212 消えた恩寵
「一応……今日も試してみるか」
イネスが自室で手を翳し、掌がにわかに淡い光に包まれる。
────が、それだけ。
その後は何も起こらない。
「力がない、というのはこんな気分なのだな」
イネスは小さくため息を吐き、窓の外を物憂げに眺めた。
商業自治区で『忘却の巨人』に呑み込まれたその日から、イネスは『恩寵』を失った。
過程のはっきりとした記憶はない。
『聖ミスラ』の記憶の一部を引き継いだロロと、その話を解読した【魔聖】オーケン、【司書】メリジェーヌによれば、イネスの力はすっかり砂の巨人の中に移し替えられ、同時に『光の盾』を自在に行使した巨人が打ち滅ぼされた時、一緒に消えてしまった可能性があるという。
イネス自身は気が付いた時にはミスラ所有の『飛空挺』の医務室で、【癒聖】セインの治療を受けていた。
身体は何事もなく順調に回復したが、どういうわけか、幼かい頃から体に宿していた『恩寵』が綺麗さっぱり消え、どうやっても元に戻ることはなかった。
イネスは幼い頃、その力を『呪い』と考えたこともあった。
だが、いざそれを失ってみると自分が思っていた以上に依存していたことに気がつく。
幼い頃、それは気づいた時には自分の中に宿っていた。
以来、不意に与えられた人の器を遥かに超えた力を扱う技術を必死に身につけようと、心構えも磨く日々。
努力が己の人生に課された責務であると考え、同年代が興味を持つであろうことにも敢えて見向きもせず、己が為すべきことばかり考えて今に至る。
そのことに後悔はないはずだった。
少なくとも、折り合いはつけたつもりだった。
だが────その人生の根拠が突然、消え失せた。
まず気が抜けた、というのが正しいのかもしれない。
自分には重すぎる荷物が消え去ったことへの安堵。
次いで、自らの不注意により、多くの人から大きな期待を寄せられていた『力』を永久に失った、という罪悪感。
あの『恩寵』は最早、自分だけのものとは言えなかった。
国民から守護者として信頼を寄せられ、王からも愛娘のリンネブルグ王女を任されるほどに頼られた。
扱い方次第では国を滅ぼす、とも言われたほどの力であるが故に、誰かを守るためだけの存在と割り切り、初めて自分を肯定的に受け入れ、やがて誇りとすら思うようになった。
だが、それらの葛藤も、努力して得た信頼すら結局、無かったことになってしまった。
なぜなら、全ての前提が消え失せてしまったのだから。
「イネス。入るぞ」
「はい。どうぞ」
不意に扉をノックする音がする。
返事と同時に扉を開けたのはレイン王子だった。
「どうだ、調子は」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。体調そのものには何も問題ありません。しかしながら……『恩寵』の回復は、未だ」
「それに関して、焦る必要はないと言いにきた。まず、父上からの伝言を伝えておく。今後は「しばらく静養に徹せよ」と」
「それは……?」
「案ずるな。一時的なものだ。加えて、「誰でもそういう時期はある。充足期間は必要だ」とのことだ。お前が休養する間も【神盾】の称号は据え置く。待遇もそのままだ」
「……しかしながら。力を失った私が、あの称号を持ち続けるわけには」
「いいから、気に病むな、イネス。我々もこれまで、お前にばかり重責を押し付けすぎた。お前の回復は国が責任を持ってサポートする。だから、今は少し休め。長めの休暇と思えばいい。俺からは以上だが……くれぐれも、自分を責めるように考えるな。本件はお前の失敗ではなく、お前を派遣することを決めた俺たちの責任だ」
「……かしこまりました」
レイン王子が部屋から出ていくと、イネスは再び窓の外の庭園を眺め、一つ小さく息をつく。
「長めの休暇、か」
王子は一時的な休養だと言う。
だが、回復の見込みはない、とされている。
原因の分析にあたったオーケンからは「おそらく、同じ『力』はもう二度と戻ってこない」だろうと。
故に、既に自分はこの国には必要とされていないのではと感じている。
周囲の気遣いはどうあれ、自身の存在意義は【神盾】という『恩寵』がもたらす武力そのものだったのだから。
それでも焦らずに待てばいい、と周囲は言う。
にもかかわらず、イネスにはこれからの自分の想像が湧いてこない。
事実、何をしていいのかすらわからず、ただ屋敷の中で彷徨く日々。
そんな弱々しい姿を同じ屋敷で暮らす少年にも見せている。
人の心の中身が自然とわかってしまう、あの少年に。
自分が面倒を見ると意気込んで引き取って、まだ日も浅いというのに、面倒を見るどころか逆に気遣われ。そればかりか、自分が本来護るべき対象であった王女にも心配されるばかりの毎日を送っている。
「イネス」
扉の向こう側から、王女の声がする。
