86 産声
その日の『聖都』の空は気持ちの良い青空だった。
街全体がティレンス皇子の成人を喜ぶ祝福の雰囲気に包まれ、至る所で音楽や笑い声が響いていた。
だが、なんの前触れもなく、異変が起きた。
「────あれは、一体なんだ……?」
街の中央に位置する大聖堂の屋根が突然、爆発するように吹き飛んだかと思うと、何かが空へと飛び出した。
それを目撃した人々は疑問に思い、目を凝らした。
聖堂の屋根を突き破り、勢いよく空に飛んでいった何か。
それはどこか、剣を持った人のようにも見えたが、すぐに上空へと消えていった。
「……いったい、何が起きたんだ……?」
各国から貴賓が招かれ祝賀会が行われているはずの大聖堂の上部が突然、大きく破壊されたのを見て、人々は戸惑い、ざわめきが起きた。街中で奏でられていた皇子の成人を祝う楽しげな音楽が途絶え、人々は一斉に爆発のあった聖堂を見上げた。
直後────
青々としていた空が突然、赤黒く染まった。
誰一人、今、何が起きているのかを理解できなかった。
大聖堂の周囲に立ち並ぶ木々から鳥が一斉に飛び立ち、辺りに奇妙な地響きが起きた。
そうして人々が戸惑ううちに、その揺れはだんだんと大きくなっていく。
その不気味な震動は何かの胎動のような────まるで、巨大なものが地の底から這い出してくるような。
大聖堂を遠くから見守る人々は、そんな不安を感じた。
「……なんだ、これは……?」
そうして地響きが止むと、空が突然、全くの闇に染まった。
まだ正午を過ぎたばかりだというのに、普通ではありえないことだった。
そんな現象は、未だかつて誰も見たことがなかった。
一瞬にして街を静寂が包んだ。
その異変は『聖都』ミスラの人々にこれから得体の知れない不吉な何かが起こることを予感させた。
◇◇◇
あの男を力の限り叩き飛ばして開けた竪穴を這い上ると、その怪物は大聖堂の舞踏会場の床に空いた穴から顔を出し、自分の顔を見て恐怖に縮み上がり悲鳴を上げる小さな者共を眺めながら、感慨に耽っていた。
────ああ、ようやく地上に出てこれた。
自分があの暗い地の底から這い出たのは、何年ぶりのことだろう。
少なくとも、二万年はあそこに自分は閉じ込められていたことになる。
ここまで、本当に長かった。
小賢しい者共にあの小さな青い石の中に封じ込められてから随分と長い歳月が経った。
その間ずっと、自分はあの石に力を吸い取られ『迷宮』に縛り付けられていた。
力を吸われる度、自分の身体は朽ち、今やほぼ骨格だけを残すのみとなった。
ああ────すぐにでも食べ物が、欲しい。
二万年もの長きに渡る飢えを満たす、美味い血が欲しい、と怪物は逃げ惑う小さき者共を品定めした。
『……ア゛ア゛……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛』
思わず漏らした歓喜の声で聖堂が揺れ、建物に亀裂が入るのを愉快に感じながら、怪物はゆっくりとその場を見回した。
ああ────あれもこれも、美味そうだ。
まだ満足に舌が出来ていないその怪物は心の中で舌舐めずりした。
流石に、各国の要人ともなると、良いモノが揃っている。
当初の目的とは違うことになったが、あれらをここに集めたのは、正解だった。
……だが、あの『魔族』がいない。
そのことに気がつき、怪物は少し落胆した。
逃げたか。隠れたか。
あれを一つの目的にして、自分はここまで這い上がってきたというのに。
外に出ることを決めた瞬間に、まずはあれを喰べたい、と心から思ったのに。
地下に貯めているあの石を喰らう前に、あれが欲しいと思っていたのに。
────何故、あれがいない。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛』
苛立ちを憶えながら改めて周囲を見回す。
やはり、いない。
大事にとっておいた、あのハーフエルフの肉体と血は美味かった。
だが────あれは、もっと美味い筈だった。
