49 鳳凰暦2020年4月20日 月曜日朝、小鬼ダンジョン
校門前で準備運動をする彼に合わせて、私――平坂桃花も身体を軽く解しました。
そして、門が開くと、彼は「行く」と一言、そのまま駆け出します。かなり速いですけれど、この前見た時よりは遅いので、私を気遣ってくれているのかもしれません……。
……いえ、ロッカー棟を無視してそのまま小鬼ダンへ。私、リュックを背負っているのですけれど、気遣いはなかったです。そういえば、前に見た時も、ロッカー棟など無視していました。
ゲートを抜けて、中に入っても彼は止まりません。「最短コースで」と一言。一瞬、意味がわかりませんでしたけれど、彼の選んだルートで理解しました。2層を目指しているようです。最短で。私は慌ててスモールバックラーシールドを左手、メイスを右手に持つと、彼を追いました。
そこからはもう、驚きの連続であり、衝撃の連続でした。彼はいったい何者なのでしょうか?
外部生のはずの彼が、最初のゴブリンに『釣り』を仕掛けたのです。これはモンスターの攻撃を躱して挑発し、引き連れてパーティーメンバーのところに連れて行く、狩りの技です。ソロで動いていた彼がいったい誰に教わったというのでしょう?
そこで終わりではありません。『釣り』なら、私の経験では3体までだと思うのですけれど、彼は4体目以降も釣って、そのまま走り続けたのです。
流石に走りながら話すのは難しく、私は戸惑いながら、彼を追いました。既に有り得ない状況ですし、これではトレインとなって、命の危険があります。相手がゴブリンでも数は脅威です。
それと、外部生の彼が2層までの最短ルートを迷いなく選んで進むことも不思議です。でも、これについてはガイダンスブックにあるので本気で覚えれば不可能ではないですから、まあ、まだマシな驚きです。マシな驚きとは何なのでしょうね?
結果、22体のゴブリンのトレインを2層への下り坂の手前で待ち構えることになったのです。
「右、お願い」
「はい!」
彼の声に思わず返事をしてしまいましたけれど、ペア戦闘で相手が複数、そして右利き同士なら盾が外になる左サイドが上位者です! 私はどうやら既に冷静ではなくなっています!
「1匹ずつ、送るから」
「え……」
ギリギリまで引き付けたゴブリントレインに対して、彼は何の迷いもなく飛び出しました。
トレインという精神的に追い込まれた状況下で、私はこの頃はたかがゴブリンと舐めていたはずの1層のこのモンスターに、今までになく集中して挑み、1体ずつ倒していきました。4体目を倒した時は、彼が私の目の前で消えたゴブリンの、すぐそこに落ちた魔石を拾っていました。
「あ、あれ……? トレイン……?」
……私、4体しか倒していないのですけれど……あとの18体は、どこに消えたのでしょう?
「魔石は回収したから、次、行く」
彼は2層への下り坂を走り始めます。
「え……え?」
とりあえず、私は彼を追いました。追いながらさっきの状況を考えます。
私が4体目を倒すとほぼ同時に魔石を拾った彼がいました。
私が4体目を倒した時には、他のゴブリンはいなくなっていました。
そして、何より、22体のトレインのはずなのに、確かに、それも絶妙のタイミングで、4体のゴブリンが1体ずつ、私の前に来たのです……。
いえ、それよりも……さらにはまず1度目の最大の衝撃ポイントが――。
「平坂さんのワルツはすごく綺麗で流れるようにゴブリンを倒すよな! ただ、3のトドメはもっといくつかのパターンを増やした方がいいと思う。2のトメでみぞおちから振り上げて3のトドメは裏拳みたいに後頭部への振り下ろしだけだったし。あ、1層のゴブリンだからかな? ごめん。そりゃ他にも練習してるよな。でも、1層のゴブリン相手での実戦練習が大切になると思うから、2のトメで膝を割って、3のトドメで側頭部とか、別のパターンを組み込んでの連続戦闘なら、どういうメイスの流れを作るかまで考えた方がもっと早く処理できるしな。イメトレならどこでもいつでもできるし、素振りだってここの校内なら場所はいくらでもあるし」
――彼がいつもの軽く50倍以上はしゃべっているのです⁉ 話す内容も衝撃的ですけれど、彼が話すこと自体にものすごく衝撃を受けました。ひょっとしたらこの発言だけで、今まで私との間で交わした全ての会話の文字数を上回っている可能性があります。というか、たぶんそうです。上回っていますよね?
