185 脱兎の如く
ザイードは目を覚ました時、見慣れた白い床に自分が這いつくばっていることに気がつくと、怪訝な表情でゆっくりと身体を起こした。
「ここは……? 何が起きた?」
男の記憶は曖昧だった。
いつも通り磨き抜かれた宮殿の白い床に手をつき見上げると、いつも通りの天井が見える。身体も全く健康そのもので、何も異常は見当たらない。
だが、何かがおかしいのだ。
自分は何故、このようなところで伏せている?
手には奇妙に黄金色に蠢く金属の塊が固く握られている。
だが、これにも見覚えがない訳ではない。
これはあの男から手渡されたものだ。
自分が長年……いや。最近だったか。
いや、そもそもあの男とは誰だ。
そんなものは知らない。
これは、自分が誰かに持ってこさせてモノではなかったか?
床に伏せる直前に自分が何をしていたのかを思い出そうとすると頭が痛むが、その瞬間、手の中にある奇妙な黄金色の物体がザイードの手の中でまるで生き物のように脈打ち、蠢いた。
「……そうだ、何故忘れていたのだ。これだ。これさえあれば──!」
その瞬間、ザイードは全ての記憶を取り戻した。
全てを取り戻した、と当人は思った。
ザイードの手の中にあるそれは、己が失おうとしているもの全てを取り返すことのできる、大きな力を秘めた宝物だった。
あの『忘却の迷宮』の『鍵』。
通称、『栄光の鍵』。
これを宝物。
あれは
しかし……どうして自分はそのようなことを知っている?
男はどうも、その話の由来が思い出せなかった。
だが、「急げ」とザイードの心の中の何者かが言う。
自らの頭に響く、声ならぬその声をザイードは己の意志と考えた。
それ以外に、考えようもなかったからだ。
「……ここに緊急用の『地竜』が一体、あったはずだな」
そうしてザイードは自分しか知らない隠し扉を開けて外に出ると、移動用のゴーレムに跨り、誰にも知られずに宮殿を抜け出した。
向かう先は邸宅敷地中央にある『忘却の迷宮』だった。
そこに一刻も早く辿り着け、と繰り返し頭に声が響く。
他人を一切信用せず、自らの直感のみを信じるザイードはその己の心の声と思しき啓示に素直に従ったが、気がかりなのは、つい先ほどオークションに送り出したあの王女とあの男だった。
あそこには『魔族』を多く出品させている。
もし、クレイス王国から来た者どもが大人しく参加すれば、しばらくの時間稼ぎができる算段になっている。
だが、そう上手くいかないだろう。
最悪、暴れ出して力づくで連れ去ろうとする可能性もある。その際はあの馬鹿息子たちが相手をする手筈になっているが、確実に一方的にやられることが予想される。
だが、仮にそうなってもあの『魔族』の子供に取り付けた魔道具とのセットであれば、ゴーレムを掃討された後でもそれなりの足枷にはなることだろう。
だが、もちろんそれでも万全ではない。
あちらにはラシードがいる。
必ずやザイードの動向を嗅ぎつけ、誰かに追わせるに違いない。
問題はその戦力をどれだけ減らせるかだった。
頼むから、こちらの意図に気がつかないでくれ。
このまま目的地まで何事もなく辿り着かせてくれ、と。
そんなことを祈るように考えながら、ザイードが道を急いでいる時だった。
ザイードは背後に新たに現れた気配に振り向いた。
「……やはり、来おったか……!」
後方に、ラシードが飼っている隻腕の獣人が一人。
その後ろにクレイス王国の【神盾】の女。イネスもいる。
だが、そこに最大の脅威であった『黒い剣』を持つ男の姿はいない。
追手は、二人。
ザイードは自分を追う人間を少しでも減らせたことに一旦、安堵を覚えるが。
「──来い。少しでも時間を稼いでみろ……!」
