191 主人の残り香 3
その時、竜は怒りが腹の底から煮えたぎり、目に映る全てを破壊し尽くしたい気分だった。
なぜなら────竜は、とある匂いを嗅いだから。
最初は、近くから主人の匂いがすると感じ、思わず嬉しくなった。
だが……よく嗅ぐと、違う。
そこに漂うのは主人の匂いだけではなかった。
竜が嫌いな者の匂いが、多分に混ざっている。
竜の本性を卑怯な手で押さえ込み、捻じ曲げた者の匂い。
そう。これは確かにあいつの匂いだ。
あの不快極まりない古臭い臭気を放つ、黒い布を纏った者の。
それが、どういうわけか主人の匂いと混じり合っているのだ。
最も好きな匂いと、最も嫌いな匂いが互いに混じり合っている。
それが竜にとって、たまらなく不愉快だった。
それだけで視界に映るモノ全てを滅ぼしてやろうか、と思えるぐらいに。
竜にはその理屈が全く理解できなかった。
主人の匂いと、気に入らぬ者の匂いが混ざる理由が。
地上の支配者である竜を正当な手段で屈服させた敬うべき主人の匂いと、自分をかつて不正な手段で無理やり従わせた者が、共にいるはずがない。
ならば、どうして?
────何故、同じ所から二つの匂いがする?
一向にわからぬ理屈が竜を一層、苛立たせる。
竜にとって最も好ましい匂いが、不快な匂いで覆われているだけで、たまらなく腹立たしいというのに。
……まさか。
主人があれに殺され、喰われてしまった?
否。
もちろん、そんな筈がないのは分かりきっている。
おそらく、盗んだのだ。
卑怯にも。畏れ知らずにも。愚かにも。
我が身が服従するに足ると認めた主人の元から何か、奪ったのだ。
強い匂いを発する、何かを。
きっと自分にした時と同じように、卑怯な手を使い、陥れ、手に入れたのだ。
そう考えて、竜はまた激昂する。
────なんと、傲慢な。
小さき者の分際で、主人のモノを奪うとは。
この竜でさえ、そうしたい己の欲望に抗い、そうしなかったというのに。
それだけで竜は相手の存在を世から滅するのに足る事由と考えた。
竜は自分に敵対する者の存在を一切、認めない。
それどころか、竜が絶対の服従を決めた主人に仇なす行為など、どうにも信じ難い、この世界で最も重く、赦し難い罪だった。
故に────
竜は表情筋のない顔で、嗜虐的に嗤う。
……ならば、どうしてくれようか。
と、竜は相手をどのように蹂躙するかに考えを巡らせる。
まず、その小さき身についたか細い肉を喰らって骨を砕く。
その身が砂粒と同等の細かさとなれば、それすら残らぬように踏み潰し。
その上で、混ざり合った砂と一緒に自慢の『吐息』で焼いてやるのもいい。
そして、その存在が完全に灰と化し、煙となった後もそれすら残さぬようにもう一度、自慢の『吐息』で綺麗さっぱり滅ぼし……。
────いや、待て。違う。
まだだ。それでは全く足りないのだ。
それでは自分の時とそんなに変わらない。
主人に対して無礼を働いた輩は、当然、それ以上の報いを受けねばならない。
……では、どうする?
ではまず、その身をこの顎で噛み砕き、それで。
それで。それで。それで。
それで────?
『グァ』
相手が贖罪のためにどういった経緯をたどって消滅すべきか、竜が真剣に悩み、自分がこれから振るう暴力の吟味をしているところだった。竜は内から込み上げる破壊衝動に従い、気づいた時には黒き布を纏う小さきものを自分の巨きな顎の中に入れていた。
もう、あとはこの顎を閉じるだけ、という状態。
あと、それだけで全てが終わってしまう。
そんなにあっけなく終わらせるつもりはないのに。
……であればもう、いっそ。
このまま骨ごと噛み砕き、咀嚼しながらその先のことを考えようか……と竜が思った、その時だった。
(────? 何だ、これは)
竜に強烈な違和感が生じた。
竜は最初、その正体がわからず、自分の中に起きた異変に戸惑った。
……なぜ、このような迷いが生じたのだろう? と頭の中で頸を傾げた。
それはこれまでの竜には存在しない概念だった。
敵対者の破壊は竜の本質であり、蹂躙は義務。
普通のことであり、何もおかしなことはない。
……そう。自分は今、目の前のこれを喰らいたいと思っている。
今すぐに蹂躙し、壊し尽くし、滅ぼしたいと願っている。
骨の一片も残さず、この世から消し去りたい。
なのに……。なのに?
