88 雲の上
気がつくと俺は雲の上にいた。
「────ここは一体────?」
俺はぼんやりとした意識のまま、辺りを見回した。
俺の眼下には見渡す限り、平原のように広がる白い雲が見える。
体が不思議と宙に浮くような感じで、まるで重さを感じない。
なんで、俺はこんなところにいるんだ……?
俺が目にした光景は、俺が幼い頃父に聞かされていた「死んだ後に来る世界」そのもののように見えた。
あの骨に若干肉がついた化け物に殴り飛ばされた瞬間から、俺の記憶はない。
……ということは。もしかして、もしかすると。
────俺は、死んだのだろうか?
そうか、俺はあの時、あの化け物にやられてしまったのかもしれない。
話好きの父親からは「死んだら雲の上に行く」という話を聞かされていたし。
そうか、これが死んだ後に来る世界なのか。
辺り一面が純白の絨毯で覆われ、この世のものとも思えないほどに幻想的だ。
いや……もう「この世」ではないか。
ここは「あっちの世界」というやつなのだろう……ちょっと、ややこしい。
「そうか、やっぱり俺は────死んだのか」
そんな風に納得しかけたが、ふと違和感を覚えた。
身体はふわりと宙に浮くような感じだが、なぜか右手だけがやたらに重い。
「……なんだ……?」
見れば、俺の右手にはいつものようにしっかりと『黒い剣』が握られていた。
これは……?
この剣、なんでこんなところにあるのだろう。
もしかして、普段からあんまり愛用していたものだから、死後の世界にまでついてきてしまったのだろうか。
まあ、そういうこともあるかもしれない。
だが、俺はまた不思議なことに気がついた。
死んだはずだというのに身体中が痛む。
それに、なんだか辺りの空気がとても冷たく、薄い感じがする。
……そうか。
死んだ後にも痛みはあるし、息はできるのか。
意外なことだった。
でも、俺は死んだ経験など今まで一度もないし、実際はそういうものかと思い納得した。
そして、死んでからでも案外新しい発見はあるものだと、ちょっと感心していたのだが。
また、身体に違和感を感じた。
「……ん……?」
今度は剣を持つ右手だけではない。
だんだんと、浮いていたように感じていた身体が下へ下へと引っ張られていくように思えた。
どうやら俺はあのフカフカとした白い雲の床に引き寄せられているようだった。
不思議と、恐怖心はなかった。
俺は高いところは苦手だが、あの床はなんとなく柔らかそうに見えるし、高さも、落ちる速度もそんなでもない。
もう俺は一度死んでいるようだし、怪我することもないはずだ。多分。
そう思って安心していたのだが。
俺がそのふわふわとした雲のように見えた床に触れようとした瞬間、俺の身体はそこをほとんど何の抵抗もなく突き抜けた。
……どういうことだ?
視界を覆う分厚い雲のようなものの中を通り抜けながら俺は考えた。
俺はてっきり、あの白い雲の床の上に降り立って、これから白い髭を生やした人ならぬ存在に会ったりするんじゃないかと思っていたのに。
幼い頃、まだ生きていた父から確かそんな感じの御伽話を聞かされていたし。
本当にそんな存在に会えるのならちょっと面白そうだと楽しみにしていたのだが……違ったようだ。
……いや、もしかして。
俺が握っている黒い剣の重さのせいで床を抜けてしまったのだろうか。
疑問は尽きない。
結構、死んだ後でも考えることはたくさんあるんだな、と、飛ぶように上へ上へと流れ続ける雲を眺めながら、俺はそんな風に色々と考えていたのだが────
しばらく落ちると、少し不安になってきた。
俺の身体は落ち続けている。
でも、どこかに辿り着く気配がまるでない。
それに心なしか落ちる速さがだんだんと速くなっているような気がする。
一体、俺はどこへ向かっているのだろう。
そんな疑問を抱いた瞬間、不意に視界がひらけた。
急に目の前が明るくなり、俺は目を細め辺りの様子を伺った。俺は分厚い雲のようなものを、突き抜けて下に出たようだった。見上げて見れば、俺が落ちて突き抜けたのはやっぱり、そのまま雲のように見えた。
そう、多分、あれは雲で間違いない。
こんなに近くで見たことはなかったが……確かにあれは、いつも見上げていたあの雲だ。
それが────すごい勢いで遠ざかっていく。
────なんだ、これは。
少し視線を下げて辺りを見回すと、遠くに山の稜線が見えた。
さっきまでの幻想的な光景から、急に見覚えのある風景に近づいてきた気がする。
あれはどこかミスラの街へ向かう途中、馬車の窓から見た山々によく似ている。
ますます、見覚えがある風景に思えた。
いや、違う。
似ているんじゃない。
多分、同じ山だ。
俺は人の名前を覚えるのは苦手だが、地形と風景を覚えることに関しては結構、自信がある。
あれはミスラの街の周辺の山々で間違いない。
あの山は確かに俺の記憶にある山だ。
ということは────?
……どういうことだろう……?