ザイードは予め逃げる自分の周囲に配置しておいた自らが使役できるゴーレムを一斉に呼び出した。
その数、およそ数万。
だがその姿を現した瞬間、隻腕の男が持つ短刀に首を飛ばされていく。
同時に、銀色の鎧の女イネスの生み出す『光の盾』によって、薙ぎ払われ、一瞬で壊滅する。
それを見て『始原』のゴーレムたちは自らの判断で二人に向かい、覆い被さって道を塞ごうとするが、それもイネスの光の盾に防がれ、丸ごと薙ぎ払われて宙に弾き飛ばされ、その隙間を縫うように走る獣人の男によって、その全ての首が落とされる。
想定以上にいとも簡単に蹴散らされていくゴーレムたち。
やはり、脅威はあの『黒い剣』だけではなかった。
クレイス王の差し向けた男と共に入り込んだ【神盾】も、相当に厄介だった。
この時の為に全領地からかき集めたゴーレムたちが、たった二人を相手になす術もなく蹴散らされていく。
「くそっ、化け物どもめェ……!!」
だが最早、あれでも話にならないのは想定の範囲内だった。
数など最早問題にならないのだ。
あれらは決して暴力では抑えきれない。
ザイードがあの『時忘れの都』で撮影された映像を何度も何度も繰り返し見つめて出した結論が、そうだ。
あれらに対しては逃げるしかない。
あれらと力で敵対しようとするのが、そもそもの間違いなのだ。
ゆえにサレンツァ家を率いた先人の当主も皆、北の国境だけは頑として封鎖していた。
考え方の違うあの国の者が流れ込んできたら、もう、この国を成り立たせる前提は立ち行かなくなると。
それは正しかった。
ザイード自身も、早々に分かりきっていたのではなかったか?
いつも通り穏便にやり過ごしてさえしていれば、あれらは国境を超えて入ってこれなかったはず。
あれらに対しては、ただ逃げるしかないのだ。
触れず、やり過ごす。
それが最良の選択だったはず。
……なのにどうして、こうなった?
ザイードがいくら記憶を懸命に辿っても、その回答は一向に出てこない。
また、今となってはもう探っている暇もない。
「くそ!」
今や、一族が築いてきた歴史が崩れかけている。
すでに、この国の凋落の兆しは見えている。
天運にも見放され、既に取り返しのつかないところに来ている。
……どうしてこうなった?
ザイードの頭を駆け巡るのは同じ疑問だった。
だが、一向に辿り着かないのも同じだった。
あるはずの記憶が一向に掘り出せないことに、ザイードは苛立ちを禁じ得ない。
だが────
その苛立ちも、すぐに治まった。
「……まあいい。最後に勝つのは、このザイードだ」
ザイードの手の中で蠢く黄金色の物体がにわかに輝いた。
直後、どういうわけか恐怖に萎んでいたザイードの心が自信に満ち溢れる。
絶望と猜疑に沈んだザイードの心を、軽くする。
それはザイードに力をもたらすことを約束した『栄光の鍵』と呼ばれる秘宝だった。
────そうだ。
まだ、希望はあるのだ。
あそこに辿り着きさえすれば、まだ、間に合う。
あの男があの時、そう言ったように。
全てを覆すほどの暴力が手に入る────
と、何者かがザイードの心に強く訴えかけてくる。
……あの男?
ザイードはその男のことを何も知らない。
姿も名前も、何も解らない。
だが、何も解らぬままザイードは心からの笑みを浮かべた。
理屈もわからず、頭に未来の栄光の映像が流れ込む。
ザイードはその光景を疑わない。
なぜなら、自分に不足している『力』。
それがこれから手に入るのだから。
なぜなら、これは、────の──である────によってもたらされた、────すべき、唯一無二の秘宝なのだから。
あの言葉の通りであるならば、これこそが大いなる希望なのだ。
だが、ザイードは思い出せない。
それを言ったのが誰だったのか?
