92 石の棺
魔竜ララと一緒に飛び立ったノール先生は空の上であの怪物と対峙し、すぐさま私たちの頭上で信じがたい光景を繰り広げた。
ララはあの巨体すら霞むような凄まじい速さで空を縦横無尽に旋回し、上昇と急降下を繰り返しながら強烈な『破滅の光』で怪物の身体を幾度となく灼いた。
自らの身を灼くララを落とそうと、怪物は無数の極大の黒い雷を放つが、ララの背に立つノール先生がそれを瞬時に『黒い剣』で弾き、遠くの平原や山へ難無く捌いて落とす。
────その度に、凄まじい雷鳴が大地を揺るがし、黒い閃光が彼方の地形を削り取っていくのがわかる。
時折、ミスラの上空全てを覆えそうな程の馬鹿げた威力の炎が空を満たすが、私とアスティラさんが二人掛かりで押し戻すことがやっとだったあの灼熱の炎の塊を、魔竜はあの巨きな翼で一つ羽ばたくだけで強引に押し戻し、逆に怪物をその炎で焼いていた。
その怪物が怯む瞬間を見逃さず、ララは更に強力な『破滅の光』を目前の肉塊に容赦無く叩き込み、一瞬で赤黒く変色した空が白んだ。
直後、視界の全てが直視できないほどに眩しく輝き、遅れて爆風が地上に吹き付け、建物を崩し、瓦礫を吹き飛ばす。
ひたすらに止むことのない轟音と閃光と劫火。
そんな中で、ノール先生とララはずっと戦い続けていた。
────最早、常人には何が起きているか分からない領域だった。
「……すごい」
私は上空で繰り広げられるその壮絶な光景に見入っていた。
地上もまた激しい戦闘の最中だというのに、そのことを忘れてしまうぐらいに。
それは最早、私達人間が一瞬たりとも関わることを許されない、遥か上の存在同士の衝突だった。どんな豊かな想像力を持つ者も決して思い描けないような────まるで神話の神々が死力を尽くして戦っているような光景。
「すごいね……あれ」
天上の戦いに心奪われていた私は隣で一緒に空を見上げるロロの声で我に返った。
「……ロロ、すみませんでした。急にララにも無理をさせるようなことをお願いしてしまって……でも、今はああいう方法しか思いつかなくて」
「ううん、彼女は喜んでたし、良いと思うよ。今もすごく楽しそうだし」
ロロは空を見上ながら言った。
「そうですね……でも、このままでは勝てません」
私は先ほどロロに私の頭の中にある朧げな意図を読み取ってもらい、ノール先生にララと共に空へと向かってもらうことにした。
イネスによれば、あの怪物はあらゆる金属を切り裂く彼女の『光の剣』でも斬ることすらできなかったという。
でも、私は先程ノール先生があの化け物を砕くのを目にしている。
どういう理屈かはわからないが、ノール先生が手にする『黒い剣』ならあの得体の知れない存在を砕き滅ぼせるということだ。
だから、先生にはララと一緒に上に向かってもらったのだが────でもこのままでは、まずい。
先生は、なかなかあの怪物に近づけないでいる。
そしてあれだけ凄まじい熱線と炎に焼かれているというのに、あの怪物がダメージを負っている気配がない。
おそらく、あの肉に包まれた本体を叩かねばあれを倒せない。
でも、一撃で都市を滅ぼすほどのララの『破滅の光』の破壊力を以ってしても、あの怪物の肉を削れる量はごく僅か。
あと一つ、状況を打開する戦力を空に向かわせる必要がある。
「────イネス。お願いできますか」
「……本当に宜しいのですか、リンネブルグ様」
イネスが押し寄せる魔物の群れを薙ぎ払いながら、振り返って私の顔を見た。
「はい。地上は私達で抑えますから」
「しかし……御身に何かあっては」
イネスは不安気な表情で私の目を見つめた。
彼女の言いたいことはわかっている。
今、ほぼ彼女だけで魔物の群れを抑え込んでいる。
私たちはイネスを先頭として陣を組み、彼女が『光の盾』で魔物の大軍勢を薙ぐだけで、あっという間に視界に映る脅威が一掃される。
おかげで、私たちは少し気を緩め、負傷者の手当てが出来るぐらいの余裕が生まれた。
でも、イネスが地上を離れたら、状況は一変する。少なくとも、会話をする余裕などなくなるだろう。
「……すぐに行ってください。今、最も貴女の力を必要としているのはノール先生ですから」
イネスはしばらく沈黙し、考えると口を開いた。
