80 聖ミスラ
『【黒雷】』
久々に自分の本来の身体に戻り、自身の持てる最高の魔法の一つを繰り出した後、多くの人間に自らを『聖ミスラ』と呼ばせていた存在────事実、かつては『ミスラ』と呼ばれていた存在は、大きな疑問を覚えた。
────おかしい。
こんなはずはないだろう。
たった今、自分は滅ぼす気で目の前の存在に【黒雷】を放った筈だった。
それも、自らの大事な身体に負担がかかることを承知で、全力で行使した。
なのになぜ、あれを放った後で相手の人間が生きているのだ。
これは、かつて神とすら呼ばれる存在にも届いた、至高の一撃。一度発動すれば一切の反撃も防御も受け付けず、殆ど無敵を誇った技。今のか弱き人類では決して到達し得ない必滅の魔道の奥義。
これを放てば、その瞬間にどんな相手でも滅した。
なのに。
なのに、何故────
「パリイ」
何故、それがあの細い剣一本で、弾き返されているのだ。
ありえない。
目の前にいる男は、光と同等の速度で放たれる雷撃を剣で受け────無理矢理に、弾き飛ばしていた。
あの小さきモノの力で?
そんなはずはない。
いったい、何が起きているのだ。
あれは一撃で、大地に地平線まで拡がる大穴を開ける程の衝撃。
それをどうやったら、あんな風に軽々と撥ね退けることができるというのだ。
こんなことは、起こり得ない────いや、違う。
認めよう。
今、自分の目の前に立つ男。
あれはやはり、おかしい。自分が数万年の長きにわたって蓄えた知識すら通じない異常な存在だ。とても信じられないが、これまでのことがその事実を物語っている。
もはや認めるしかない。
あれは、未知の脅威だ。
ミスラは強烈な違和感を精神で押さえ込み、目の前で起きる現象の観察を続けた。
そして数回目の黒雷を放った後、ミスラは一つの洞察に辿り着いた。
まだ、どういう理屈かはわからない。
だが、あの見窄らしい黒い剣に雷が当たれば、魔法の軌道がおかしな方向に変えられてしまうらしい。
────ならば、相応のやり方はある。
『【黒滅炎】』
ミスラは次に自身の生み出せる最高位の破壊の魔法────全てを焼き尽くす、紅黒い炎を生み出した。
鉄さえ一瞬で蒸発させるほどの熱量を持つ灼熱の劫火。ミスラはこの時、あと数千年は保持しておこうと思っていた魔力を惜しげも無く振り絞り、見渡す限りの空間を覆った。
数ある手のうちの、もっとも破壊力のある切り札。
消耗は激しい。
だが、この状況で出し惜しみはもう、許されない。
ミスラはかつて、これで幾つもの国を焼き尽くし、いくつもの大陸を一瞬にして滅ぼした。
相手は異常な存在だ。
だが、これを喰らえばか弱き人間など、ひと溜まりもない。
浴びれば自らも危うい程の威力。
だから倒せていて、当然。
たった二人など、塵芥も同然。
確認するまでもなく、一瞬で灰になっている筈。
────そう思っていた。
そうなるのが当たり前だった。
例外はありえない。
かつて、小さきもの共が企てた卑怯な手立てによってこの石に封じられさえしなければ、地上の全てをこれで滅ぼしてやれたのに。ミスラはそう思いながら、ここで長い間過ごしていたのだから。
────これを使う条件さえ整っていれば、自分は負けようがない。
それほどまでに信頼のおける、自身の最高の奥義。
それがこの【黒滅炎】だった。
────なのに。
その筈なのに。
「パリイ」
────何故、あの男は焼き尽くされない?
何故、すぐに灰にならない?
そして何故、平然とこちらへと向かってくるのだ。
剣で炎を振り払って?