ここから見える風景から考えると、俺が今いるのは、ミスラの街の、遥か上空……という気もしてきたのだが。
「────まさか────!!」
俺は恐る恐る、なるべく見ることを避けていた、自分の身体が引っ張られる方向へと目を向けた。
「────────────ッ!!」
その瞬間、後悔した。
見なければよかった。
遥か遠くに、見覚えのある街並みと見覚えのある大聖堂の屋根が見えた。
下を見たのは一瞬で、街もほんの小さく見えただけだが、あれは間違いなくミスラの街だ。
となると、ここはやっぱりミスラの街の、上……?
────そう、やっぱり、ここは空だ。
でも、おかしい。
なぜ、俺はこんなところにいるんだ。
ついさっきまで、俺は地下の奥深くに居たはずなのに。
……そうか。少し、思い出した。
あの骸骨の怪物にいきなり下から殴られた俺は上へと飛ばされ、そのまま咄嗟に黒い剣を盾にしながら、迷宮の天井に突っ込み────
そこから意識がなくなった。
頭が、ズキズキと痛む。
そうか、俺はあのまま天井を突き抜けて、真上に打ち上げられた……ということなのだろうか?
となると────俺は今。
あの化け物に雲の上にまで打ち上げられて、そのまま、そこから落ちているということになる。
「────────────ッ!!」
俺は再び自分が落ちる方向に目を向け、途端に恐怖で体が硬直した。
そして、ようやく気がついた。
────やっぱり、まだ俺は死んでいないのだということに。
「────────!!」
自分の置かれた状況を理解しかけ、俺はまた気を失いかけた。
見下ろすと視界の奥に見える形の整った街。
あれは確かに、俺がさっきまでいたミスラの街だ。
……それが、あんなに小さく見える……?
これは高いなんてもんじゃ、ない。
あの骨のたった一撃で、俺は一体どれだけ上に飛ばされたと言うんだ。
そして、俺の身体はなすすべもなく、眼下のミスラの街へと近づいている。
この光景だけで目眩がする。
意識が、飛びそうだ。
だが、ダメだ。
このまま意識を失ったまま墜落したら、きっと俺は助からない。
体が下へ下へとどんどん加速していくのを感じながら、俺は落下の恐怖に耐えようと必死で歯を食いしばった。
でも────おかしい。
確かに俺は高いところは苦手だ。
でも、昔、子供の頃に吊り橋の架かった崖から落ちた時はここまで恐ろしくはなかったと思う。
あれぐらいだったら、大人になった今なら耐えられる。
そう思っていた。
それなのに、この疾さは何だ?
これはちょっと、異常だ。
あまりにも、疾すぎる。
俺は今、これまで体験したことのない速度で地面へとまっすぐに落下している。
視界に映る風景が、溶けるように流れていく。
こんな疾さは俺は今まで、体験したことがない。
それにどう言うわけか、さっきからまったく身体に風を感じない。
まるで【しのびあし】を使っている時のような。
だが別に、自ら進んで使っているわけでもない。そんな意味もない……一体、なぜ。
しばらく落下した後で、俺はその原因に気がついた。
────これだ。この剣だ。
俺の持つこの『黒い剣』が俺を、今、とてつもない力で下へ下へと引っ張っている。
刃の無い刀身で空気の壁を切り裂き、全ての障害物を取り除くようにして、俺をぐいぐいと引っ張っているのだ。
さっき『迷宮』の奥深くへと落ちて行った時と同じような状況だ。
いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
だがこれは本当に……まずい。
────あまりにも、疾すぎる。
疾すぎて風景が歪み、俺の身体が落ちていく先以外、もう何も見えなくなった。
恐怖で声も出ない。
少しでも気を抜いたら、一瞬で意識を失いそうだ。
もう、空中では減速することすらかなわない。
むしろ、まだまだどんどん加速している。
このまま落ちたら、死ぬ。
もはや、この頑丈な剣を盾にして落下の衝撃を和らげるぐらいしかないかもしれない。
少なくとも、それぐらいしか助かる方法は思いつかない。
今、この剣を手放したら絶対に俺は死ぬ。
だから、俺は全力で黒い剣を握り込み、恐怖に耐えながら自分が落ちていく一点を見つめ、その時を待った。
「──────────────────────!!」
俺は目を見開きながら落下し、心の中で声にならない叫びをあげた。
だが、叫ぼうにも叫べない。
そんな暇すらない。
俺の眼前に、とんでもない勢いでミスラの街が迫ってくる。
大きな穴の空いた大聖堂の屋根が見えたかと思うと、俺は瞬時にその穴を通り過ぎ────
その穴の向こうに、巨大な骸骨のような化け物を見つけた。
なぜ、あれがあんなところに。
あれも地下深くにいたと思ったが。
そして、なんだか急に辺りが暗くなった気がする。
今、何が起きている……?
疑問は尽きない。
でも、とりあえず────
────いいところに、いた。
「パリイ」
俺は全力で黒い剣を振り、丁度そこにいた骸骨の頭に思い切り勢いをぶつけ、なんとか、窮地を逃れることができた。






