90 共感
突然現れた怪物のせいで大聖堂の建物が崩壊し、俺たちは砕けた床ごと宙を舞った。
危うく瓦礫と共に全員が地面に叩きつけられるところだったが、アスティラが咄嗟に作り出した空気の壁のおかげでゆっくりと着地し、辺りを見回した。
「ここは────」
俺たちは皆、俺がさっきシギル達といた『嘆きの迷宮』の入り口まで落ちてきていた。
見れば、あの化け物が登ってきたらしき大きな穴が空いていたが、それ以外は無傷といってもよく、ここの床は上の建物よりも随分頑丈らしかった。
よかった、あまり下まで落ちずにすんだ。
俺が少し安心したのもつかの間。
黒い翼を広げ空に浮かぶ化け物は、ぶくぶく膨れた身体のあちこちに生えた手をかざし────
『『『【黒雷】』』』
途端に、天を覆うような極大の黒い雷が放たれた。
あれは────まずい。
まっすぐ俺たちの元へと落ちてくる。
「パリイ」
ちょうど俺目がけて落ちてきた巨大な黒い雷を、俺は死ぬ思いで剣で叩いた。
俺の剣はしっかりと黒い雷を捉えるが────駄目だ。これは、重いなんてものじゃない。
目にした瞬間から覚悟はしていたが、さっきとは比べ物にならない。
最初から全力で腕に力を入れているが、とても支えきれない。
腕や脚、全身の筋肉が悲鳴をあげる間も無く引き裂かれた。
俺は、雷を剣で受け止めた。
だが、それも一瞬。
すぐに────黒い剣を持つ俺の腕が豪快に弾かれる。
「【神盾】」
だが、いつの間にか俺の背後に構えていたイネスが咄嗟に巨大な『光の盾』を作り、雷の軌道を変えた。
すると巨大な黒雷は空を駆け上がるようにして登り、遥か上空で爆発する様に弾けた。
途端に空全体が漆黒の闇に覆われ、かなり上空の爆発だったのに爆風で建物の瓦礫が吹き飛んで宙へと高く舞った。
「すごい威力だ────さっきまでとは比べ物にならないな」
「今の雷は……あの怪物が放ったのですか?」
「ああ。一発耐えただけでこのザマだ」
化け物の放った雷に呆然としているリーンに、俺は自分の手のひらを見せた。
剣を握っていた俺の手は焼け焦げ、煙を立ち上らせていた。
一瞬触れただけだというのに、この有様だ。
幸い、俺の【ローヒール】ですぐに治せる程度だが……あんなもの、何度も立て続けに受け止めたらたまらない。
俺はまだ痺れる手と腕で黒い剣を支えながら上空に浮かぶ化け物を見上げた。
それだけで身震いがし、全身から冷や汗が滲み出た。
……あの化け物、見た目だけじゃなく力も大幅に膨れ上がっている。
あんなものに、どうやって勝てばいいというんだ……?
「リンネブルグ様────備えてください。魔物の群れが来ます」
イネスがリーンに警告する声に我に返って振り向くと、迷宮の『入口』と地面にあいた大穴からとんでもない数の蠢くものが湧き出るように押し寄せてくるのが見えた。
────あの全てが『魔物』だというのか。
魔物の群れは瓦礫の山を這い上がり、あっという間に俺たちの周囲を埋め尽くしていく。
幸い、どいつもスケルトンやゴブリンよりはずっと小ぶりなようだが……あまりにも数が多い。
俺にとっては上に浮いているあいつだけで相当大変なのに、冗談じゃない。
早速、リーンとイネスが奴らを斬り払っているが────全く数が減る様子がない。
それどころか、どんどん増えているようにも思える。
次から次へと無尽蔵に湧いてくるようだ。
「まずいな。これも一緒になんとかする必要があるのか」
「……はい、きちんと全員で陣形を組んで対処しなければ、すぐにでも全滅しそうです」
リーンは辺りを見回し、そんなことを言った。
確かに、まずい状況だ。
リーンとイネスはあの魔物達をものともしない戦いぶりだが、シギル達は遠くで戦っている。
彼らは押し寄せる魔物の群れに押しつぶされそうになっていた。
他にも、さっきまで地面に倒れ込んで具合悪そうにしていた兵士たちが魔物の群れに巻き込まれて混乱している。
アスティラと皇子に護られながら戦っている兵士たちは無事そうだが、問題は孤立している人々だ。
「……彼らは、あまり戦いに向かないな。早く助けに行くべきだろう」
「はい……でも、あれが────まだ動いています」
上空の化け物は沢山の目をぎょろぎょろと動かしてこちらを眺め、様子を伺っているようだった。
俺が見上げると、不気味な目玉の群れと目があった気がした。
するとだんだんとあの化け物の手に力が集まっていくのが見える。
────あれは再び、何かをしようとしてる。
『『『【獄炎】』』』
頭上に浮かぶ化け物は、今度は無数の手を付き伸ばし、炎の魔法を放った。
あれも、まずい。
あれは一旦身体に纏わりつくといつまでも肌を灼き続けるしつこい炎の魔法。
