224 王妃の墓標
「リーン。やはり、ここにいたか」
王都の中心部には広い共同墓地の区画が存在する。
貴賤区別なく死者が埋葬されるのは冒険者の国故の慣習だが、区画の片隅にはとりわけ綺麗に整えられた、花壇に覆われた白い墓標があり、その平滑な石の中央に小さくクレイス王の妃、レオーネの名が刻印されている。
「……お兄様?」
沈んだ顔でじっと白い墓標を見つめていた王女リンネブルグは、背後からの声に目を丸くして振り返る。
すると、そこには兄のレイン王子が片手に小さな花束を持って立っている。
「こんな時に墓参りか? 城内でじっとしているように言っただろう」
「お兄様こそ……どうして、ここに?」
「おかしいか? たまには献花ぐらいしても良いだろう」
「……本当に珍しいですね。そういうのはあまり気にしないタイプなのかと」
「いつも忙しくて、まともにできないだけだ。忘れているわけじゃない」
そう言ってレイン王子は屈み込み、白い墓標の上にそっと花を添えた。
「……お前は最近、ここにいることが多いそうだな。ロロとイネスが心配していた」
「ここにいると少しだけ安心して。お母様がまだ、何処からか見守っていてくださる気がして」
「母様はもうここにはいない。別の場所だ」
「知っています。でも、ここに来ると不思議とお母様の存在を感じられる気がするんです。なんとなく全身が暖かいものに包まれているような……少しだけ、落ち着いた気持ちになるんです」
そう言って寂しそうに微笑んだ王女に、王子はしばらく沈黙する。
「……リーン。母様のことはどれぐらい憶えている?」
「お母様のことですか? 顔はもう、絵を見なければ思い出せなくなっていますが……憶えている限りのことは、憶えているとしか」
「母様がいなくなったのはまだお前が小さい頃だった。お前は俺より、母様と一緒にいられた時間はずっと短かった」
「……はい。でも、お母様と一緒に過ごせた時間は僅かでしたが、思い出の一つ一つがとても楽しくて。一生忘れられないぐらいの宝物になっていますから……もちろん、もっと長く一緒にいられたら、とは何度も思いました。でも、仕方ないじゃないですか? 限られた時間の中でずっと笑って一緒に過ごせただけでも、幸せだったんだと思います」
「……そういえば、その髪型も母様の真似をしていたのだったな。変えたりはしないのか?」
「はい。今でもお母様は私の目標ですから。いつも強くて、優しくて。元気に明るく笑っていて。もし、お母様がここいたら────こんな風に人前で不安な表情を見せてしまう私は、叱られていたかもしれません」
王子は何も言わず、話しているうちに暗く沈んでいく王女の言葉に静かに耳を傾けた。
「……最近、ずっとここにいるのは、人前に出たくないからなんです。こんな憂鬱な顔を見せたら、誰だって心配させるに決まっています。もっと辛い立場の人だっているはずなのに」
「お前の悪い癖だ。そうやって他人の気持ちまで背負い込もうとする」
「……でも。流石にロロやイネスの前で、自分が一番辛そうな顔をするのは違うと思いますから」
「……すまなかったな、リーン。お前がそんなに思い悩んでいたのなら、もっと早くに俺が話を聞いてやるべきだった」
「えっ? 急に、どうしたんですか?」
「思えば、お前に兄らしいことは何もしてやれていないと思ってな」
兄のふとした発言に、王女は表情を緩ませた。
「……ふふ、意外ですね。お兄様がそんなふうに思っていてくれたなんて」
「俺だって、流石に妹のことぐらいは気にかける」
「大丈夫です。お兄様には色々やることがあるはずですでしょう? 私なんかに構っている暇があったら、国民の方を向いてもらわないと困ります」
「つくづく、自分の器が小ささが嫌になる。家族か仕事、どちらか選べと言われたら俺は本当にどちらかしか選べない」
「私はそんなお兄様を誇りに思っていますよ」
「……イネスのこともお前が気に病む必要はない」
「……はい。彼女がそんなに弱くない人だということは、私だってちゃんと知っています。でも、どちらqかというと、心配というより……怖いんです」
沈黙した王女はしばらく考えて、言葉を選んだ。
「……あの時、あと一つ何かが違ったら、イネスはきっと王都には帰ってこれませんでした。昨日の出来事だって、もし、ノール先生とレイさんがいなかったら、あの時に王都が終わってしまってもおかしくなかったのではないか、と。そう考えるとすごく、怖くなってしまって」
「……昨晩の件に関してはそれだけの危機的状況だったのは確かだ」
「お兄様。『長耳族』とは何なのですか? もし、それがわかれば」
「────リーン」
王女の言葉を遮るように、王子は別の話を切り出した。
