172 顔の見えない後援者(パトロン)
(ああ、きっと私……ここまでなんだ)
少女は膿んで赤黒く腫れた自分の脚を眺めながら、ぼんやりとそう思った。
暗い部屋に人は大勢いるが、痛みで呻く少女に目を向ける者はいない。
少女は生まれつきの奴隷だった。
両親が何かの借金を背負って返せぬまま死に、代わりに子供の自分が返さねばならなくなったのだという。それでも少女は丈夫な体に生まれたことを両親に感謝しながら、奴隷商から買われていった先で一生懸命働いていたのだが。
ある日、少女は怪我をした。
荷運びの途中でどうやら錆びた釘のようなものを踏んだらしかったが、些細な怪我だからと主人は薬代を支払うのを拒み、少女もそれでいい、と同意した。
すると数日も経つと少女の脚はだんだんと見たこともないぐらいに腫れていき、やがて膿んで立ち上がることすら困難になった。
主人は自力で身動きできなくなった少女を買った奴隷商の元に連れていき、「今までよく働いてくれてありがとう」と簡単にお礼を言って代わりの奴隷を連れて行った。
少女にはよくわからなかったが商館との間の『保証期間』という約束の話らしかった。
怪我で商館に戻された少女は、出る前に居た部屋とは全く別の場所に移されたが、そこはとても嫌な匂いが充満している部屋だった。
窓もなく澱んだ空気の部屋にいるのは見るからに病気とわかるやせ細った者や、片方の足や腕がなく表情にまるで生気がない者、小声で意味のわからないうわ言を呟き続けている者ばかり。
少女はそこに入った瞬間、自分もすぐにあのようになるのだろうと直感した。
こういう部屋の存在は聞いたことはあったから。
暗い部屋からもう出られないことを悟った少女は、濃密な死の匂いを嗅ぎながら醜く腫れ上がった片脚を抱え、うめき声を押し殺すだけで精一杯だった。
そんな少女の隣に座る老人が独り言のように囁く。
────馬鹿だな、傷から入った毒を放置したのか。
すぐに吸い出せばどうとでもなったのに。
だが、そうなっては手遅れだ。
かわいそうだが、仕方ない、と。
少女はその老人の哀れみとも諦めともつかない言葉に、痛みにうなされつつ同意した。
確かに仕方ないのだろう。
自分はそんな些細な知識もなかったのだし、こうなって当然なのだ。
この世は強い者が勝ち、弱い者は消えていく。
それが誰にも抗えぬ理屈であることは少女だって幼いながらに知っている。
自分は弱かったし、知恵もなかった。
だからこうして痛くて苦しい思いをするのだろう、と少女はごくごく自然な成り行きに納得しつつ、いずれ遠くないうちに自分に訪れる終わりの恐怖に身を震わせていた。
しばらく水も飲んでいない少女の目からは僅かな涙しか出なかった。
「……ひどいな。ここも窓がないのか」
気がつけば暗い部屋の入り口に男が一人立っていた。
その男は自分より少し年上だと思える少女と一緒に部屋に入ってくると足を抱えて蹲る少女の姿を見つけ、歩み寄ってこう言った。
「大丈夫だ。これくらいすぐ治る。【ローヒール】」
男が少女の腫れた脚に手を当てるとぼんやりと暖かい光のようなものが見え、その瞬間、みるみる脚の痛みと腫れが引いていく。
(……えっ?)
