35 皇帝の早馬
前方から押し寄せる銀色の波を、皇帝は不可解に思いながら眺めていた。
「何だ、あれは──?」
まるで生き物か何かのようにうねり、空に広がる銀の波──
それはよく見ると『剣』の群れだった。
皇帝はその剣の形には見覚えがあった。
それは、見れば見るほど、自らが皇国軍の兵士たちに与えた『魔装剣』にそっくりだった。
だが、あれがあんな風に宙を舞う理由など考えられない。
──何が起きた?
疑問に思った直後、皇帝は自らの背後に、何かが物も言わずに立っていることに気がついた。
「……誰だ」
皇帝は急いで振り向き、それが何者かを確かめようとした。
見れば、それは黒い何かを持った男だった。
男も、こちらをまっすぐに見つめ──だが目が合った瞬間、男は幻のように消え失せた。
「何だ、あれは」
突然、男の立っていた地面が割れ辺りに揺れが起きた。
皇帝の跨る馬はその異変を恐れ、嘶いた。
その直後──
空に舞っていた無数の銀色の剣が、次々に眼前の兵士たちへと降り注ぐ。
兵士たちは力を弾く『魔装盾』を構え、攻撃を一斉に撥ね返しているが、その反対側の手には下賜した筈の『魔装剣』が見当たらない。
──どういうことだ?
皇帝は手綱を引いて馬を鎮めると、この状況が何なのか、側に控えていた近衛兵に問いかけた。
「いったい、何がどうなっている」
だが、答えはない。
衛兵達は呆けたように空を眺め、何事かを呟いていた。
皇帝もそれにつられて見上げると、そこに板状の何かが舞っているのがみえた。
あれも、どこかで見かけたような気がする。
皇帝は再び臣下に問いかけた。
「何だ、あの板切れは」
だが、誰からも答えはなかった。
皆、再び空から降り注ぐ剣を避けることに夢中で、皇帝の声は耳に入らないようだった。
その両の手にはもう、何も握られていなかった。
──何だ、これは。何が起きた。
皇帝が疑問に思っていると、再び、背後に男が現れ──また目があった。
その瞬間、皇帝はその男のことを思い出した。
「貴様は、まさか」
そうだ。
確か、この男は【神盾】イネスの前に飛び出てきた男ではなかったか。
先刻【遠見】の魔道具で見た通りの顔。
間違いない。
いや、だが……
それは少しおかしい。
だったら、何故、あの男がここにいる?
あの男は遥か遠くの地平、それこそ【遠見】の魔道具の限界距離に近い位置にいた筈だ。
あれから、ものの三十秒も経っていない筈。
どうやって、ここへ?
いや、この際、それは捨て置く。
大きな疑問は他にある。
この男は恐らく、自分が魔導皇国の『皇帝』だと知っているはずだ。
他の兵には目もくれず──一直線に、視線を投げかけてくる。
──この男の目的は一体、なんだ?
いや、この状況で、男の目的は一つしかないだろう。
皇帝の命を獲ること。
まず、それ以外には考えられない。
「カヒッ」
皇帝は自らの命が狙われていることに突然思い至り、喉の奥から奇妙な音を漏らした。
頼りにしていた武器を与えた臣下は、使い物にならない。
自分はこれだけの兵に囲まれていながら、今や完全な無防備──命を狙うなら、こんな好機はない。
いつもは側に控えている近衛兵たちも、自分の剣を喪失し、周囲の混乱に戸惑っているようだった。
皇帝の身体は縮み上がり、恐怖に硬直した。
だが、すぐに、あらゆる攻撃と魔法を弾き返す黄金色に輝く至上の防具──王類金属製の『覇者の鎧』が、全身を護っていることを思い出し、落ち着きを取り戻した。
──来るなら、来るがいい。
兵が役に立たずとも、自分だって戦えるのだ。
そう思って皇帝は腰から特注の『聖銀魔装剣』──『覇者の剣』を抜き、馬に跨りながら必死に構えた。
だが、男は急に皇帝に興味を無くしたかのように目を逸らし、再び、忽然と消えた。
「どうした。来ないのか」
皇帝が不思議に思っていると──今度は空から、何か大きなモノが降ってきた。
黒い筒状の何かが、皇帝の目と鼻の先の地面に轟音を立てて突き刺さった。
「ゲバァッ」
思わず皇帝は自慢の馬から逆さまになって落馬し、地を嘗めた。
必死に地面から顔をあげると、目の前のその黒い魔鉄製の筒に、見覚えがあった。
それは、魔導皇国の新型決戦兵器『光の槍』のように見えた。
──おかしい。
何故、こんなものが空から──?