「この場でお前に伝えておくことがある。本日の四カ国協議を経て、これより『長耳族』の討伐隊を組織することになった。おそらく、ノール殿を中心とした四ヶ国の連合となる」
「……わかりました。では、私もぜひお力添えを。これでも、私は色々な経験を経て────」
「違う。お前は決して志願するな。それを伝えに来た」
王女は困惑の表情で王子の顔を見返した。
「……どうしてですか? 私はこれまでも、危機的な状況は山ほど経験してきました。今回だって────」
「お前は何もわかっていない。今回の件は全く質が違う。実質、『長耳族』との全面戦争だ。これに負けたらクレイス王国はおろか、周辺に存在する魔導皇国、ミスラ教国、そして商業自治区までもが綺麗に消滅することになるだろう。おそらく、この地が歩んだ歴史ごと」
「……歴史ごと?」
「奴らは自分たちと敵対した者を徹底的に排除する。後には、国があったという痕跡はおろか、人が住んでいたという記録すら残らない。故に、お前はこれより、逃げ延びる準備をしろ。クレイス王国は既に奴らのターゲットになっている。父上と俺は当然、その渦中にいることになるが……お前だけは未だ政治との関わりも薄い。うまくすれば逃げ切れる可能性がある」
「……待ってください。私に、また国を捨てて逃げろと?」
「お前だけではない。他にも逃げる者はいる」
「……厭です。どうして、そんなことを言うのですか? 誰がなんと言おうと、絶対に厭です。私だけ逃げるなんて、できません」
折れない意思が滲む王女の視線に晒され、レイン王子はため息をつく。
「お前なら、そう言うと思った。説得は難しいようだ」
「では────」
「だが……イネスのことはどう考えている? 『恩寵』を失った今、彼女は戦力としては数えられない。むしろ、ただの獲物として『長耳族』から狙われる立場となっているのが現状だ」
「イネスが?」
「……ああ。ノール殿とレイが例の襲撃者たちから得た情報だ。奴らはイネスの身体を欲しがっている。何に必要なのかはわからないが……『器』という呼び方からして、どうせろくな目的ではない」
「そんな」
「無論、俺たちとしても奴らにイネスをただで差し出すつもりはない。だが、彼女を逃亡する側に組み込むとすれば、逃げる者たちをサポートするに相応しい戦力を同行させる必要がある」
「つまり、私がそれだと?」
「そうだ。そこにお前がいれば、多くの人々が逃げ延びるチャンスがあるだろう」
「でも、それでも私は……」
「────リーン。頼む。これは俺の私情でもある。お前はイネスと一緒にいて、彼女を護ってやってくれ。彼女にはお前が必要だ。俺だってこれ以上家族を失くすのは嫌なんだ」
「…………そんな言い方、ずるいです」
白い墓石の前で、レイン王子は王女に背を向けた。
「────俺からの連絡は以上だ。悪いが、もう俺は仕事に戻る。今後の計画については決まり次第、詳細を伝える」
「……やはり、お兄様は私の言葉に耳を貸してはくれないのですね」
「……『長耳族』のことにもこれ以上、首を突っ込むな。お前の兄としてではなく、王政の補佐役として以後の情報の収集を禁じる。わかったな」
王子は命令口調で一方的に述べると、振り返らず去っていった。
白い墓標の前に残された王女は墓地の片隅に静かに佇み、俯いた。
「……お母様」
不意に白い墓標に小さな水滴が落ちる。
「……私はこんな時、どうすれば良いんでしょう……? 口ではああ言っていたのに本当は、怖くて逃げ出したくてたまらないんです。だから……お兄様の方が正しいんです。きっと、私ではノール先生の助けにはなりません」
王女は胸の前で震える手を強く握りしめていた。
「……私は、お母様がいなくなってしまったあの日から、少しも成長していません。厭だ厭だと泣き喚き。周りの迷惑も考えず、ただわがままばかり言っていた頃から……何一つ。未だに人前では聞こえの良いことばかり言うくせに、陰では震えて泣いているばかりの子供のまま」
王都の空に漂う厚い雲から、薄暗い墓地にパラパラと水滴が落ちていく。
「…………私はいつになったら、貴女のように強くなれるんでしょう? 歳を重ねれば自然と自分が強くなるものとばかり思っていました。でも……違うんですね。むしろ、失うことばかり知って弱くなったような気がします」
次第に大粒になる雨が王女の肩を打ち、王都全体を濡らしていく。
濡れていく墓標の前で王女は懺悔するように呟いた。
「────お母様。どうしたら、貴女のような勇気が持てますか……? 私はもう、お母様のようになれるとは思えません」
力なく発された寂しい声は白い墓標を濡らす雨粒の音に紛れ、死者たちが眠る墓地の静寂の中へと溶けるように吸い込まれていった。