「────承知しました。ですが、くれぐれも御身を第一にお考えください。お怪我をなされては私の立つ瀬がありません」
「……わかりました。イネスも、くれぐれも気をつけて」
「はい。ではリンネブルグ様。どうかご無事で」
そう言ってイネスが『光の盾』をひと薙ぎすると、視界に映る全ての魔物が水平に斬り裂かれ、一瞬で骸の山となった。
そして、彼女はそのまま空中に小さな『光の盾』を幾つも作り出し、上空まで連なる階段状の足場を築くと、すぐさま垂直に駆け上がり、あっという間に見えなくなった。
────彼女の向かう先は、あの天上の戦いの最中。
イネスは私の身を案じてくれたが、彼女こそ人の心配をしている場合ではない。
でも、行ってもらわねばならない。
彼女以外、あそこに介入出来る人物などいないのだから。
そうして、私達を守る最強の『盾』がなくなり私は周囲に居る人々に声を掛けた。
「皆さん、これで休憩は終わりです……準備はいいでしょうか」
「ああ、おかげで少し休めたよ、リーン」
「ええ、もう怪我で動けない人はいないみたいですね。すごいですね、あの人……ええと、イネスさんでしたっけ……?」
私の後ろにはロロと、ティレンス皇子、アスティラさん、『十二使聖』の【右舷】の六名が立っていた。
それ以外の人影はもう周囲にはない。
先程まで、ここにはたくさんのミスラの騎士たちがいたが、彼らは先程の魔物との混戦で負傷した者が多く、アスティラさんと私で一緒に簡易的な治療は施したが……ここに残ってもらっても、必ず無駄死にと多くの怪我人が出てしまう。
だから、ここに残っている十名を除き、他は市民の避難に専念してもらうことにした。
その選定は私が行い、今後の指揮もティレンス皇子から兵の指揮を委任される形でこの『作戦』を立案した私が取ることになっていた。
でも────
「……絶対おかしいわよ……! あのクレイス王国のお姫様は、本当にこんな人数であんな数の魔物をどうにかする気なの……!? ……いくら殿下のご命令でも、ちょっと納得いかないわ……!」
当然、不満は残る。
十二使聖のミランダさんは彼らを集め、私が説明したことに戸惑っている様子だった。
「口を慎め、ミランダ。彼女に従うのは猊下及び殿下の命でもある。こんな場で不敬を働く気か」
「……で、でも……いくらなんでも、あんな方法……!」
「……悪いね。ミランダ。彼女にこの現場の指揮を任せたいと言ったのは僕だ。彼女の方が、僕よりもずっとこういうことに長けているからね。もし、何か不満があったら遠慮なく僕を責めてもらってもいい」
「……で、殿下……!? け、決してそのようなつもりでは……!!」
「ならば、大人しく従え。ミランダ」
「……わ、わかったわよ……!」
……彼女の気持ちは理解できる。
当の発案した私でさえ、迫り来る魔物の群れを前に尻込みしかかっている。
「……では、ミランダさん、ペトラさん。私と一緒に『隔壁』の作成をお願いします」
……出来れば、ミランダさんの気持ちが落ち着くまで待ちたいところだが時間がない。
先ほどのイネスのひと薙ぎで魔物の群れは滅ぼされたが、すぐさま『嘆きの迷宮』の入り口から魔物が沸き、あっという間に群れが膨れ上がった。
あの群れがこちらに辿り着くまで、それほどの時間は要しないだろう。
急いで準備を整える必要がある。
「でも……ね、ねえ。ほんとうにやるの!? 意味は理解できるけど、でもそれってつまり私たちみんな────」
「────ミランダ。ミスラの民を護る為よ。貴方も協力なさい」
「で、でも……いくらなんでも、やっぱり……!」
「……ミランダ。他国の『貴賓』が身を呈してまでここに残ってる意味はわかってるわよね」
「ひっ────! わ、わかったわよ……!! 余所者にそこまでされて尻込みしてるなんて、この『十二使聖』【聖典】のミランダともあろう私が、カッコがつくわけないじゃない……!」
「……なら、すぐに始めるわよ。時間がないわ、集中なさい」
「……わ、わかってるから……!! 急かさないで……!」
うろたえているような口調とは裏腹に、ミランダさんはほんのひと呼吸する程の一瞬で魔力を高め、直ぐにでも魔法を放てる状態になった。
「……もう、いいわよ。やるならやって」
「こちらも。準備は出来ています」
────【聖典】のミランダさん。