地下にはあれの成れの果てが沢山貯めてある。
自らが『悪魔の心臓』と名付けた、極上の魔力を秘めた魔石。
あれは、本当に良いものだ。
死んでも最高の状態で『血』を貯めておける。
あの石も、食えば確かに美味いだろう。
だが────最初は、やはり生きている者がいい。
生きた新鮮な肉と血には決して敵わない。
最初に口にするなら、それがいい。
自分は相当に長い間、待ったのだから。
欲望を押し殺し続け、我慢し続けた。
だから、せめて最初はあんな石ではなく、折角であれば一番美味いものを喰したいと思っていた。
だが……と、舞台会場にひしめく良質の小さき者共を眺め、怪物は嗤った。
まあ、そうでなくともいいだろうとすぐに考え直した。
どうせ、残らず全て喰ってやるのだ。
自分はこれからこの『聖都』に集った全ての存在を糧とするつもりだった。元々、この『聖なる都』はそのために造ったのだから。
結局、自分は前以上の力を得る。
あの『悪魔の心臓』という優秀な食料のおかげで。
だったら『宝探し』として、あれを最後の愉しみにとっておくのも、悪くない。
すぐに見つからなくても、最後の家々を喰らい尽くすまで探し歩けばいいのだ。
自らの再誕の祝いとして、それぐらいの余興はあってもいい。
そう思い、怪物は、再び歓喜の叫びをあげた。
『……ア゛ア゛。ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……』
絶叫の衝撃で聖堂の至る所が崩落し、舞踏会場に集まる人々がまた逃げ惑い、悲鳴をあげるのを目にしながら、怪物は自らの自由を噛み締め、辺りを見回した。
────あれも。これも。
ついに、自分のものになる。
今日という日、本当の意味で我がものとなる。
あれらが全て、自らの肉体の一部となるのだ。
そう思うと、自らが組織した聖銀の鎧を纏った兵士たちが自らに刃を向けるその姿さえ愛おしい。
自分はあれらのおかげで、今日という日に産まれ直すのだ。
今や、出来かけの眼球に映る全てが光り輝いて見える。
その怪物は、その心からの歓喜を口にした。
『────ア゛ア゛。ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛────』
雷鳴に似た轟きが聖都の隅々にまで響き渡り、全ての人を恐怖させた。
それは産声だった。
────自らが自らに放つ、祝福の絶叫。
────自らが表の世界に君臨することを心から祝う、声なき声。
聖堂の建物に大きな亀裂が走り、床が、天井が、壁が割れた。
怪物にとって、今日という日は特別な日だった。
目の前にあるすべてを平らげ、自らの誕生を祝う日。
自らが再びこの世界へと生まれ出でる日。
その場の誰も抵抗ができないことに愉悦を覚えながら、怪物はゆっくりと目の前の晩餐に手を伸ばし、感動に打ち震えた。
だがその時、その怪物は浮かれていた。
二万年ぶりの飢えを満たし、自らの欲望を満たす行為に夢中だった。
だから、気がつかなかった。
自らが建てさせた聖堂の天井に空いた穴の遥か向こう。
上空から何か小さなものが落ちてきていることに。
視界の隅に点のようなものが映っていることに、何の関心も払わずにいた。
『────ア゛……?』
そうして────
気づいた時には、遅かった。
怪物が意識を向けた時にはその点のようなものは人の影となり、その小さな手で黒い棒のようなものを自らに向かって振り下ろすところだった。
……ああ、これには見覚えがある。
この『剣』とこの男は先ほど目にした覚えがある。
これは、確か────?
そうして、怪物は目の前で『黒い剣』を振り下ろす存在が何であったかを思い出した。
その時にはもう、遅かった。
「パリイ」
気がついた時には、地上に這い出たばかりのそれは念願の食事に近づこうとしていた巨大な頭部を無惨に打ち砕かれ────
轟音を立てながら、再び昏い穴の奥深くへと叩き落とされていた。