全てが、おかしい。
こんな事は絶対にありえない。
あの男は今もその身を灼かれながら、こちらへと真っ直ぐに突き進んでくる。
その皮膚が劫火に灼かれながら、身体の表面が灰と成りながらも次から次へと再生し、近づいてくる。
────無尽蔵の、回復力。
どうすれば、あんなことができるというのだ。
いったい、何が起きている。
あの男は何者なのだ。
もう異常というだけでは済まない。
あれは、一体────あんな化け物が存在して良いはずがない。
……いや、落ち着け。
あれはあの男だけの力ではない。
あの女だ。
────ハーフエルフの女、アスティラ。
あの女が炎を和らげ、男の回復を手助けしているのだ。ここに閉じ込め、二百年は経つというのに。まだあんな力を残していたのか。
あの女の血と身体は高く評価していたつもりだったが、まだ見誤っていたらしい。
ミスラは意外に思いながら、改めて現状を把握した。もはや、誤魔化しようがない。
────力が、足りない。
衰えている。
もう、この身体も長くはないと感じた。
既に閉じ込められて二万年の時が流れた。
力を吸い取り迷宮へと返還させる機構は破壊したが、それまでに悠久の時を過ごし、あまりに老朽化しすぎた。
もって、あと一万年……いや、悪くすればあと数千年といったところか。
想像以上に身体が衰えていた。
────だが、それでも。
あれら小さき存在に後れを取ることなどない筈だ。
我らは、あれらとは、存在の次元が違うのだから。
比べるべくもなく、知識も、技術も、身体構造も、我らは遥かにすぐれている。
あれら二匹を葬ることは造作もない。
少しの力を出せば、簡単にねじ伏せられる。
その筈だった。
────なのに、何故。
「パリイ」
ミスラは前に広がる光景に目を疑った。
────あり得ない。
今、ミスラの手から放たれているのは、炎だけではない。
自身の形成出来る最上位の『防御結界』を無数に張り巡らせていた。
結界は強い力で生み出すほどに強固なものとなる。
外で使っていたハーフエルフの身体も、通常の個体と比べれば数百倍の強度の結界を作り出せたが、この身体は比べるべくもない。
迷宮の核に至るまでの道をハーフエルフの身体の限界の出力で生み出した防御結界で覆っていたが、ミスラはそれより遥かに優れた『結界』を、今や人が一つ瞬きをするほどの間に数十は生み出し続けている。
もはや過剰なまでの『絶対防御結界』。
自分がここまで守りに回ることなど、あり得なかった。今や、ミスラの周囲には蒼光の要塞と言えるほどの眩しいまでの『結界』の鎧が張り巡らされていた。
当然、ここまで守りを固めればどんな攻撃も届かない。自らの最高の攻撃魔法【黒雷】を最高出力で十束ねたとして、貫く事は叶わない。
────それを、あの男は。
どうして、なんでもないもののように叩き割るのだ。どうやって、あんなに易々と打ち壊しているのだ。
男は、その身を灼熱の劫火に灼かれながら前に出続け、既に結界の壁を数千は壊し続けている。
その勢いが、止まらない。
────信じられない。
この時代には存在し得ない優れた技術で作り出されている筈の『結界』が、目の前の小さな存在に次々に打ち破られていく光景に、ミスラはもはや冷静ではいられなかった。
次の層を生成する間も無く、数百の結界が、目の前の人間の手に持つ黒い剣で叩かれ、あっという間に消失していく。
何なのだ。何者なのだ、あの男は。
あの男が全てを狂わせている。
何故、あんなものが存在するのだ。
────いや、違う。それだけではない。
見落としていた。
何故、今まで気がつかなかった。
あの男も異常だが────あの剣。
あの剣こそが問題だったのだ。
本当に何故、今まで気がつかなかったのだ。
────あの『黒い剣』。
あれは愚王が『還らずの迷宮』の深層から発掘し、所有していたものに違いない。
それはおそらく世界最高峰の遺物であろうという認識はしていた。
『還らずの迷宮』には自らと同じ強力な存在が封じられている筈。
ならば当然、副葬品も当時の最高峰クラスの品であるに違いないと目をつけていたのだが────。
完全に見誤っていた。
あれが、最高峰クラスの遺物などと。
────とんでもない。
あれは、決してそんな尺度で測っていい代物ではない。
存在自体が、全くの別物。
この世の他の何かと比べること自体、馬鹿らしい程に隔絶した性質を持つ唯一無二のもの。
────本当に何故、今の今まで気がつかなかったのだ。
あれは全く存在の格そのものが違う。違いすぎる。
ああいうモノが実際に存在するはずだと、話には聞いていた。
かつての小さきモノ達が最後のあがきで異様なものを作り上げたらしいということは知っていた。
だが、実物を目にするのは初めてだ。
そして見れば見るほど、脅威に感じる。
見れば、わかる。
あれは他の遺物とは全く比べるべくもない異常な組成を持った、本来存在するはずのない存在。
────『理念物質』。
────二万年前のあの時代。
今はもう神話の時代と呼べるあの時代に、我々と対抗できるまでに繁栄した小さきモノどもの文明の粋を全て集めて作られた、唯一にして無二の到達点。「全てに干渉されず、全てに干渉する」ことのできるという、現実には決して存在するはずのない、矛盾した物質。
それを用いて形作られた、概念上の神にすら敵対しうる唯一無二の、至高の武器。
何故、あれがあんなところに。
あれは────あれだけは最高峰という呼び名すら生ぬるい。
あれは、二万年前に栄華を極めたあの文明の時代でさえ特異点と呼ぶ他ない、力を求める者であれば、全てを投げ打ってでも手に入れる価値がある世界最高の存在の一つ。
そして、もはやまともな敵の存在しないこの時代に、あれを手にすることは────すなわち、全てを手中に収めることに等しい。
そんなものが、既に発掘されていたというのか。
だが、見たところあの剣は全ての力を失っている。
損傷が激しく、あれの機能は停止しているはずだ。
あの矛盾した物質の性質だけは残っているようだが、元が精緻を極めた構造であるが故に、あの状態ではとても使いものにならないはずだ。
あれでは、本来、手に持って扱うことすらままならない。
なのに。
それなのに────
「パリイ」
何故、あの男はあの剣を振るっている?
