまった。


「やめて。その話はしたくない」


 声が震えてしまった。ママははっと息を呑んでいた。私は涙が込み上げてくるのをなんとか耐えたけど、でもママにはお見通しだった。ママはなんでも見抜いてしまうのだ。


「ジル、ごめんなさい。ママを許して」


 ママはすぐさま立ち上がって、水っぽいスープを無意味にかき混ぜていた私を問答無用で抱き締めた。ママは行動派なのだ。


「ああ、どうしてこんなことになってしまったのかしら。あなたを産んだとき、世界一幸福な女性にしてみせると誓ったのに。私のかわいいひよこちゃん。あなたほど素晴らしい女性はいないのよ。分かるでしょう?」

「もうひよこちゃんじゃないわ」


 思わず笑っていた。ママも笑ってくれた。


「かわいいジル。忘れないで。あなたは私たちの誇りよ。どんな宝石よりも輝く宝物だわ」

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