ワルツ、というのは、附中で教わる3段階ダンジョン戦闘法で、1で相手の攻撃を受け、2で相手の動きを止め、3でトドメを刺す、そういうものです。私のワルツは先生方にもお手本だと言われるような、学年一のワルツだと私自身も思っています。その私に向かって……いえ、内容的にとても勉強になる気がするのはなぜでしょうか……? あと、いつの間にそのようにじっくりと見ていたのかも理解できません。戦闘中でしたよね?
しかも、私が会話をあきらめるくらいのペースで走りながらの驚きの長文ゼリフです。もう何がなんだかわかりません。
2層に入っても、彼はまた同じでした。
分かれ道は迷いなく正解を選択し、最短で3層方向へ走り、2層からは2体ずつ現れるゴブリンメイスに対しても13回とも『釣り』を仕掛けて、26体のトレインを形成し、3層手前で対峙して、私を右へ立たせて1体のゴブリンメイスに集中させると、いつの間にか、魔石を拾って私の横にいるのです。
私、26体のゴブリンメイスのうち5体しか、しかも1体ずつでしか相手をしなかったのですけれど、本当に、どうなっているのでしょうか?
「じゃ、次」
そう言うと、彼は3層への下り坂へ踏み出します。
「あ、ちょ……」
呼び止めるよりも彼の加速の方が先です。もう追いかけるしかないのです。
「やっぱり魔石以外のドロップはなかなか厳しいよな。あれだけの数を捌いてるのに、ひとつも落ちないし。1層の魔石が百円、2層の魔石が二百円なら、2層は二百五十円の方がいいと思うんだけど。2層に行かずに1層で倍、狩る方が効率はいいと思うし。1層から2層の最短ルートでさえ22エンカウントなんだから、2層に行く前にもう2層で11匹分、稼いでる。ギルドはもっと、先へ進むモチベーションについて考えるべきだし、学校側もギルドとそういう話を詰めないと。学校の運営費として半額巻き上げるのは仕方ないとしても……」
頭の中でぐるぐると、理解不能な何かが回っています。彼は学校の理事でも、ギルドのマスターでもなく、高校1年生でしかないと思うのですけれど、何かがおかしいのです。あと、本当に、長文でしゃべってる彼は新鮮です。走りながらなので言葉を返せないのが残念でなりません。
それにしても、今から3層なのです。私は附中の3年間をかけて、限られた戦闘の機会しかありませんけれど、そこで本当にギリギリの努力をして、3層へ踏み込める、3層で戦える力を身に付けてきました。
附属高へ入学したばかりと言ってもいいこの時期に、外部生が3層へ立ち入るなんて、考えられません。でも、彼は何の迷いもなく進んで行くのです。
「アーチの矢に注意」
「は、はい!」
そして、まるで私が完全な格下の扱いなのです⁉ 私、これでも附中の首席ですけれど⁉
流石に3層はその場で戦うだろうと思っていたのですけれど、その考えは即座に打ち消されてしまいました。またしても、『釣り』を始めたのです。彼は。
3層はゴブリンソードマン2体とゴブリンアーチャー1体の合計3体とエンカウントするのです。もう『釣り』はやらないと思っていたのに、有り得ないです。2層までと違い、アーチがいるので矢が飛んでくるのですから。
「僕の半歩前へ!」
「はいっ!」
彼からの強めの指示に返事も大きくなってしまいました。
「後ろの矢はこっちで捌く。前の矢だけに集中して」
「はい」
時々、矢をはじくような、カンとか、カツンとかいう音が聞こえます。彼が防いでいるのでしょう。それもこのスピードで走りながら、後ろからの矢を、です。
そして、分かれ道は、おそらく、ボス部屋への最短ルートです。私でさえまだ確信をもってこっちが最短とは言い切れません。それなのに……間違いないと思います。先輩が最短ルートは9回のエンカウントだと言っていました。9回、釣って、今、ボス部屋の扉が見えました。初めて見ました。あれ? まさか、この流れはひょっとして……え……?