しかも、やっぱり規模がさっき見たのとは比べ物にならない。
怪物が生み出した極大の炎は上空に現れた瞬間に建物の瓦礫を灼き、あっという間に空全体を覆う渦となり俺たちの頭上に覆い被さるようにして迫って来た。
────あんなもの、ここに押し付けられたらただでは済まない。
「【風嵐】」
「【嵐壁】」
頭上から放たれた巨大な炎に気付いたアスティラとリーンが咄嗟に風の魔法で押し返すが────
『『『【黒雷】』』』
炎の渦を貫くようにして、再び極大の黒い雷が放たれた。
あの化け物、本当に容赦がない。
だが────
「パリイ」
「【神盾】」
俺が咄嗟に瓦礫の山を駆け上がり雷を弾き、背後に立ったイネスが瞬時に軌道を変える。
俺一人ではとても敵わないが、今は彼女がいる。
炎の渦もリーンとアスティラのおかげで空へと押し返されたようだった。
今は、あの怪物が自分が放った炎で燃えている。
これぐらいならどうにか、なんとかなりそうだった。
……だが、本当にキリがない。
上の化け物はいくらでも魔法を放ってきそうだし、
迷宮の『魔物』もいくらでも湧いてきそうな気配だ。
────これは少し、焦る。
このままでは、魔物の群れに押しつぶされそうな人々を全員を助けに行くのは、難しい。
「パリイ」
俺は手が届く範囲で、兵士たちに次々と襲いかかる魔物の爪と牙を弾く。
目につく端からひたすらに彼らの武器を弾き続け、砕ける範囲で砕く。
魔物が湧く速度に比べれば気休め程度だが、何もしないよりはいい。
だが、このままでは数に押し切られる。
そんな風に不安に思っていたところで、不意に辺りが明るくなり、何かが迫って来る気配がした。
「────なんだ?」
見上げると、空中の怪物が押し返された炎を纏いながらものすごい勢いで落下してくるのが見えた。
────まずい。
あんな巨体が落ちてきたら、俺たち全員が押しつぶされる。
怪物は焦る俺の目の前まであっという間に降下し、炎に包まれた巨大な拳を振り上げ、俺たちめがけて叩きつけてきた。
だが────
「【神盾】」
いつの間にかイネスが『光の盾』を展開し、怪物の巨体と無数の拳を受け止めた。
その衝撃で大地が揺れ、イネスの足が地面に沈んでいく。
「イネス、大丈夫か」
「────大丈夫だ。私の盾はこの程度ではビクともしない。だが……このままでは、駄目だ。……ノール殿。なんとかならないだろうか」
イネスが珍しく弱々しい声を出した。
確かにこのままでは駄目だ。
魔物達を『光の盾』で斬り払っていたイネスの手が止まり、魔物の群れの勢いが増した。
イネスの盾は頑丈だが、このままの状況は、まずい。
だが、俺に何かできるかと問いかけられても、正直、何も思いつかない。
「────イネス」
そんな時、一人、静かに彼女に声をかけた人物がいた。
それはロロだった。
「お願いがあるんだ。ちょっとだけ、その『盾』を解いてもらえるかな」
「……ロロ? 一体、何を言って……」
「……みんなが安全なタイミングを見計らって、ほんの少しの間だけでいいんだ。ダメかな……?」
彼は何故だか、とても落ち着いた様子だった。
こんな状況で冷静そのものに見えた。
俺が知っている彼とは、ちょっと顔つきが違う気がした。
ミスラに来てから見違えたと思っていたが────
さっき会ったばかりの彼とも、なんだか別の人間のようにも見えた。
「……何か……打開策でもあるのか?」
怪物の巨体を一人で受け止め体を地面に沈めながら、イネスはロロに言葉を返した。
「ううん、打開策ってほどじゃないけど……でも、少しの間なら、この怪物の動きを抑えられると思う。その間に体勢を整えて欲しいんだ。……それだけで随分楽になるはず。そうだよね、リーン」
いつの間にか近くに来て周囲の魔物を斬り払っていたリーンに、ロロは声をかけた。
「……はい、確かに、陣形を組む時間は必要です。でも、ロロ……いったい何をするつもりです……?」
「大丈夫。そんなに無茶はしないよ。ボクなりに勝算はあるつもりなんだ」
そう言ってロロは上着のポケットから小さな皮袋を取り出して笑みを見せた。
それを見て、リーンとイネスは何かに納得したようだった。
「────わかりました。イネス、お願いできますか」
「……はい。タイミングを見計らいますので────ご準備を」
イネスは怪物の動きを見計らい、巨大な『光の盾』を跳ね上げた。
「【神盾】」
すると怪物は大きく空へと弾き飛ばされた。
だが、奴にはダメージはない。
目と鼻の先に浮かされただけだ。
「……ロロ、『盾』を解くぞ」
「────うん、ありがとう、イネス」
直後、イネスの『光の盾』が消えて視界がひらけ、ロロが怪物と対峙した。
