91 ロロの友達
ボクは怪物に向かって踏み込み、全力でまっすぐに跳んだ。
すると怪物は無数の手のひらをこちらに向け────また、あの黒い雷が放たれた。
『『『【黒雷】』』』
でも、その雷は命中の直前、直撃を避けるようにして逸れた。
それは遠くの山に当たり爆発で稜線を削り取って形を変え、巻き起こった暴風がボクの身体を吹き飛ばしはしたが、結局、皮膚の表面を灼いただけだった。
────どうやら、ひとつの賭けには勝ったらしい。
あの化け物は今、ボクを殺さないことに決めた。
生かすか殺すかで迷っていた心が定まり、ノール達から離れてたった一人になった獲物を捕らえることに決めた。
ボクは爆風を受けて宙に舞った瓦礫を足場にして、身体中に蠢く無数の眼球でこちらを見据えている怪物に向かって更に跳んだ。
『『『────ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』』』
そうして、あいつがあの触手のような腕を伸ばせば触れられそうな距離にまでボクが近づくと、化け物が楽しそうに嗤うのがわかった。
この化け物は自ら目の前に飛び込んできた小さな存在がもう、何の力もない、ただの食べ物でしかないと理解している。
周りの厄介な奴らから離れたら何の抵抗もできない非力な存在なのだと知っている。
だから、ボクのことを自分に食べられる為に飛び込んできた愚かな獲物だと嘲り、笑った。
その理解と嘲笑は正しい。
化け物が考える通り、ボクはとても弱い。
どうしようもなく非力で、まともに剣を握ることすらできないし、もちろんここに来たって自分一人では何もできない。
さっきのように不意打ちでもしなければ、一瞬で握りつぶされ、ただ口の中に放り込まれるだけの取るに足らない存在。
ボクだって、それはわかっている。
わかっているから、ここにきた。
今のボクは餌でしかない。
こいつを引き付ける為の、ただの生き餌。
だから、こいつには、このまま笑わせておけばいい。
それがボクの今の役目なのだから。
『『『────ア゛』』』
そうして、化け物は大口を開け、無数の太い腕を伸ばしてくる。
それに対して、ボクは何の抵抗もできない。
避けるすべもない。
『『『────ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』』』
その時、化け物の無数の口から立ち上ったのは、大地を揺るがすような歓喜の声の合唱だった。
もう心の声は聞こえなくとも、化け物が心の底から笑っているのがわかり、一瞬、身が竦む。
こいつはこの瞬間、他のことを忘れている。
この時を、ボクの血肉を喰らうのを本当に楽しみにしていたらしい。
「────はは」
ボクも一緒に、笑う。
ボクはこの時点でひとつの役目を終えた。
この化け物の注意を自分自身に惹きつけて、わずかな時間を浪費させることができた。
ほんのわずかな時間。
でも、今この瞬間の「一瞬」は千金にも値する。
それだけの時間があれば、地上に居るノールやリーンたちは散った人々を集め、上手く体制を整えてくれるに違いない。
こんなに弱い存在でも多くの人の役に立てたのだと。
それだけでもう上出来だと思い、思わず小さな笑みがこみ上げる。
────でも。
ここで自分がこいつにこのまま食べられるのなら、もっともっと沢山、時間を稼げるに違いない。
……そうなれば、もっといい。
普段、多くの人々に忌み嫌われる『魔族』の自分がここでこいつに食べられて消えられるならそれは「いいこと」なのだと思う。
それは人の役に立ったと十分に胸を張って言えることなのだろう、と。
こんなボクでも死ぬまでに人の役に立ちたいと、ずっとそう思っていた。
だから、ここで自分が美味しく食べられて死ぬのはきっと、いいことだ。
────そんな風に、少し前の自分なら思っていたかもしれない。
でも、今は不思議と全然そんな風には思えなかった。
こんな状況で意外なほどに冷静な自分に気がつく。