あれは、あんな風にして振れるものではない。
決して、まともに触れることすら許されない究極の物質。
なのに、何故────
何故、あの男は。
あれをあんなに当たり前のように振れるのだ。
全てが、何もかもがおかしい。
あの男も────あの男の持つ、あの剣も。
「パリイ」
男の持つ剣が、ミスラの全ての結界を貫いた。
同時に、自らが生み出した極限の劫火がミスラの身を包み込み、激しく灼いた。
『──────────────────』
二万年ぶりの苦痛。
二万年ぶりの焦燥。
二万年ぶりの混乱。
空気の通らない喉で、ミスラは声にならない絶叫をあげた。
────おかしい。こんな筈はない。
こんなことは起こりえない。
このままでは、自分はこの小さきモノに殺される。
この自分が。このミスラが。
あの時代ですら、神にもっとも近き者と呼ばれた、この至高の存在が。
あんなものに。
あんな、突然降って湧いたような存在に、滅ぼされてしまう。
────自身に絶対にそんな結末は、ありえない。
そう思っていたのに。
何故────
「パリイ」
何故、この男の剣は自分に届くのだ。
なんなのだ、この男は。
この男は、おかしい。
全てが矛盾している。
この男は振れる筈のない剣を振り、反応することすら敵わない筈の雷を弾き返し、絶対に破れない筈の結界を全て貫き────今、誰にも触れる筈のない、自らの顎を砕いた。
『──────────────────』
ミスラはその時、遠い昔に忘れていた筈の古い感情を思い出し、灼かれる肉のない喉から声にならない声をあげた。
────それは得体のしれないものへの、恐怖の叫びだった。
同時に、ミスラは自分が計画していたことの全てを諦めた。
────ああ。これはもう、駄目だ。
自らが思い描いていた予定の変更は、避けられない。
もう呑気に復活の時期を演出しているわけにもいかなくなった。
もはや、それも止むを得まい。
今、目の前に立つのはそれほどの存在だからだ。
……だが、そのためにあれらを失うのは惜しい。
────ティレンス。
新しい身体として本当に期待し、可愛がっていた。
あれはよくできた、優れた体だった。
やっとあれらが繁殖可能な年齢にまで成長し、母体となった旧い身体との交換はもう目前だったのに。
あと少しと言うところで邪魔が入った。
本当に、惜しいことになった。
そして────リンネブルグ。
あれも、ようやく手に入るところだったのに。
次の身体の予備として。そして新たな母体としても本当に期待していた。
稀に見る良い『血』の個体。
あの『血』さえ手に入れば、この国は更に繁栄する。
優れた存在を、いくらでも、確実に増やせる。
そうすれば、この本体の良い肉となる。
そう思っていたのに。その機会も失う。
何より────『ミスラ教国』。
自分を崇める国として、一から作り上げた愛しい国。
大陸中から数を集め、来たる復活をスムーズに進める為の教義をつくり、信仰を支える権威も整えた。
だんだんと都に住む人口も増え、復活の土台は着実に整いつつあった。
でも、多少増えたとはいえ、自らの血肉とするにはまだまだ足りない。
あれらの数は自分の飢えを満たすには、まだまだ少ない。
貪るのは、国がもっと育ってから。
じっくりと待ってからの方が愉しめる。
そう思ってずっと我慢してきた。
愉しむ為の仕掛けも、色々してきたつもりだった。
それが全て台無しになるのが、本当に惜しい。
時間をかけて作り上げようとしていたものを、途中で全てを失ってしまうことになるのは、本当に口惜しい。
だが────それも、もういいのだ。
諦めるしかない。
目の前のこの男には、自身の持ちうる力全てをぶつけなければ、勝てない。
既に自分はそう悟った。
ならば、選択の余地はない。
────そうだ。
幸い、自分には時間がある。
悠久とも言える長い時間が。
焦る必要はない。
この二百年余りで築いたものを失うのは惜しいが……また、一から作ればいい。
自分は、生き延びさえすれば、また次があるのだから。
『──────────────────』
ミスラは灼熱の炎にその身を灼かれながら、静かに納得した。
やはり今が────収穫の時期だ。
少し、思ったよりも早まっただけ。
これから起こることは、将来、次に営巣に取り掛かる時のための予行演習と思えばいい。
これは必然。
起こるべくして起こること。
避けられない手段と、その結果としての自らが作り上げた国の消滅。
それは避けては通れない道なのだ。
────ならばいっそ、盛大な祝杯をあげようではないか。
『──────────────────』
ミスラは顎のない口を開け、声をあげずに嗤った。
その灼かれる喉に、二万年もの間、我慢し続けた深い飢えと渇きを感じながら。
そうしてミスラは積み上げた全てを棄てる覚悟をし、自らが長い間閉じ込められ、今や都合の良い隠れ家でしかなくなっていた『檻』の中から飛び出した。