何が起こったのだろう、と思った。
どういうわけか、その人が軽く手を当てるだけで何もかもが良くなり、見れば傷口も塞がっている。
空腹と渇きのせいか視界が霞み、見上げてもその人の顔はよく視えなかったが、何やら自分に優しく微笑みかけていることだけは雰囲気でわかった。
「これでとりあえずは大丈夫だ。でも、無理はしないでくれ。まだ万全じゃない」
そうして男は少女に「ただ手を当てるだけ」という奇妙な治療行為らしきものを施し終えると、他の病人たちのところにも歩いて行って、次々に同じことをしていった。
……ああそうか。これはきっと夢なんだ。
少女は熱で回らない頭で冷静にそう考えた。
だって、それ以外にこの状況を説明する理屈が見つからなかったから。
これは死にゆく自分が見ている幸せな夢なのだろう、と。
先ほどまで死の匂いを漂わせていた人たちが、少女と同じように不思議そうな顔で男のやることを見守っている。
その表情には先ほどまでの暗さはなく、ただ困惑と驚きの色だけがあった。
そんな奇妙な光景を作り上げた男は最後の一人の手当てを終えると、一息ついて立ち上がり、一緒に入って来た髪の長い少女へと振り返った。
「応急処置はこれぐらいでいいか。リーン、悪いが後のことは頼めるか?」
「はい、ありがとうございます、先生。残りの方は私一人でも十分だと思います」
「じゃあ、俺はイネスたちの買い出しの手伝いに行ってくる」
「お願いします」
先生、と呼ばれた男がどこかに立ち去ると、今度は自分より何歳か上のように見えた少女が床に伏せていた病人に優しく声をかけながら、小さな箱から薬のようなものを取り出しては飲ませていく。
すると、たちまちぐったりとしていた人々が目をぱっちりと開き、自力で身体を起こしていく。
少女は夢見心地でその不思議な光景を眺めていた。
だんだんとそれが現実の出来事だとわかってきても、まだ半信半疑で、ずっと奇跡でも目にしている気分だった。
少女はこれまで生きてきて、医者というものを見たことがなかった。
でも、きっと人々を次々に治療していったあの男の人と彼女がそうなのだと思った。
やはり自分とはまるで住む世界が違う人たちのように思えた。
やがて、その場にいた全員を診終えると薬箱を持った少女も姿を消した。
怪我と病気からまるで嘘のように回復した少女たちは、すぐに暗い部屋の外に移されることになった。
そうして真新しい衣服に着替えさせられると、なぜか温かい食事を与えられた後で新しい毛布を渡され、その日は体を治す為によく休むように言われた。
皆が自分達へのその扱いを不思議がった。
手放しで状況を楽観視する者はいなかった。
────自分達はこれからどうなるのだろう。
……どうせ、身綺麗にされた後で何処かに売られるのだろう。このような扱いをされるのは単に、少しでも高い値段で売るためだ、と口々に不安を語り、自分達への『施し』をせせら笑う者もいた。
身体の不調は取り払われたものの、誰もが昏い表情で俯き、無気力にその場に横たわっている。
結局、何も変わらぬように見えた。
日が沈み辺りが冷え込んでいくにつれ、奇跡の余韻は消え去り、元通り人の心が闇に蝕ばまれていくのを少女はその小さな瞳でじっと眺めていたが、次第に周りの者と同じように寒さで毛布に包まり、光が消えた目で俯いた。
そんな日の夜も更けた頃だった。
「────よぉし、てめえらァ!! 一人残らず掻っ攫えっ!! 時間は待っちゃくれねえぞ!!」
突然、暗い建物の中にバタバタと人が走るような音が響く。
直後、まるで盗賊のような風貌の男たちが駆け込んできたかと思うと、そこに横たわる人々を次々に抱え上げ、何処かに連れ去っていく。
暗闇の中に様々な悲鳴が上がるが、男達の後から一際人相の悪い髭面の大男が入ってくると周囲の男達に声を荒げた。
「おい、てめえら! 雑な仕事するんじゃねえ! お預かりしたお客様のお荷物は丁寧に扱えって、いつも言ってるだろうが!! てめえらのカミさんの百倍繊細だと思えッ!!」
「で、ですが……職長! それ、前から言おうと思ってたんですが」
「何だ」
「俺たち、まだ誰も結婚できてません。なので、そういう指示の出し方をされても困るんですが……?」
人を軽々と肩に担ぎ攫っていた身体の大きな男たちは、怒声を飛ばした髭面の男としばし互いに無言で見つめ合う。
「……うるせェ! 俺よりでけえクセに、細けえことで口答えすんな! いなけりゃ想像上のカミさんとかでいいだろ!! 俺はだいたいそうしてるッ!!!」
「わっ、わかりました、職長ッ!!」
素直に返事をした屈強な男たちは引き続き人々を連れ去っていくが、その手つきは前よりも若干優しくなり、担ぐ前に一声かけるようになった為、辺りにあがる悲鳴は恐怖よりも困惑めいたものが多くなった。
髭面の男はそんな様子を不気味な笑みを浮かべながら、腕組みをして見守っている。
「……ククク、本当に無茶言いやがる。相場の十倍支払うから、こいつら全部まとめて『運べ』ってか? おまけに納期は『夜明けまで』と来た。ま、それでこそ運送屋稼業の血が滾るってモンだがなァ」
どこか楽しげに唸っている男に見つからぬよう、少女は身を隠し息を潜めていた。
だが男は少女の気配を察して物音がした方にゆっくりと歩み寄ると、物陰に隠れていた少女を見つけ、その傷だらけの顔にニタリ、と笑みを浮かべた。
「おおっと、嬢ちゃん。そんなところに上手に隠れてやがったかァ……? 夜遅くに悪ィが、こっちも商売なモンでなぁ……? 抵抗しないで大人しく荷台に乗せられてくれよォ……?」
「……ひぃっ……!」
不気味に笑う髭面の男の太い腕が自分に伸びて思わず身構えた少女だったが、無骨に見えた男の手は少女をまるで羽毛でできた繊細な彫刻でも扱うかような手つきでふわり、と優しく持ち上げた。
(……えっ?)