────【偽典】のペトラさん。
彼女達はおそらく十八歳前後で若く、私とそう歳は離れていないが、やはり一流の魔術師だった。
私も彼女達に合わせてすぐに魔法の発動準備を整える。
「では、行きます────」
そして私達は三人で呼吸を合わせ同時に魔法を発動させた。
「「「【石壁】」」」
すると、轟音を立てながら分厚い巨大な岩が次々と空に向かって聳え立ち、石壁となって私達を囲んだ。
一瞬で屹立した硬質の岩の壁を見上げ、私は自分が提案したことながら思わず身が竦む思いがした。
もう、何処にもミスラの街の建物は見えない。
あっという間に、私たちから見渡せるのは石の壁と瓦礫の山、そして迷宮の入り口と魔物の群れだけになった。
あの高さの石壁は、容易には乗り越えられないだろう。
魔物の群れも、もちろん私たちも。
これで、何処にも逃げ場がなくなった。
「……うぅ……! こうなるのはわかってたけど。本当に、自分たちごと閉じ込めるなんて……!! ……こんなの、ほとんど石の棺じゃない……!!」
ミランダさんの言う通り、私が十二使聖の彼女達の力を借りて完成させたのは巨大な長方形の囲い……言わば『石棺』だった。
私たち十名はこれから、この逃げ場のない牢獄で際限なく湧く魔物を相手に戦い続けることになる。
────こんなやり方、最初から無茶であるのは解っている。
無理に付き合わせたミランダさんにも申し訳ないとは思う。
でも、ここにはもうイネスとノール先生はいない。
あの超常の力を持つ人々は別として、私達常人の力と数ではあの魔物の群れとまともにぶつかったとしても、増殖の勢いを抑えきれない。
私たちがどんなに頑張っても街へと広がる魔物達を討ち漏らすのは必至だ。
ミスラの市民への避難指示は出ているが、まだ逃げ遅れた人々が沢山いるはず。魔物は街へと雪崩れ込み、必ず多くの市民を殺すだろう。
その事態は何としてでも防がねばならない……でも現状、あまりにも手札が限られている。
迷宮の入り口に強引に『蓋』をして魔物を閉じ込めることも出来なくはないが、どう見ても、あの勢いで湧き続ける魔物を全て抑え込むのは無理だ。
単に迷宮を塞いだだけでは一時しのぎにしかならないだろう。
魔物をこのまま倒し続けても街には溢れ出す。
でも、単に封じ込めようとしても駄目。
……ならば、どうするか?
ある意味答えはとても簡単だ。
────両方同時にやればいい。
つまり……魔物達を閉じ込め、かつ、その中に入った者達が魔物を減らし続ければいいのだ。
「……成る程。これなら我らがここで全滅したとて、ミスラの民の退避の時間は稼げるか。よくもこんなことを思いつくものだ」
「感心してる場合じゃないでしょ、ゲルグナイン……! 思いついたってやらないわよ、こんな無謀なこと……!」
「だが、ミスラの民を護るという点ではこれ以上ないな。犠牲は最小限で済む」
大きな槍を構える【豪槍】のゲルグナインさんは顔の見えない兜の下で笑っているようだった。
「だからって、あの魔物の群れと一緒に自分たちごと棺桶に入ろうなんて考える、普通!? ……やっぱりイカれてるわよ、あの蛮国のお姫様は……!!」
「だが、これは本来俺たちが殉ずるべき使命だ……違うか? シギル」
「その通りだ。猊下と皇子も共に戦ってくださるのだ。ここで死ねるのは聖騎士の本懐と思え、ミランダ」
「……ああ、もぅ……あんた達に同意を求めた私がバカだったわ……!」
彼らの言う通り、ここからは死力を尽くした戦いになる。
押し寄せてくる魔物達と私達、どちらかが息絶えるまで滅ぼし合う戦争だ。
この巨大な石の壁に囲われた中に逃げ場はなく、悪くすれば私達はこの中で息絶える。
でも、もちろん私は死ぬために囲ったわけではない。
「大丈夫ですよ、ミランダさん。私も決して死ぬつもりでこんな作戦を提案したわけではありませんから」
「……そ、そうよね。いくら何でも勝算もなしにこんなこと考えないわよね……?」
「はい。でも最悪の場合はこの岩壁を魔物ごと沈めますので、もしそうなったらすみません」
「……ひいいいいいいぃ……!!」
「そうならないように死力を尽くせ……貴様も『右舷』の一人だろう。無様な姿は晒すなよ」
「わ、わかってるわよ……! それにもう、否が応でもやるしかないじゃない……!! ……うぅ……!」