もうすぐ、あの怪物の触手が体に届くというのに、自分は絶対に死なないという確信がある。
いや、どちらかというと、死なないというより死ねないと思っている。
こんなところで死んではいけないと、誰かに言われたような気がした。
もう、既にミアンヌさん達とまた美味しい料理を食べると約束してしまったから。
ボクを生かして帰すために、いろんな人がいろんなことを教えてくれたから。
それに、やっぱり地上にいるリーンやイネス、ノール……ボクを仲間と思ってくれている人達は、そんなことを望んでいないと思う。
彼らの期待を裏切ることは、したくない。
ボクはここに時間稼ぎの『餌』となるために出向いてはきたけれど────ここで死ぬつもりも、生きることをあきらめる気もない。
だから、ボクは目の前で喜ぶ怪物に小さく謝った。
「ごめんね────キミに食べられてあげられなくて」
その代わり、笑わせてあげようと思う。
今この瞬間だけ。
この怪物は笑っている間、動きが鈍る。
それだけの時間があれば準備をするには十分だから。
そうして、ボクはオーケンさんに渡された革袋から取り出した『魔術師の指輪』を指に嵌め────怪物に向けて彼女の名前を呼んだ。
「────おいで、ララ」
声に出すと同時に、指輪に嵌め込まれた紅い魔石が激しく輝き、莫大な魔力が周囲に爆発するように溢れ出し、視界を覆った。
そうして、その瞬きよりももっと短い刹那の瞬間────ボクは極限まで意識を集中させた。
赤い石から流れ出る膨大な力の全てを、身体の表面を受け流すように動かしていき、僅かな量も取りこぼさずに「別の力」へと変換する。
そして同時にそれを『魔術師の指輪』に押し込み、還流させてまた新たに力を取り出す。
────その動作を繰り返すことで更に『力』を爆発的に高め、増幅していく。
この一瞬の操作はとても難しいし、一歩間違えば魔力が暴発するか、体の内部に流れ込んで死ぬだろうとオーケンさんには教わった。
でも、出来ると思う。
オーケンさんと一緒に、ずっとこれだけを練習してきたから。
それに『魔族』が『魔族』と呼ばれる前、かつて『レピ族』と呼ばれた人々は、そういうことがとても得意だったとオーケンさんから教えてもらったから。
出来るはずだと思う。
ボクにも彼らと同じ血が流れているはずだから。
そして真紅の石の持つ膨大な魔力を全て変換し終えると『力』は巨大な『門』となって眼前に現れた。
かつてリーンの襲撃に使われたという『召喚魔術』が今やっと、完成した。
「────もう、出てきてもいいよ、ララ」
そうして、ボクは全力で力を指輪に押し込み────指輪に嵌め込まれた真紅の魔石の中にいる彼女を外に喚び出した。
瞬間、指輪から魔力が爆ぜ、『門』から目を灼くような激しい赤紫色の閃光と共に、空を覆うような黒い巨体が姿を現す。
『グゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア────』
そして指輪の石から出てきた彼女────
かつて、ノールに名付けられる前までは【厄災の魔竜】と呼ばれた巨竜ララがボクを掴もうとした怪物の無数の腕をあっという間に噛み砕く。
『『『────ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』』』
ララは絶叫を上げる空中の化け物と激しく衝突し、その膨れ上がった肉を大顎で噛み千切ると、自慢の長い尻尾で思い切り下から化け物の身体を打ち据え────
『──────────グァ』
天高く打ち上がった怪物に彼女の自慢の『破滅の光』を放ち、丸ごと灼いた。
途端に闇に包まれた空が一斉に明るくなり、ミスラの街に轟音と暴風が押し寄せる中、彼女は咆哮で大地を更に揺らした。
「……狭いところに閉じ込めててごめんね、ララ」
ボクはまた爆風に吹き飛ばされながら、ミスラの街に大きな影を落としながら気持ち良さそうに空を飛ぶララの姿を眺めた。