この強烈な違和感はなんだ?
いつものように、弱き者を心地よく噛み砕く気分になれないのだ。
竜にはそれが不思議でならなかった。
なぜ? どうしてこうなる?
これまで自分が生きて来た数千年間。
ただの一度もこんな気分にはならなかった。
既に竜の上下の顎は弱き者の身体に到達しつつあり、今すぐその柔らかな肉を裂いて骨を砕くことができるというのに。なのに。
なぜ、こうも奇妙な不快感ばかりある?
そうして、竜は刹那の間、考え込んだ。
すると……ああ、そうか。これかもしれない、という理由に。
少しだけ、思い当たることがある。
それは他ならぬ、主人の言葉。
確か……主人が自分に向け、何かを言った。
あの青色の髪の、なかなか話のわかる小さき者を通し、何か我が身に簡単な『お願い事』をした。
それはいったい、なんだったか?
怒りに鈍った竜の頭では、なかなか思い出せなかった。
竜はそれがなんであったか、自分の自慢の牙が小さき者の肌を貫くまでの数瞬の間だけ、じっくりと考えることにした。
すると、竜はすぐにその朧げな記憶に辿り着く。
すなわち。
主人の『お願い事』とは────
(……これからは、もう誰も人を傷つけないでほしい)
単にそれだけだった。
服従してのち、命令らしい命令はそれだけ。
それも、どちらかというと『お願い』された。
我が身より遥かに優れた強き者が、ただ我に請い願う。
ただ「そうあれ」と命じれば良いだけなのに。
本来、もっと、雑に扱ってもらっても嬉しかったのにもかかわらず。
竜はそれがとても心地よかった。
自分が主人に大事されている、という気分になった。
……なるほど、本当に『強き者』は違う、と竜はその時、とても感心した。
そうして、その取るに足らぬ『お願い』に従った。
とても気分がよかったし、簡単なことだったから。
────となると……?
竜はその『お願い』を守らねば、主人を裏切ることになる。
つまり、違和の正体はそれだったのだろう。
だが────
気に入らぬ者は壊したい。
破壊したい。蹂躙して滅ぼしたい。
それが元来の竜の性質であり、本能だ。
主人の『お願い』は明らかに竜の欲望と矛盾する。
……同時に、竜は気がついた。
やっと、見つけのだ。
あの不快な小さき者から主人の匂いがする理由に。
(────ああ。あれが、元か)
小さき者の背中に浮いている、とある黒い針のようなもの。
あれから、強く主人の匂いがする。
あの小さき針のようなものには見覚えがあった。
この自分が、忘れるはずもない。
あれは、主人のお気に入りだ。
────そう。
あれは間違いなく、主人のもの。
それも肌身離さず携える、大のお気に入り。
そして何より、あれは一匹と一人の間の思い出の品でもある。
竜と主人が初めて出会った時、あれを使ってこの爪に深く刻み込まれた亀裂は今も変わらず、竜の心臓をときめかせている。
────ああ、そうなのだ。
やはりこれは、あってはならぬこと。
ああ……もう。
これでは絶対に、赦すことなどできはしないではないか。
と、竜は表情筋のない顔で嬉しげに嗤った。
そうして竜は結局、その時、己が最も欲することをすることにした。
己の身体を突き動かす衝動に抗うことを止め、素直にそれに従うことにした。
即ち────
その巨大な大顎を限界まで開き、頸を思い切り、捻る。
『────グァ』
そうして竜は自分の自慢の牙の先端を、小さき者の背に浮かぶ黒い針のようなものにだけ、コツンと器用に押し当てた。
「────しまった」
竜の認識の上では、とても軽く優しく、触れただけ。
主人の持ち物を決して、傷つけぬよう。
すると、その瞬間、牙が当たった衝撃で「黒く小さな針」が遥か上空にまで跳ね上がる。
目の前の小さき者が小さく嘆く声が聴こえると、表情筋のない竜の貌がまた僅かに歪む。
竜の激昂は既に治まっていた。
肉を切り裂き、壊したいという衝動は消えている。
……まあ、気に入らぬことは、気に入らぬが。
だが────今日は特別に赦してやる。
殺さないで、とっておいてやってもいい。
と、そんな気分にまでなっていた。
何故なら、今、我が身は、とっても気分が良いから。
それは、どうしてか? 決まっている。
きっと、あれを持ち帰れば、主人は我が身をたくさんたくさん、褒めてくれるから。
『────グァ』
────そう。
