14 アイスクリーム
ダニエルがパパたちとともに別邸を出発したあと、ランドルフはママお得意のお茶会に付き合わされるという憂き目にあった。
遠く離れた首都では緊張状態が続いているというのに、私たちは手入れの行き届いた庭で楽しくおしゃべりである。
私は助け船を出すつもりでランドルフを散歩に誘った。でもそれは賢い選択とは言えなかった。
バラの咲く庭園を二人で歩きながら、これほどまでに会話が弾まないことがあるものかと一人頭を悩ませた。
ランドルフに難はなかった。彼は見事なまでに自然体だった。問題は私だ。私がランドルフのことを意識しすぎていたので、会話が全然弾まなかったのだ。
「そんなに警戒しないで下さい。噛みつきませんから」
見るに見かねてランドルフが苦笑しながら言った。私は自分のぎこちなさをもう諦めて、ため息を吐き出すついでに呟いた。
「黙ってたのね。また雇われるってこと」
「ご容赦下さい。家族にも言ってないんです。両親は今、私が遊び歩いてると思ってますよ」
このときまで私は、ダニエルのやり方に賛同してきた。それでもランドルフが敵国に忍び込むスパイのように扱われていることを知って、さすがにやりすぎではないかと思ったのも、正直なところだった。
私の意味深な視線をどう解釈したのか、ランドルフは気まずげに頬をかいた。
「そういえば、あっちの遊びの方はお嬢様の忠告通り、少し前にやめましたよ。神父様に釘を刺されてしまって。まぁどのみち、今はそんな時間も無いんですが。本格的に父から製本を教わることになったので」
私はため息を押し殺し、空をあおいだ。
とんでもない勘違いにとらわれていた虚無感が、どっと押し寄せてきた。ランドルフが女遊びで死ぬことはない。誰と何をしようが安全だ。彼に迫っていた危険は、私が彼を拒んだことで綺麗さっぱり去っていった。
ランドルフは心なしか明るくなったように見えた。憑き物が取れたというか、まぁ本当に取れたわけだけど、それにしても悔しくなるくらいに清々しかった。
どんな答えでも受け止められる、という彼の言葉に嘘はなかったのだ。彼はもう次に進み始めていて、私は未練がましく足踏みしていた。
ランドルフは製本の仕事について楽しそうに話して聞かせてくれた。私の叔父さんが首都に行ってしまったため印刷工場が動いておらず、そのせいで製本の仕事も滞ってしまうという話になったとき、私は何気なく言った。
「ダニエルに頼めばきっと、工場の鍵を貸してくれたのに。従業員がいれば叔父さんたちがいなくても印刷はできるでしょう?」
「ああ、それは業界のタブーなんですよ。出版、印刷の業者と製本業者は、それぞれ互いの職分を越えてはならないという暗黙の了解があるんです。首都には法律もありますよ。セヴェールさんもダニエルさんも、賢い人ですからね。私を金で雇いはしても、背中を見せたりはしないでしょう」
私はとたんに、自分の無知が恥ずかしくなった。ダニエルの婚約者としても、ランドルフの教え子としても、失格のような気がして頬が熱くなった。
「心配じゃないですか?」
私の内心を知ってか知らずか、ランドルフが気遣わしげに言った。何が、と聞かなくても、ダニエルのことだと分かった。
緊張状態にある首都にダニエルたちが向かうことに、不安がなかったと言えば嘘になる。でも私はあまり心配していなかった。何故かというと、ダニエルやパパたちの背後に黒い影が見えなかったから。私は自分の影を見る目というものに、根拠のない自信を持っていた。
「大丈夫だと思う」
ランドルフは微かな笑みを口元に浮かべた。
「信頼なさってるんですね」
羨ましいな、と彼が呟くと同時に、庭の真ん中にある池で水浴びしていた水鳥が勢いよく飛び立った。
ランドルフはママとおばあさまに見つからないようこっそり別邸をあとにしようと試みた。だけど彼女たちには第六感でもそなわっていたのか、彼の逃走はすぐにバレた。ママとおばあさまはあくまでもおおらかな態度で、逃げる背中を呼び止めた。
ランドルフはしまったという顔で、逃走の手助けをしていた私の顔を見下ろし苦笑した。共犯者になれたみたいで、私は心の中でどうしようもなく浮かれた。あと少しで彼の首に飛びつきかねなかったと思う。
ママとおばあさまはランドルフの手に何かを握らせた。ランドルフは手の中を見て、慌てたように首を横に振った。
「いえ、これは頂けません。もうお金は受けとりましたから」
彼の手の中を覗いたら、そこには銀貨が三枚乗っていた。相場をご存じない方のために申し上げておくと、当時の銀貨一枚は、肉体労働者の五日分の給金に相当した。
「ランドルフ、これはあなたが男爵家に示してくれた敬意に対する報酬です。どうかこれを受け取って、私たちは常にあなたに感謝しているということを、忘れないようにしてね」
私はこのとき、あまり深くママの言葉の意味を考えていなかった。でもランドルフはママの言葉の裏を一瞬で理解したと思う。後ろめたそうな顔をして、銀貨をポケットに入れていた。
この出来事から三年ほどあとになって、私はあの三枚の銀貨の意味をようやく理解した。
あれはつまり、何があっても私たちを決して裏切らないようにという、脅しだったのだ。
◇◇◇
別邸で生活するようになってから、私は掃除に凝り始めた。バスルームやキッチンなどの水回りの掃除には特に凝っていた。ママとおばあさまは手が荒れるからやめなさいと言っていたけど、私は自分の、環境の変化に順応する能力に一種の自信のようなものを持ち始めていた。
確かに生活の雑務を楽しんでいたのは最初だけで、最後の方はもう惰性だったけど、でも私は失恋の悔しさや悲しみを乗り越える方法を掃除以外に見つけられなかった。だから、ひたすら掃除に没頭した。
あの時期の落胆する気持ちを、何と表現するのが一番分かりやすいだろうか。一口舐めただけのアイスクリームを水溜まりに落としてしまった感じ、というのが、いい線いっているかもしれない。
ちなみに別邸では、ランドルフと頻繁に会うということはなかった。
別邸に滞在した期間が短かったというのもあるし、ダニエルの指示で、ランドルフは日持ちのするものばかり別邸に運び込んでいたというのも、理由の一つだ。だから私たちが顔を合わせたのは別邸に移動した日を含めて三回だけ。
ランドルフと顔を合わせた、最後の日。あの日の思い出が、どれだけ私の心の支えになったことか。