「遠方から、ぜひ貴女にお会いしたいというお客人がいらしていて。一緒に入っても良いでしょうか?」
「お客人? はい、もちろん構いませんが」
扉を開けてまず顔を見せたのは、イネスと面識がない少女だった。
少女はまっすぐにイネスへと歩いてくると、戸惑いの色が浮かぶ顔をじっと覗き込む。
「……ほう? お主が例の【神盾】イネスか。どんな豪傑かと思っていたら、案外普通の女子じゃのう……?」
イネスの周りをぐるぐると眺めて回る少女に、雰囲気から察したイネスはハッとした表情で王女リンネブルグの顔を伺う。
「リンネブルグ様。この方は、もしや?」
「はい。お忍びで王都にいらした、ミルバ様です」
「……皇帝陛下が、なぜここに……?」
しばらく呆然とした顔で自分の周りをぐるぐる回る幼女を見下ろしていたイネスだったが、状況に気がついて咄嗟に跪こうとしたところ、ミルバが片手を挙げて制止した。
「良い良い。そのような畏まった儀礼が厭じゃから、皇都から逃げ出してきたようなものじゃ。普通の客人として扱うが良い」
「は。しかしながら────」
「あれ? 思ったよりも元気そうだな?」
急に自室を訪れた隣国の皇帝に戸惑うイネスだったが、次に部屋に入ってきた男に目を丸くする。
「……ノール殿も?」
「ああ。リーンから調子が悪いと聞いてお見舞いに来た。これ、つまらないものだが」
「……気遣いすまないな。これは?」
「市場で売っていた『マンドラゴラもどき』の根だ。前に、イネスにお使いに行ってもらった店で売っていた。適温でじっくり焼くと美味いんだ」
「あそこか……ありがとう。あとでいただく」
説明通りに粗末な麻布に包まれた黒い物体を、部屋の隅の小さなテーブルに置いた男にイネスは小さく謝った。
「どうやら、貴方にまで心配をかけてしまったようだな。すまなかった」
「リーンの口ぶりだとだいぶ元気がなさそうな雰囲気だったからな。でも、安心した。思ったよりずっと健康そうだ」
「ああ。身体そのものには変わりない。私が失ったのは『恩寵』のみ。以前のように貴方を護ることはできないが」
「そうか。なら良かった。俺はてっきり、病気にでもなってしまったのかと」
「……良かった?」
あまりにも軽く返した男に、イネスが思わず目を向けると、男は気まずそうに頬を掻く。
「何か、おかしなことを言ったか?」
「……いや。貴方はそういう人物なのだったな。確かに、私もそう思うべきなのだろう。あの時の状況を思えば、無事な身体があるだけでも幸運だ。改めて、貴方には礼を言わなければならないな」
「まあ、そういうのはお互い様だ。俺だって、イネスには何度となく助けられているし、今更言いっこなしだろう」
「そうだな……レイも、そこにいるのか?」
イネスはそう言って、ノールの背後の壁に振り返る。
「は、はい。えっ? イネスさん、私がわかるのですか?」
「同じ『恩寵』持ちだったからなのか、理屈はわからないが。前より存在を感じることができるようになった。姿はまだうっすらとだが、声ははっきりと聞こえる」
「……そうですか。嬉しいです」
「任務のことは聞いている。ノール殿を頼む。今の私には何もできないからな」
「はい、承知いたしました。それと……その。やっぱり、戻るといいですね」
意外そうな顔を、イネスは部屋の隅に佇むレイに向けた。
「私たちにとって、『恩寵』は半ば『呪い』のようなものですが。でも、必ずしも悪いことばかりとは限りませんので」
「……そうだな」
二人の短い会話をよそに、男は部屋の中を見回し、同じ屋敷に住むはずの少年の姿を探している様子だった。
「そういえば、ロロは?」
「ロロなら、今頃は訓練場にいるはずだ」
「訓練場?」
「サレンツァから帰ってきてから、以前よりずっと熱心に鍛錬に励んでいる。それ以外の時間は、魔導具研究所の助手か、レストランの手伝いをして毎日忙しそうにしている」
「本当に忙しそうだな……? じゃあ、あまり家にはいないのか」
「おそらく、夕方には帰ってくると思うが。何か用事か?」
「いや、久々だし、顔ぐらい見ていこうかと。それと、一緒に食事をするかもと聞いたから」
「食事?」
「はい。せっかく、ミルバ様もいらしたことですし……みんなで一緒にお食事をと考えていたのですが。貴女もぜひ一緒にどうですか?」
「そういうことであれば、もちろん喜んで」
「ほう! それは良いのう。賑やかな食事は好きじゃぞ!」
「では、一旦ミルバ様をお父様のところにお連れし、いろいろ用事を済ませたらまた皆で戻ってきますね」
「……かしこまりました」
賑やかな来訪者たちが自分の屋敷からいなくなると、イネスは静かに窓際に置かれた椅子に座った。そうしてしばらくの間、手入れの行き届いた自邸の庭園を眺めた後、何をするでもなくただ天井を仰ぎ、目を瞑った。