男はそのままとても大事なものかのように戸惑う少女を抱えると、奴隷商館を出て屋外に停めてある幌付きの荷車に運び入れた。
最初、見た目の印象でどんなに乱暴な扱いを受けるのだろうと不安に思っていた少女は、良い匂いのする柔らかい敷物が敷かれた荷台に自分の身体がそっと置かれると、その丸い目をさらに丸くした。
「────おいッ、野郎どもッ!! 積荷はてめえらのカミさんより優しく積んだか!? 保護シートは三重に敷いたか!?」
「「「へいッ!!! 万全ですッ!!」」」
「なら、最後に周囲の確認をしろッ!! もちろん荷台の下もだ! ウチのゴーレム馬車で野良猫一匹、砂ネズミ一匹轢くんじゃねえッ!!」
「「「全車両、指差し安全確認、ヨシッッッ!!!」」」
男が振り返り暗闇に何かを叫ぶと、呼応するようにあちこちで声が上がる。
どうやら少女からは見えない場所にも人が大勢いるようだった。
「よォ〜し、野郎ども!! こちとら信用でメシ食ってんだ! 盗賊に囲まれようが砂嵐に呑まれようが、納期に遅れたら承知しねえが……それよりも大切なこと、わかってんなァ!?」
「「「どんなに急いでもゆったり運行!! 積荷の安全が何より大事!!」」」
「そうだ、わかってんならさっさと出発だァ!!」
「「「へいッ!! 職長ッ!!」」」
まるで盗賊の一団のようにしか見えなかった野太い声の男たちは、その威勢の良さに反して非常にゆっくりと馬形のゴーレムが引く荷馬車を走らせ始めた。
少女にとって、男たちは最初の印象ほど恐ろしくは感じなくなっていた。
(……私たち、どこに連れて行かれるんだろう……?)
不思議なことに幌馬車の入口は鍵らしきものもなく、開きっぱなしで逃げようと思えばそこからいつでも逃げられた。
でも、逃げ出そうとする者は一人もいない。
ただ皆が自分達の扱いに戸惑っていた。
少女が荷車の幌の隙間から顔を出してこっそりと外の様子を窺うと、自分達を運ぶ荷馬車は砂漠の奥まで続くような長い荷車の列に加わって、いつの間にか巨大な輸送商隊を成していた。
(これは、何……?)