「次は左に、入って!」
「え?」
「急ぐ!」
「はいっ!」
3層には弓矢を使うアーチがいるのです。矢が飛んできます。この場面こそ、左手に盾を持つ私が右サイドではないでしょうか? 左サイドでは私の盾で彼のことをカバーできません。
「大丈夫、1匹ずつ送る」
「は、はい」
信じられない言葉です。信じられない言葉なのですけれど、2層までの実績が、それを私に言わせません。そもそも彼は私と並んで戦うつもりはないようなので、立ち位置の左右は関係ないのでしょう……。
だからといって、3層では目の前のゴブリンソードマンだけに集中する訳にはいきません。ゴブリンアーチャーからの矢が飛んでくるのです。だから私は、冷静に、広い視野を保ちながらも、目の前の敵に集中して――。
……そこで、私は、初めて視界の端に入ってくる彼の戦闘を見ました。それが2度目の最大の衝撃ポイントでした。最大が2度もあるのはおかしいのかもしれませんけれど、でも、そうなのです。
それはもう、言葉にできないような、圧倒的に美しい、何かでした。
ゴブリンソードマンを1体だけ見逃して私へ差し向け、その次の2体に対して同時にメイスを振るって頭をふたつ、ほぼ同時に、連続して破壊しました。一撃二殺。それは、日本ランク1位のトップランカー、陵竜也が得意とする技です。それを左手のメイスでできるなんて彼は左利きだったでしょうか――と思っていたら間髪を入れず、右のショートソードで同じように一撃二殺、新たなゴブリンソードマンを2体同時に斬り捨ててしまいました。
ショートソードとメイスの二刀流で、しかも、どちらでも一撃二殺が可能……。これを見て衝撃を受けないダンジョンアタッカーがいるのでしょうか。ゴブリン系の魔物が相手とはいえ、こんなことはあの陵竜也でも不可能だと思います。
ゴブリンソードマンのショートソードをスモールバックラーシールドで受け止めながら、トレインという状況に混乱して1層と2層では気づかなかった彼の圧倒的な殲滅力を私はここで理解したのです。設楽の一撃必殺もすごいと思いましたが、それでも彼と比べることはできそうもありません。その差は圧倒的です。
それだけではありません。9体のアーチ――ゴブリンアーチャーが放つ矢を、私を狙った分は左のメイスで叩き上げて弾きつつ、そのついでとばかりにゴブリンソードマンに一撃を喰らわせました。彼自身を狙ってきた矢はショートソードで斬り払いつつ、これもまたついでとばかりにゴブリンソードマンの喉を正確に斬りつけるのです。一撃二殺が飛んでくる矢にも応用されています。
左のメイスはメイスでありながら、時には盾のように剣や矢を受け止め、右のショートソードは乱舞して敵を斬り裂きます。トレインという少数対多数の戦いの中で、彼はまるで暴風雨のようです。
さらには、私がワルツの3でメイスを振ろうとする絶妙のタイミングでゴブリンソードマンを1体、後ろへと躱して流すのです。あまりにも戦闘のテンポとリズムが良すぎて気持ちがいいのです。これは本当に戦闘なのでしょうか。
彼は、後方のゴブリンソードマンをすれ違いざまに蹴り倒すとアーチの群れの前に飛び出し、至近距離からの矢を避けたり叩き落したりしつつ、さらには私を狙っていたアーチを1体倒して、アーチの後ろへと抜け出ます。それだけでアーチは彼を振り返り、私を視界から外します。そして、さっき彼が転倒させたゴブリンソードマンは、おそらく、ちょうどよいタイミングで立ち上がって私の4体目の相手となるのでしょう。
なんでしょうか、この気持ちのいい敗北感は。どういう訳か、悔しさが全く湧いてきません。私は自分で負けず嫌いだと思っていたのですけれど、彼に対してはそれが発揮されない、いえ、発揮できないようです。とても真似ができるとは思えません。
接近戦になって、中遠距離攻撃役のアーチが彼に敵うはずがありません。残り8体のアーチは、彼がメイスを2度、ショートソードを2度、それだけ振るうと、消え去りました。
彼は魔石を拾い始めました。ああ、このタイミングでしたか。私が3体目を倒すと、転倒した状態から起き上がったゴブリンソードマンが、私へと踊りかかろうとしてショートソードを振り上げています。
そして、私が最後のゴブリンソードマンにワルツの3でトドメを刺すと、彼は私のすぐ近くで、そこに落ちた新たな魔石をすっと拾ったのです。
ゾクリ、と全身が震えました。
彼は、全て、計算して動いているのです。まるで、ゴブリンどもがどのように動くのか、全てわかっているかのように。
「じゃ、次」
「……はい」
ここは驚くところですけれど、実際、驚きはありますけれど、その驚きを隠すことができたと思います。ここへ釣ってきた時に、このことについては予想していたのです。
彼はボス部屋の扉を迷わずに押し開きました。彼が私を格下として扱う理由がよくわかりました。彼は、もうすでに、何度もこの部屋に入っているのです。そういう、本当に慣れた動きでした。
こうして、私の初めてのボス戦は、朝の一杯のコーヒーのようにさりげなく、それでいて当然の物として朝の食卓に並ぶように、そしてそれと矛盾するのですけれど、あまりにも突然に、始まったのでした。
もし、時間を戻せるのであれば、叫びたいのです。
せめて心の準備ぐらいはさせて下さい、と。
初めてのボス部屋なのです……。
鈴木、トーキング、長文