何故、自分がそれを信じようと思ったのかもわからない。
客観的に見ればもう絶望的な状況だった。
人智を超えた力を持つ人の姿をした化け物がすぐ背後に迫っている。
にもかかわらず、ザイードの心は歓喜と希望に満ち溢れ、決して諦めようとは思わない。
なぜなら、もうすぐそこに勝利があるのだから。
必要な『鍵』は自分の手に握られている。
ゆえに、ザイードは全てを覆すことのできる『秘宝』を既に手にしているも同然なのだから。
──そう、ザイードの中の何者かが絶えず囁きかけている。
「──そう。あそこまで逃げ切れたら、勝ちだ」
追われながら逃げ続けたザイードは、既に『忘却の迷宮』の入り口まで到達していた。
その中は入り組んでおり、勝手知ったるものにしか最奥部には辿り着けない。
そうして、ザイードの目論見通り中に入ればこっちのものだった。
ザイードは深部採掘用の昇降機を探し当て、一気に地中深くへと降下した。
頭上から、あの化け物どもが追ってくる音が聞こえる。
だが、それでもザイードの心は不思議と安らかだった。
安らかなまま、自らの骨を砕くほどの異常な脚力で息を切らしながら、走る。
そうして、男はついに『忘却の迷宮』の最深部に到達した。
それまでに男の肉体は限界以上の力を引き出され、壊れかけていた。
全身の骨という骨が砕け、筋肉も悲鳴を上げている。
にもかかわらず、男は恍惚とした笑みを保っていた。
そこに痛みの苦痛は微塵もなく、あるのは興奮と歓喜だけ。
何故なら、男の手にしている蠢く黄金が、男の身体が必死になって訴えかけているあるべき『痛み』の信号を、全て『幸福』を意味する信号に書き換えて伝えていたのだから。
そうして、ザイードはついに目的の巨大な石の扉の前に立った。
それはかつて、『忘却の迷宮』発見されて以来、一度も開かれていない扉だった。
だが、ザイードは確信する。
この奥だ、と。
この奥に自分が求めてやまないものがある、と。
「……さあ、開け……!」
そうして、ザイードは人の手では決して開けられぬはずのその重い石の扉に自らの手をかけるとそれを強引に押し開こうと力を込めていく。
それは通常、決して人の力では開かない扉のはずだった。
だが最早、自身のものとも他者のものとも判然としない強い感情が、肥え太った体躯を尋常ならざる力で突き動かし、骨が砕け肉が裂ける異音と共に、重い石室の扉が少しずつ動いていく。
「ついに、見つけたぞ」
石室の中の男は『忘却の迷宮』の核を見つけると、思わず手の中の黄金を高く掲げた。
男は実際、己の手の中にあるそれがなんであるかはわからない。
だが、最初からそうするべきだと知っていた。
……何故?
最早、そんなことも考えられない。
男はあらゆる疑問に辿り着くための猜疑心すら奪われている。
男の心は未来への希望に満ち溢れていた。
本来、痛みに呻いていないといけないはずの男には、
今まで味わったことのない至福の感情で満たされている。
……なぜか?
全てを覆す至上の暴力。
『忘却の巨人』が男のものになるのだから。
────あの男が、そう言っていたのだから。
……あの男?
ザイードにはもう、その男のことがわからない。
そうして、それがそうとはわからぬまま。
黄金色の物体の抱いている感情を己の心と勘違いしたまま。
心の声が『鍵』と同一化した男の手により、それは本来あるべき箇所に挿入された。
にわかに、男の手にあった黄金色の金属が煮えたぎる。
「あ?」
黄金色の物体が男の手を焼くと、男の体から引き離された。
瞬間、耐えきれぬほどの苦痛が男を襲う。
突然の苦痛に喘ぐ男の前で、『忘却の迷宮』の壁が。床が。天井が。
巨大な生き物のように脈動する。
見れば、男の身を守るために率いていた『始原』のゴーレムたちが、まるで元から脆い砂細工であったかのようにサラサラと崩れ落ちていく。
その蠢く砂は脈動する迷宮に液体のように吸収され、その度に、迷宮全体がより強く大きく脈動するようになる。
男はまるで、自分のいるそこが誰かの体内であるかのように錯覚した。
蠢き、軋む迷宮が、砂漠で乾ききった者がようやく水を得た時のように身体を震わせ、歓喜しているかに思えた。
「……これは、なんだ。儂は今、ここで何をしている……?」
そうして、男はようやく気がついた。
だが、男が我に返った時にはもう全てが終わっていた。
手足を己の過剰な力で破壊し、身じろぎひとつできなくなった男に、脈動する迷宮の壁が獲物を探し求めるかのように迫ってくる。
「……ああ。あああああああああ!?」
そうして男は蠢く砂にゆっくりと呑まれながら、己がこれまで積み上げてきたものが全て失われたことを理解した。