改めて見て、よくあんなサイズの生き物があの小さな石に押し込められていたものだと思う。
ボクの嵌めている『魔術師の指輪』に取り付けられた赤く透き通った小さな石────オーケンさんが昔親友から譲り受けたという『悪魔の心臓』のひと欠片に、彼女はずっと封じ込められていた。
きっと、窮屈な思いをさせられていたと思うけれど、彼女は理解した上で我慢してくれていた。
────あれから、ボクと彼女は少し仲良くなった。
魔導皇国の襲撃の後、【厄災の魔竜】と呼ばれた彼女はクレイス王国に残った。
もちろん彼女を危険視する人も沢山いたが、彼女はどういうわけかノールのことを絶対の主人として認めていて、ノールが「もう人は襲わないで大人しくしていてくれると嬉しいんだが」と言っていたとボクが伝えると、それから、ずっとその言葉の通りに大人しくなった。
その後、王都から少し離れた荒地で過ごすことになった彼女の世話は、唯一意思疎通のできるボクが王宮からの依頼で引き受けることになり、毎週一回、彼女の食事のためにボクは可哀想な牛や豚を連れて、彼女のところを訪れた。
彼女は山のような図体の割には少食で、それだけあれば十分らしかった。
食事の時、彼女とボクはよく『話』をした。
彼女は長く生きているだけあって賢く、色々なことを知っていた。
彼女にとっても自分と『話』が出来る存在は珍しいらしく、向こうから頻繁に話しかけてきた。
彼女がその話題ばかり話したがるので、ボクらはよくノールのことを話した。
自らが主人と認めたノールの話となると彼女はとても嬉しそうに語った。
────一対一で対峙した時、彼がどれほど凄まじかったか。
あれほど小さな身体の存在に自分の爪を弾かれた時、どれほど胸がときめいたか。
自慢の『息』を跳ね除けられた時は我が目を信じられなかったが、あの男なら当然だ。
自分はきっと、あの男に出会うために生まれてきたのだ────と。
なんだか、恋人の惚気話のようだった。
彼女はヒビの入った巨大な爪を自慢気に見せながら、ボクに延々とその時の話を聞かせ続けた。
たまに感想を求められるけど、ボクは大抵聞く側で……結局、いつも同じ話ばかりだったような気がするけれど。
それでも、嫌な気はしなかった。
ボクも同じような経験があるからだ。
ボクが自分が前にノールに助けられたことがあると言うと、彼女はその話を聞きたがった。
そして食い入るように聞き入り、一つ話をする度に満足そうに唸り、また同じ話を何度も聞きたがった。
毎週、時間が来るとボクはその場を後にするけれど、また次に会った時には飽きずにどちらかが大抵同じ話をする。
毎週毎週、そんなやりとりの繰り返し。
それが三ヶ月の間ずっと続き、そうしてボクと彼女は少しだけ親しくなった。
でも結局、その間、彼女はノールには一度も会えなかった。
竜という生き物は欲望に忠実だと聞いていたので不思議に思って「会いたくないのか」と聞いたらやはり「会いたい」と言った。
でも、彼女は「今すぐにでもなくても、いい」と答えた。
ノールとはあまり会えないけど……でも何十年かに一度、会いに来てくれるだけでも嬉しい、と言っていた。
自分は何百年でも待てるから、と。
人はそんなに長生きしないんだと教えると、残念そうにはしていたけれど……それも主人の考えなら、その意志に従うまで────と。
彼女は意外に健気だった。
竜だし、ちょっと凶暴だけど……話せばとても親しみの持てる性格だった。
そして彼女にとっても、ボクは「小さいくせに中々話の解る珍しい奴」という感じらしかった。
というより、自分と同じように「主人を崇め仕える者」ならば彼女にとっては『同類』の内だということらしい。
だから、彼女はオーケンさんの力を借りてこの『魔術師の指輪』に彼女を押し込める時も、ボクが頼むと大人しくしてくれていた。
────『それで主人の助けになるのなら』、と。
ララの『破滅の光』の衝撃で吹き飛ばされ落ちながら、ふと下を眺めると、地上ではもう魔物の群れと対峙する体勢が整いつつあるのが見えた。