……本当に一体、なんなのだろうこれは。
昼ごろからずっとおかしなことばかりだ。
それもまるで奇跡みたいなことばかりが起こる。
少女は内心これからのことを不安に思いつつ、良い匂いのする柔らかい敷物の上で体を揺すられるのが心地よく、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
◇
「おい、起きろよ。もう、ここで降りろって」
「……へっ?」
荷台の上でぐっすりと寝ていた少女は自分より少しばかり年上の獣人の少年の手に体を揺さぶられ、目を覚ました。
気づけば既にゴーレムが引く馬車は停まっていて、辺りは未だ薄暗いが、僅かに明るくなり始めている。
少女は見知らぬ場所で早朝を迎えていたようだった。
「……ここは?」
少女は少年に促されるまま慌てて荷車を降りると、すぐさまその目を丸くした。
そこには見渡す限り見たこともない種類の樹木が沢山生い茂っており、そこにはよくわからない種類の鳥や、小さな獣や、奥にも何かの生き物がたくさんいるように思えた。
少女のすぐ足元には先ほどまで砂漠にいたとは思えないほどに色とりどりの花が咲き乱れており、しかもそのどれもが一つ一つ人の手で整えられているように綺麗だった。
その様子はまるで話に聞いたことがある『天国』のようだと思った。
……ということはやはり、実はもう自分は死んでしまっていて、あまりに穏やかなこの場所は死後の世界ということになるのだろうか。
「おい、何ぼさっとしてるんだ。さっさと行くぞ」
「あ、うん……?」
自分の置かれた状況がまだよく理解できない少女が半分寝ぼけた頭のままトボトボと少年に付き従って歩いていくと、進む先には大勢の人が集まっているのが見える。
どうやら服装からすると彼らは少女と同じ奴隷のようだったが、あまりにも人の数が多くてとても奥までは見渡せず、全部でどれだけ人がいるのかすら見当がつかない有様だった。
少女が視界を覆うほどの人の多さに驚きつつ近づいていくと、その人混みから少し外れた場所に先ほど少女を荷馬車に運び入れた口髭の男がいるのが目に入った。
隣には見知らぬ黒い服を着た女性が立っており、何やら二人で話をしている様子だった。
「────こちらが先方よりお預かりした積荷の目録と『館長メリッサ様』宛にお預かりした封書となります。内容にお間違いがなければ、こちらにお受け取りのサインを」
「わかりました。ご苦労様でした」
一見粗野な風貌の髭面の男が慇懃な態度で接している女性は、少女の目から見てとても美しい人だった。
他にも黒服を纏っている人物は多くいたが、立ち並ぶ他の人々の態度を見ていると、その女性がここで一番偉い人物なのだということは少女にもすぐ理解できた。
女性は髭面の男に差し出された何かの紙にサインして、それをすぐに男に返し、男は書かれたものを見て満足げな笑みを浮かべるとその風貌に似つかわしくない礼儀正しいお辞儀をした。
「この度は当『ハンス商会』のご利用、誠にありがとうございました。契約はこれにて満了でございますが、他にご用命などは?」
「こちらからは何もありません」
「それでは、我々は引き上げさせていただきますが……今後とも、『信用と積荷の安全第一』の『ハンス商会』を何卒ご贔屓にお願いいたします」
「オーナーにそのままお伝えしておきます」
「は。お取り継ぎいただけるとのこと、光栄の至りにございます……ちなみに。現在、我がハンス商会では『積荷の横取り許すまじ! 盗賊☆絶対撲滅☆キャンペーン』と称しまして、大変お得な出張護衛&掃討サービスを今だけの特別価格で────」
「オーナーにお伝えしておきます。ありがとうございました」
仕事の営業を冷静に断られ、若干渋い顔をしている髭面の男だったが少女の視線に気がつくと、嬉しそうに親指を立ててニタリと笑い、そのままくるりと背を向けて多くの男たちと一緒に荷馬車を引き揚げていった。
「……なるほど。そういうお話ですか」
残された女性は早速男に渡された手紙の封を開けて読み始め、その場で小さくため息をついた。
「概ね予想とは違っていませんでしたが、受け入れは一時的なものではなく、これからずっと、ということですね」
しばらく女性はその手紙を読み込んでいる様子だったが、すぐに読み終えると戸惑いつつ立ち並ぶ奴隷たちの集団に向き直り、こう言った。
「たった今、皆様の今後のお世話を仰せつかりました『時忘れの都』の館長メリッサと申します。これより順次、皆様の館内への受け入れを致します。長旅でお疲れのところと思いますが、そのままこちらでしばしお待ちくださいませ」
女性は自分が語りかけた人々に向かって、丁寧に頭を下げた。
上の立場の者から高圧的に出られるのが常だった奴隷たちは、その女性のまるで高貴な客人を迎えるかのような態度に戸惑った。
「────ザザ、リーア。皆様にお飲み物を。道中で弱っている人もいるようです。一緒に健康状態のチェックもお願いします。体調が優れぬ者は医務室へ」
「かしこまりました」