先ほどまで、我が軍の決戦兵器『光の槍』は全て、あの愚王の都へと向いていたのだ。
それが、いきなり目の前の地面に突き刺さるなどということは、あり得ないだろう。
そう思って辺りを見回すと、他にも同じような黒い筒が三本、地面に突き刺さっているのが見えた。
「何故、あれらが、あんなところに挿さっている」
皇帝は目の前の光景が信じられなかった。
「何が起きた──何なのだ、これは」
口の中で疑問を繰り返すうちに、また背後に「あの男」が現れた。
男は、何をするでもなく皇帝の姿を見つめ──再び、音もなく消えた。
「あの男は、何なのだ」
皇帝の頭の中は疑問だらけだった。
そもそも、自分は戦場に万の兵を率いてきた筈。
それに万の剣を与え、万の盾を与えた。
その大軍を前に、あんな男が一人でここまで辿り着くことなど、起こり得ないのだ。
少なくとも、布陣は完璧だった筈。
装備はこれ以上にないぐらいに、豪華にした。
過剰配備と言ってもいい。
どう考えても負けようのない戦。
だからこそ、自分は物見遊山のつもりで、単なる娯楽として、戦場までついて来ることにしたのだ。
一般兵に与えた【魔装剣】に【魔装盾】、
そして選りすぐりの精鋭に与えた【魔装砲】と【魔装鎧】に加え、
あの伝説の【厄災の魔竜】すら屠る『光の槍』四門を揃え、どんな強力な魔法でさえ弾き返す、無敵の大型防衛魔道具『英雄の盾』を三つも配備することで万全を期して──
──待て。
そうだ、忘れていた。
あの盾は?
あの無敵の大盾はどこに行ったのだ?
あれさえあれば、どんな強力な攻撃が来ようと、どんな伏兵がいようと防げたはず。
あれは、どこへ行ってしまったのだ──?
そう思って見回すと、地面に刺さった四つの黒い筒の間に、歪み、壊れた十字架状の何かが転がっているのが見えた。
あれは、まさか……?
……いや、違う。
そんなわけがない。
皇帝はあんなものには見覚えがなかった。
あれは自分の知っている其れとは違う。
皇帝の記憶にある『英雄の盾』は純白に輝き、精緻に刻まれた回路は魔導の光に満ち、とても威厳に満ちていて──決してあんな惨めな鉄屑の塊ではなかった。
「まさか、壊されたというのか」
だが、認める他ない。
あれが『英雄の盾』だ。
全てを弾くはずの、究極の防衛兵器。
必勝無敗の魔導皇国軍を守護するはずの、無敵の盾──だった筈のモノ。
あれが、なぜ、あんな姿に?
皇帝にはわからないことだらけだった。
そうして男は再び現れ──皇帝に視線を向けた。
その手に、不吉な黒い剣を持ちながら。
──待て。 あれは、何だ?
皇帝はその時、初めてその剣の存在に気がついた。
「ま、まさか、あれは──!」
いや、間違いない。
この自分が見間違える筈もない。
それは、一度、愚王が手にしているのを目にして以来、皇帝がずっと追い求め続けた迷宮遺物『黒い剣』そのものだったのだ。
そして、更に疑問に思った。
あれが本当に『黒い剣』だとするならば──あの男は、何者なのだ?