溢れ出る魔物達からミスラの兵士達は陣形を組んで距離を取り、教皇がそれを守りながら魔物の群れを押し留め、イネスが『光の剣』でまとめて一掃する。
リーンと皇子が一緒に指揮をとって、あの状況を完成させているようだった。
おかげで魔物が増える勢いも抑えられ、さっきと比べれば、もうだいぶ余裕がありそうに見える。
やはり想像していた通り……というか、それよりもずっと早く、彼女達は体勢を整えていた。
ボクが上空から見下ろしているのに気がついたリーンと目が合う。
そして目が合った瞬間に、彼女の考えていることがボクの頭の中に一瞬で流れ込んできた。
「……すごいな、ホントにもう全部出来上がってる」
彼女はあの短時間であっという間に混乱した状況を整理してしまった。
それだけでなく、ボクが取ろうとしていた行動の意図も、全て理解してくれていたようで、それも織り込んで既にその後の作戦を立て終わっていた。
化け物に向かって跳ぶ少し前、ボクはノールの持つ『黒い剣』をあの怪物が恐れていることをリーンに伝え、彼女はその意味を理解している。だから今、ここにある戦力をどう組み立てるか、彼女の中では既に全ての道筋が定まり、ボクら全員が取るべき次の行動がはじき出されている。
本当にあの短時間で……ちょっとすごいとしか言いようがないけれど。
────あとは、ボクらはその意図に沿って動くだけ。
リーンの考えをそのまま、空で気持ち良さそうに羽ばたくララに『声』で伝えると、ララは落ちるボクを空中で受けとめ、そのまま勢いよくノールたちのいるところへと降り立った。
……勢いが良すぎて、地面が沈み、揺れで皆が倒れるだけでなく周囲の建物まで崩れた。
それでも、ノールは地上に降りたボクらに向かって声をかけてきた。
「……すごいな、ロロ。今のでもうあの化け物を倒せたんじゃないか?」
「ううん。確かにすごかったけど、あれぐらいじゃ全然効いてないみたいだよ」
それを伝えるとノールは意外そうに空を見上げ、ララは少し不満気な唸りを上げた。でも、空から何事もなかったかのように降りてくる化け物を見て、二人とも納得したようだった。
『────グゥゥ────』
そして、すぐに彼女はずっと会いたがっていた主人の前に座り込むと長い首を地面につけ、低い唸り声を上げた。
────なんだか、とても幸せそうな声で。
「ノール。彼女が背中に乗ってくれって」
「……俺にか……?」
「うん。彼女、ノールと一緒にあの気に入らない奴を叩き落したいんだって」
「…………それは、つまり。……俺も、あれのいる空まで行くということか……?」
そう言って、ノールは心底不安そうな表情で空に浮く怪物を眺めた。
「大丈夫だよ。振り落とされたりはしないと思うよ」
「…………でも。地上にもたくさん魔物がいることだし俺はそっちの方が」
「下の魔物たちは、ボクらで何とかできると思うから」
「────しかし。正直なところ俺は高い所はちょっと────」
「あの怪物はノールのその『黒い剣』じゃないと、結局ダメらしいんだ」
「………………………………そうなのか?」
ノールは手に持つ黒い剣を見た後、また不安げに空を見上げ首を振った。
どうやら、どうしても空へは行きたくないらしかった。
というか単に高い所が怖いらしい。
でも────
ノールにしかあの化け物は倒せなさそうだから、仕方ない。
「────行ってきて。彼女はもう、やる気みたいだから」
「……何?」
ボクとララは協力して、ノールを強引にララの首の上に載せた。
「……ロロ。なんだこれは。ちょっと待ってくれ。まだ、俺は心の準備が」
『グゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ』
そうして、かつて【厄災の魔竜】と呼ばれた彼女は主人を背中に乗せると歓喜の咆哮を上げ────勢いよく羽ばたき、あっという間に怪物の待ち受ける天空へと飛翔していった。