私が彼女にもうひと声をかけようとしていたところで、ミランダさんの肩にアスティラさんが優しく手を置いた。
「ふふ、大丈夫ですよ、ミランダさん。私も微力ながらお手伝いしますので」
「……げ、猊下……!?」
ミランダさんは背後から自分の肩に手を置いた人物に驚くあまり、バランスを崩して地面にお尻をついた。
「……げ……猊下が私の肩を……!? それに……わわわ!? 私の、名前を!? ……はわわ……!?」
「ふふ、これでも結構修羅場をくぐってきてるんですよ? きっとお役に立てるはずです。誰かさんが罠のかかった宝箱に迂闊に手を出すせいで魔物に揉みくちゃにされるのは馴れてますから…………とはいえ、こんなにすごいのは初めてですけど」
アスティラさんが近づくと『十二使聖』の面々は地に膝をつき、頭を下げて敬礼した。
「────共に戦えることを光栄に思います、猊下」
「ええ、私もとっても心強いですよ、シギルさん、皆さんも。あの群れはちょっと……というか、すっごく大変そうですけど……とにかく、頑張りましょうね!」
「……勿体無きお言葉」
アスティラさんは緊張する皆に穏やかな笑顔で語りかけ、彼女の一言で皆の士気が大きく高まり、気持ちが落ち着いたのがわかった。
「では、そろそろ配置につきましょう……魔物が迫っています」
そうして、私達は話していた通りの陣形を組んだ。
アスティラさんとティレンス皇子、それぞれを中心に、十二使聖『右舷』が三名づつ配置される。
その二組に挟まれるようにして私が立ち、ロロが私の後ろに着く。
正直、ロロはこの場に残ってもらってもいいか最後まで迷ったが……でも混乱の中で彼と完全に離れ離れになるわけにはいかない。
だから、悪いけれど私と一緒に残ってもらった。
もちろん私が護るつもりでいる。
でも────
「……ロロ、此処からは激しい戦闘になります。本当に余裕がなくなると思いますので、きちんと守ってあげられないかもしれません」
「……大丈夫。ボクは逃げ回ることしかできないけど、せめて自力で死なないように頑張るよ」
「お願いします」
刻一刻と密度を増し続ける魔物の群れが、壁の中を埋め尽くすようにして押し寄せてくるのが見える。
私は剣を地面に突き刺し、その場の皆に声をかけた。
「────第一波がきます。今の陣形はなるべく崩さないように保ってください。さもないと……すぐに全滅すると思います」
「……了解」
「────承知した」
「……ぅう。もう、なるようになればいいわよ……!!」
そうして皆が各々の武器を構えた。
魔物の群れが近づくと共に足の裏から伝わる振動が大きくなり、恐怖の感情も大きくなる。
私は心を落ち着ける為の深呼吸をし、同時にこれから自分が放つ魔法────ノール先生から教わった【融合魔法】の準備を整える。
……でもまだ、私の【融合魔法】は見様見真似。
完全とは言えない。
私が扱える同時詠唱の数は未だに七までだし、完成度も先生が王都の地下で見せてくれたあの芸術の様な技の領域にはとても及ばない。
でも────ここでやるしかないだろう。
そんなことに思いを巡らせる間に、目前に魔物の群れが現れる。
「では────始めます。【滅閃極炎】」
私が放った炎はまるで分厚い壁のように真正面に群がった数百体の魔物を貫き、八割程焼き尽くした。
……でも、もちろん全てとはいかない。
やはりイネスやノール先生の様にはいかない。
撃ち漏らした数十体の個体は炎に燻る死体を乗り越え、すぐに私達へと飛び込んでくる。
「────【滅閃極炎】」
私はそれに構わず、再び迷宮の入り口から湧こうとする魔物の群れに全力で炎の柱を撃ち込み続けた。
私が撃ち漏らした魔物は私の両脇に待ち構えている十二使聖の彼らに任せ、彼らが討ち取るのを尻目に、私はひたすら大部分を殲滅することに注力する。
……幸い、この少人数の陣形は上手く機能している。でも、まだこれはこれから始まる戦いの開始の合図でしかない。
────此処からが本当の地獄の始まりだ。
「ふふ……ここは頑張りどころですね、ティレンスくん」
「────そうですね、お母様」
混戦の中で隣り合った彼らが小さく囁くのを耳にした次の瞬間、私達は雪崩のような魔物の渦に呑み込まれた。