黒服の女性が背後に立ち並んでいた二人の女性に合図すると、どこからか銀色の丸盆を手にした大勢の黒服の人物が現れ、小さな水晶盃に入った飲み物を配って歩き始めた。
少女も周囲の者に倣って訳もわからぬままその薄赤色の飲み物を受け取り口にすると、とても甘く、どういうわけか飲み干すだけで体の疲れが取れたような気がした。
「……リーア。貴女から見て彼らの状態はどうでしたか」
「幸い、身につけている衣服は新しく、病気の者もいないようです。ですが館内の防疫のために最低限の衛生面の配慮は必要かと」
「そのようです。何か、良い提案はありますか?」
「……上級会員区画のメディカル浴槽の利用許可をいただけますでしょうか? この規模となると、あそこで一斉に清潔にするのが効率的かと」
「では、医療・衛生部門の者の他、ボディケア・美容部門の専門職員も全員配置してください。一緒に身なりも整えてもらうのがいいでしょう」
「かしこまりました────その後、彼らの衣類はいかがいたしましょう? あの数となると相当量が必要と思われますが」
「積荷のリストに彼らの衣類の記載がありましたが、もし足りなければ職員用のものを使ってください。念の為、予備の発注も忘れずに」
「ありがとうございます。ではそのように」
「それと……ザザ。先ほど検討をお願いした今後の彼らの『居住プラン』についてですが」
「は。ご掲題の件につきまして、私から御説明いたします」
片方の女性が一歩引き、もう一人の女性が進み出る。
「────現在、当館の根本的な問題として、受け入れに使える居住区画自体が足りていない状況です。しかしながら、現オーナーのご意向により闘技場が廃止され、闘士の部屋も半数以上が空室となり、また同時に興行用の魔獣の檻にもかなりの空きができました。そこを全て本日中に改装すれば十分な居住スペースが賄える計算です。改装工事は館長に予算の承認をいただき次第着手できるよう、建築・工作部門の職人全員に通達済みです」
「では、承認します。進めてください」
「かしこまりました。それと顧客サービス部門から彼らに提供する食事の方針についての質疑が上がってきておりますが」
「基本メニューは安定して長期にわたって提供し続けられるよう、一般職員と同じく必要最低限のものとし、栄養面を重視してください。ですが、当面は上級区画の滞在客需要が見込めませんので食材は日持ちのしない上級滞在客用から優先して消費するのが良いでしょう」
「かしこまりました。ではそのように致します」
「他、各部門の担当者と連携をとり、不足が予想される物資を買い出し業者に伝えて補充しておくように」
「は。では、私たちは指示を行って参ります。進捗は追ってご報告いたします」
「頼みましたよ。ザザ、リーア」
会話を終えて二人の黒服の女性が足早に去っていくと、彼女達と入れ替わるようにして歩いてきた鋭い目つきをした長髪の男が黒服の女性に礼をする。
「お呼びでしょうか、メリッサ館長」
「クロン。貴方は彼らに今後の生活面の指導をお願いします。こちらがノール様から頂いた彼らの扱いの方針です。この内容に沿った対応を」
「かしこまりました。このクロンにお任せあれ。どれだけ数が多かろうと誰一人弛んだ生活は送らせません」
「……彼ら一人一人がノール様に属していることを忘れないように。くれぐれも手荒な真似は謹んでください」
「無論、承知しております。早速、準備して参ります」
黒服の男は女性に渡された小さなメモを上着のポケットにしまうと、その場から颯爽と立ち去った。
「────皆様、どうぞこちらへ。順番にご案内致します」
まるで客人でも招くかのような態度で丁寧に入口に案内する複数の黒服の人物の案内に従って、人の群れがゆっくりと動いていく。
集団の外れにぽつんと立っていた少女は未だ夢見心地でその奇妙な大移動を見守っていたが、黒服の女性は立ち尽くしている少女に気がつくとゆっくりと歩み寄り、こう言った。
「さあ、貴女も他の人と一緒に行ってください。見慣れない場所で不安でしょうが、心配はいりません。決して悪いようにはしませんから」
そうして少女の背中にそっと手を添え、同じ目線になるぐらいにしゃがみ込むと物静かに頷いた。
その表情に笑みはなかったが、かといって急かす雰囲気もなく、ただ穏やかに少女を励ましているようだった。
少女はその女性の手ひらから不思議な温もりを感じとると、はっと我に返り返事をした。
「……わっ、わかりました。ありがとうございます……?」
少女はそのまま女性と別れ、言われた通り他の皆と合流した。所々にいる黒服の職員の案内に従い進んで行くと、広い廊下を抜けた先で人の群れが二つに別れていくのが見える。
「まずはこちらのお部屋へ。男女別々にどうぞ」
どうやら、そこは衣服を着替えるための部屋のようだった。
皆、衣服を脱いで次に向かうように言われ、少女はこの先何が待ち受けているのだろう……と思わず不安を胸に抱いたが、先の部屋からはとても甘く良い香りがして、浮かんだ不安はすぐさま萎んで消えていく。
(……ここは……何……?)