それが今、竜が一切の嘘偽りなく、己の欲望のままに成したいことだった。
……そして。できれば。あわよくば。
これを使って、あの、少し前に気持ちの悪いブヨブヨした肉の塊を相手にした時のように、また一緒に楽しく遊ぶのだ。
竜はその想いのまま、器用に身を捻ると、最も嫌いな匂いがする者の脇をすり抜けた。
そして力強く羽ばたき、瞬時に空の高みまで上昇する。
竜がふと横目に尻尾の先を見やると、相手はどうやら遥か遠くの地上で自分と戦う様相を見せている。
それも本来、赦されぬことだった。
小さき者が竜に敵対の意思を見せるなど、傲慢にも程がある。
だが竜にとってはもはや、そんなことはどうでも良く、取るに足らぬことでしかない。
(────哀れ、小さき者。我はもう、お前とは遊んでやらない)
そうして、竜は自分にこれから訪れるであろう、とても誇らしく素晴らしい時を想い、表情筋のない顔でほくそ笑む。
(そう。お前は勝手にそこで、そうしているがいい。我にはもっとずっと、大事な予定があるのだから)
竜は一層力強く羽ばたくと、穏やかな貌で顎を開き、自らが宙に浮かせた主人の匂いのする針を器用に自慢の牙の間に納め、意気揚々と砂漠の空へと飛び去った。
◇◇◇
「────な、何が起きた? お、おい! 誰も砂漠に落っこちてねえよな!?」
魔竜が急降下したかと思うと長耳族と思しき人影に飛びかかった。
その際、竜は突然激しく身を捻り、背に乗っていた【六聖】全員が振り落とされかねない勢いだったが、そのまま竜は急上昇し、さらに脳まで揺さぶられる始末だった。
訳もわからぬまま再び上空に運ばれたダンダルグが皆の安否を確認すると、どうにか全員、黒い竜の鱗にしがみついて無事でいる様子だった。
「……くそ、一体、何がどうなってやがるんだ!? アイツはなんだ!? なんで、『黒い剣』があそこにある……!? イネスやお嬢たちは無事なのかよ!?」
「ダンダルグ、落ち着いて。どうやら、ララが『黒い剣』を取り戻してくれたようですよ」
「……えっ? もう?」
「ですが、私もそれ以外は何も」
セインの視線の先、竜の牙に確かに『黒い剣』が挟まっている。
それを見て、ダンダルグは若干の落ち着きを取り戻す。
「……おいおい。もしかして、ララはアレを取り返そうと思っただけ?」
「そんなに単純ではないようですが。結果的に、彼女はそれで満足してくれたようです」
「……結果的には、ねえ」
『──グァ』
先ほどとは打って変わって落ち着いた様子のララに、安堵の表情を見せるミアンヌ。
「確かにもう、機嫌はよさそうね……さっきの、やっぱり長耳族だったわね。どうする? ここで追いかける?」
「純血の長耳族が表に顔を出すことなど、ここ数百年なかったことだ」
「一応、その記録も「なかったこと」になっているが……指を咥えて待つ手はない。千載一遇のチャンスだ。リスクを承知で奴を捕らえ、王都に帰る選択肢も────」
「────ならん。それだけは、やるでない」
しばらく、無口だった老人が突然、口を開いた。
だがその口調はいつもの砕けた調子ではなく、重々しい。見れば老人は小刻みに震え、何かに怯えているようにも見えた。
「……爺さん?」
「悪いことは言わん。アレには今、手を出すな。それより先を急ぐべきじゃ。エルフが現れるところ、必ず国が滅ぶ。絶対に例外はない。絶対にじゃ」
「オーケン?」
「どういうことだ? 爺さん……なんだ、急に顔色が」
「……良いか。アレを決して追ってはならん。ワシらは今すぐ、商都に向かうべきじゃ。お嬢たちのことを考えるのなら、な」
急に雰囲気が変わった老人を見て、他の五人は互いに目を見合わせる。
「皆さん。ここはオーケンの意見に従うことにしましょう」
「……ああ、わかった」
「地上の『長耳族』の気配も消えた。どうやら逃げたらしい」
「なら、もう仕方ないわね」
「それより。本気で顔色が悪いぞ、爺さん。大丈夫か?」
「……ああ、そうじゃな。こんなに体が震えるのは何年ぶりかのう。久々に……嫌な予感がするわい」
竜の背の上で辛そうに踞り、胸を抑えるオーケンの様子に皆が心配そうな視線を注ぐ。
「────急ぐぞ。こういう時のオーケンの勘は、当たる」
「ええ。幸い、ララもそのつもりみたいですから」
『グァ』
そうして不意に長耳族との遭遇を果たした竜と【六聖】はそれぞれ思いを抱きつつ、共に砂漠の空へと消えた。






