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13 水路

 あのとき震えていたのは私だったか、彼だったか、細かいことは思い出せない。彼の顔が離れていったとき、私はようやく目を開いた。そして彼ではなく彼の肩に張りついている、影を見た。


 ここまで私の話に付き合って下さっているあなたなら、あの瞬間の私の絶望をきっと理解して下さるはず。少なくとも私がこのあとにとった行動の理由は、分かって下さると信じている。あのときの二人のキスがランドルフにとって良い方向に作用しなかったと言えば、もう十分だろう。


 生まれて初めてのキスのあと、生まれて初めて人を殴った。


 頬をはたかれたランドルフは、ほんの数秒間放心していた。その数秒の間に、不思議なことが起こった。彼の背後に居座っていた影が、蒸発するみたいにすっと消えて無くなったのだ。


 しばらくは何が起こったか理解できなかった。


 やがて、悟った。女遊びなんて関係なかった。私が彼を突き放せば済むことだった。あの影の原因はやっぱり、私だったのだ。そうでなければこのタイミングで消えるわけがない。


 足に力が入らなくなってその場に崩れ落ちた。ランドルフの手を握ったままだったから、彼も私に引きずられるように身を屈めて、地面に膝をつかなければならなかった。


 好きだと言ってもらえて嬉しい。キスできて嬉しい。そう言いたいけど言えなかった。言えばまたあの影が現れるかもしれないと思うと、怖かった。


「申し訳ありません。もう二度としません。お許し下さい、お許しを」


 キスをしたせいで私がショックを受けているのだと勘違いしたランドルフは、何度も謝罪の言葉を繰り返した。


 彼が私の涙をぬぐうことはもう無かった。指一本触れようとはしてこなかった。ただ、繋いだ手だけは離さなかった。私が泣き止むまで、雨が止むまでずっと、ランドルフは私の手を握っていた。






 何気ない出来事だったけど今でも鮮明に思い出せるから、ついでにお話ししておこうと思う。


 雨が止んで、私の足の感覚が戻ったあと、私たちは送迎の馬車が待っているはずのランドルフの家に戻ろうと歩き始めた。


 ずっと手を繋いだままというのは奇妙だという考えが、ほぼ同時に二人の頭の中をよぎったと思う。私たちは穀物庫の屋根の下から出た瞬間、どちらからともなく自然に手を離していた。


 でも途中、大人一人ぶんくらいの幅がある水路に架けられた、並んで歩くにはちょっと窮屈な石橋を渡るとき、ランドルフは儀礼的に私の手を取った。


 水路は少し濁っていて、雲間から光が覗いている様をその身に映していた。その中を、絵の具をかき混ぜるみたいに一対のカモが仲良さげに泳いでいた。私は橋の真ん中で立ち止まって、しばらくカモを観察した。ランドルフは何も言わず私が動き出すのを待っていた。


 私は、橋を渡りきれば離れてしまうであろうランドルフの手を握りしめたまま、二羽のカモを睨み続けた。何故か時々、このときの光景を思い返して空想してしまう。私もあなたのことを愛しているとランドルフに告白して、彼の胸に飛び込むという場面を。その瞬間、私たちは世界一幸せな恋人同士になる。そのあとのことは頭から閉め出して、その瞬間だけを何度も繰り返す。叶うはずのなかった瞬間を、何度も何度も。


◇◇◇


 きっともうランドルフには一生会えないのだと思い、その日の晩は干からびるくらい泣いた。


 世界中の不幸を一身に背負ったような気分に浸っていたけど、彼とは案外あっさりと再会できた。キスした次の日にはもう対面していた。彼は男爵家の別邸で、私たち家族のことを待ち受けていた。


 ランドルフはセヴェール家の男性陣が首都の様子を見に行く間、別邸に身を隠す女性陣にこっそり食料を届ける、という役目を引き受けていた。


 というのも、私たちが別邸に身を隠すことは、万が一に備え町の者たちには秘密にしなければならなかったからだ。私たちは暴動が起こったとき、別邸を襲撃されることを一番恐れていた。


 だから信用に足る人間のみで、生活を成り立たせる必要があった。家の中のことは全て自分たちで行う。家の外でしかできないことは、信頼できる人物に任せる。


 そしてパパたちが選んだ信頼できる人物というのが、ランドルフだった。


「少なくとも私たちは、飢え死にすることはないわけね」


 別邸に移動すること自体に反対していたおばあさまは、素っ気ない口調で言った。おばあさまは自分で服を着替えたり寝具の準備をしなければならないことに苛立っていて、ランドルフに対する感謝を忘れてしまっていた。


 食料を別邸に運び入れる手順をダニエルがランドルフに説明しているところを、私は遠くから見つめていた。話が終わったところを見計らって、二人に話しかけた。


「どうして私には教えてくれなかったの」


 ダニエルが悪気のない態度で答えた。


「マリーに知られないように、黙ってたんだ」


 侍女のマリーは、ダニエルの判断でこの作戦から弾き出されていた。


「知らなかったでしょうけど、私にだって秘密を守ることはできるのよ」

「態度とかでバレるものだよ。ジルは何か、変に浮かれそうだし。ランドルフ先生が大のお気に入りだもんな」


 軽快に笑うダニエルのそばで、私とランドルフはそれはそれは気まずい思いをした。ダニエルは私たちの微妙な空気を察したようで、少し怪訝な顔をした。でも理由を訪ねるなんていう野暮なことはしなかった。


「それにしても、ひどい顔だな。どうしたんだ。そんなに使用人のいない生活が心配?」


 私の泣き腫らした顔を見て、ダニエルは呆れたような口調で言った。私はちょいと肩をすくめて見せて、言い訳や作り話をする手間を省いた。


 ダニエルは困ったように笑ったあと、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でて、ランドルフと向き合った。


「ジルのこと、よろしく頼むよ。もし何か困ってたら、助けてやって」

「……給金分は、きちんと働きます」


 ランドルフの答えを聞いて、ダニエルはまた、困ったように笑った。

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