あの愚王が決して手放そうとしなかったあの剣を、何故、あの男が手にしている?
そして、何故──
あの男はあんなにも普通に立っていられる?
あの未知の金属は、到底、普通の人間が持ち運べるような代物ではない。
魔法を一切受け付けない、特異な性質。
王類金属や竜の牙、最硬金属ですら傷つかない並外れた硬度。
そして、何より人智を超えた異常な重量──それが、あの『黒い剣』の特質。
屈強な兵士が10人がかりでも持ち上げられない、常識はずれの存在。
それを、片手で持っている?
そんなふざけたことがある筈がない。
100人を一撃で吹き飛ばすという、あの馬鹿げた怪力で知られる愚王ですら両手で振るうのがやっとであったという、あの『黒い剣』を、ああも軽々と──?
「そんな、莫迦な話があるか」
だとすれば、あの男はあの化け物王以上の実力を備えていたとしてもおかしくはない。
今、あの男が『黒い剣』を所持しているということ。
それはあの愚王が、あの剣を譲渡したということに他ならないだろう。
ならば尚更──あの男は、何者なのだ?
あんな男の情報は、どこからも入ってこなかった。
どう考えても王国の主力級──そんな、核心的な戦力を見落としていたというのか。
そんなものが、誰にも知られずに存在していたとでもいうのか。
「馬鹿げている、そんなこと」
口をついて出たのは理解を拒絶する言葉だった。
だが、皇帝はすでに理解していた。
もう認めざるを得なかった。
一体、どうやったのかは分からない。
どんな方法を用いたのかはわからない。
だが、確信がある。
──目の前の光景は、この男がやったのだ。
万の兵の『剣』と『盾』が失われ、皇国軍全体が混乱の極みに至っているのも。
『光の槍』が無残にも地面に突き刺さっているのも。
『英雄の盾』があんな惨めな姿になっているのも。
──この男が全て一人でやったのだ。
他に、何の原因も見当たらない。
理性ではわかっていても、とても信じられなかった。
悪い夢としか思えなかった。
事実を受け入れることで、皇帝の顔に苦悶の表情が浮かぶ。
だが、どうしても腑に落ちなかった。
一体、何故──?
それほどの力を持ちながら、何故、奴は自分を生かしたままにしておく?
この男は、敢えて皇帝を無視するかのように現れては消えてを繰り返した。
何故そんなことをする必要がある──?
何故、自分を殺さない──?
そう疑問に思った瞬間。
向かい合っていた男は突然、皇帝を嘲笑うかのように不気味に口の端を釣り上げた。
「ヒッ」
皇帝は喉の奥から乾いた悲鳴をあげた。
同時に、皇帝は男の不気味な嗤いの意図を理解した。
──この男は、自分を心から弄んでいるのだ。
今も、自分の恐怖にひきつる顔を眺め、愉しんでいる。
この戦場にあるものが何であるか、それを正確に理解し、
全て分かった上で、恥辱を与え、叩き潰し──
──存分に弄んだ上で、自分を嬲り殺そうというのだ。
この男にはそれが出来る。
やらない理由など、ない。
自分が愚王を捕らえた時にやろうと思っていたことを思い出し──
そう思った。
「──ウヒッ──」
皇帝の下腹から何か温かいものが流れ出し、脚へと伝った。
直後、男はまた目の前から幻のように消えた。
「──ッ──!」
その刹那、皇帝は今、この瞬間に自分のすべきことを思い出した。
すなわち──
皇帝は馬に再び跨り、混乱に惑う全ての臣下に背を向け──
筋力を何倍にも増幅する『付与』のなされた王類金属製の最上級魔導馬具を身につけた自慢の早馬を駆り──
その戦場から一人、全速力で逃げ出した。