魔物の大群が押し寄せる中で、小さな少年がぽつんと立ってあの巨大な化け物と向き合っている。
少し、奇妙な光景だった。
ロロはその状況に臆することもなく、静かに目の前に浮かぶ化け物に語りかけた。
「────ねえ、キミ。ボクの声、聞こえるかな」
すると蠢いていた化け物の身体が一瞬、動きを止めたように感じた。
「……残念だったね、思うように食べられなくて。
キミは今、きっとこんなはずじゃなかったのにって思ってる」
「────ロロ?」
化け物が動かず、話を聞いているように見えた。
突然あの化け物と会話を始めたロロを、皆が呆然と見守った。
「……悔しいかい……? さっきの、よっぽど怖かったみたいだね。
今、キミはボクに覗かれまいと必死に心を閉ざして、もう二度と操られまいとしてる。でも……わかるよ。キミは、怯えてるからボクらに思うように近づけないんだ。……違うかい?」
化け物はロロの呼びかけに答えるように、空中で不気味に蠢いた。
『『『────ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛────』』』
巨体から叫び声を発しただけで、怪物は地面に無数の亀裂を走らせた。
辺りの地面が見る間に崩れて陥没していく。
そんなことを気にとめる様子もなく、ロロは怪物に語りかけ続けた。
「────うん、知ってる。キミはもう、その気になればミスラの街を一瞬で滅ぼせるぐらいの力を蓄えてるんだよね。
……でも、なんでキミはそれをしないんだい……?
おかしいよね。なんでかな……まるでキミはそれをしたくないみたいだ」
『『『────ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛────ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』』』
怪物の力が爆発的に高まっている。
怪物の身体のあちこちから生えた腕から無数の黒い雷が放たれ、ミスラの町中の建物を砕いた。
────あれは明らかに怒り狂っている。
ロロの言葉に反応している。
「……わかるよ。キミは迷ってるんだね。せっかく集めた獲物をみすみす失いたくないと思ってる。だから今、キミはそんな風に中途半端な攻撃しかできない────そうだよね」
奴の姿が更に膨らみ、力が高まる。
『『『────ア゛ア゛、ア゛ア゛ァ゛、ア゛────ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』』』
黒い雷がロロの目の前に落ち、弾け飛んだ瓦礫が彼の頭にぶつかった。
「……うん、そうだね。もちろん、キミはボクらとは違って長い長い寿命があるから別に、全部消しとばしても構わないと思ってる。また、一からやり直せばいいと思ってる。キミにはそれが出来るから。
……でも、本当にいいのかい、それで。
キミはそれで、満足なのかな……?」
押し寄せる魔物に取り囲まれながら、その場にいる全ての人間が固唾を呑んでロロの姿を見守った。
「────やっぱり、残念だよね。目の前にボクというご馳走があるのに、諦めることしかできないなんて……キミはボクの血が欲しかったんだろう? ボクの血は、キミにとってこの上ないご馳走なんだってね。
キミはずっとずっと、長い間、お腹が空いてるのを我慢してたんだろう?
……いいのかい、そんなに簡単に諦めてしまっても」
『『『────ア゛ゥ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛────ア゛』』』
怪物から放たれる威圧感が高まる。
更に増殖し始めた腕に、あの黒い雷が纏わり付いていくのが見える。
────今度は、確実にさっきより強烈なのが来る。
不穏な気配を感じ、俺は剣を握り締めた。
だが────
ロロは怪物をまっすぐに見つめ、動こうともしなかった。
「────でも、そこに厄介な奴がいるから。
ここで仕留めないと、次に何が起きるか分からないから。
だから、もう、仕方がない、と。
────キミはそう考えて諦めた。
キミがその魔法を撃つのは、ボクらに勝つ自信がないからだろう?
……怖いから。恐ろしいから。
嫌なことを、目の前から消し去ってしまいたくて仕方がない。
キミはもう、自分が弱いことを知ってしまったから……そうやって逃げることを選択した」
怪物の動きが、止まった。
「……わかるよ、その気持ち。でも……いいんだ。
もうそんな風に怖がる必要なんてないよ。だって────」
そうして次の瞬間、ロロが地面を蹴り、
「────ボクから、そっちに行ってあげるから」
化け物に向かってもの凄い勢いで飛び出していった。