そうして、身体を隠す布を渡されて少女が皆と一緒に足を踏み入れたのは、どうやら『水浴び場』のようだった。
でも、その全面には透き通るように綺麗な水が浅く張られており、部屋全体が花のような心安らぐ香りで満たされていた。
実際、本物の花びらが優雅に水面を漂っているように見える。
少女が知っている冷たく暗い、泥のような水で満たされた水浴び場とはまるで違う。
そこに気にせず入るように言われ、少女が恐る恐る足の先を浸けると、その水は人肌程度に温められているようだった。
「失礼致します」
そのまま少女が言われるがままに半身を湯に浸けて寝そべるような格好になると、側に待機していた長身の女性達の一人が良い匂いのする石鹸のようなものを手に、少女の髪を優しく洗い、掻き撫でていく。
それが心地よいと感じる間も無く、鏡のように美しく磨かれたハサミで手際よく髪の先を切り揃えられると、再び優しい手つきで頭を洗われる。
(……私、今、何をされているんだろう……?)
その後も美しい女性に肩を優しく揉まれたり、頭を柔らかく揉みほぐされたりと今まで一度も経験したことのないことばかりされ、少女はただただ疑問にばかり思ったが、不思議と少しも悪い気分にはならなかった。
それどころか……ものすごく、心地良い。
「では、次にお進みください」
少女と共に浅い湯に浸かって身綺麗になった者たちは皆、黒服の女性達に柔らかい布で丁寧に髪と体を拭かれた後、奥の部屋に進んで用意してある衣服に着替えるように言われた。
その衣服もまた少女がこれまで一度も袖を通したことのないような生地が良く、仕立ての良いものであり、少女は戸惑いつつもその新しく清潔な衣服に着替えた。
そして案内されるまま次の部屋へと進んでいくと、そこにはとても大きな鏡があったのだが。
(……これは、誰?)
少女は最初、そこに映っているのが何者か分からず、しばらく立ち止まって考えに耽ることになった。
冷静に考えて目の前にあるのはただの鏡であり、その中にいるのはどう考えても自分であるはずだったが、どうも、そのことに納得がいかなかった。
そこに居るのは髪がサラサラと美しく、とても肌艶の良い人物だった。服装もまるで裕福な商家の令嬢のそれで、街中で出会えば思わず頭を下げてしまいそうな雰囲気だった。
見回せば皆が少女と同じような反応をしていた。
不思議そうに大きな鏡を眺め、隣にいる者の顔を見つめてはしきりに首を傾げている。
鏡のある部屋を出ると、先ほど別れた男性たちと合流したが、そこにもまるで以前とは似ても似つかぬ紳士然とした者ばかり。
中にはあの暗い部屋で少女に声をかけた老人もいたが、少女は最初、自分の隣に立つその上品そうな老紳士が誰だかわからず、声でそうとわかってからは互いに目を丸くした。
「次は、お食事となります」
先ほどまでとはまるで別人のようになってしまった人々が、次に通されたのは食事をする部屋だった。
だが、目の前の長大なテーブルに並ぶのはとても普段口にすることはかなわない高級そうな食材ばかり。
怯えて手をつける者はおらず、誰もが遠巻きに見守るのみだったが、黒服の者に促されて一人、また一人とその装飾めいた椅子に腰掛け、そこに用意された料理を恐る恐る口にすると、皆が顔色を変えて目の前にあるものを頬張り始めた。
どうやら料理は一人一人食べる者に合わせて盛られてくるようだったが、少女がテーブルについて出されたスープに口をつけると、幸せそのもののような味がして、体全体に染み渡るような感じがした。
そうしてあっという間に空腹だけでなく心も満たされた少女が、ふと夢から覚めたようにテーブルから周りを見回してみると、豪華な食事をあっという間に食べ終えた皆が満足げに、明るい顔で今食べたものの感想を語り合っている。
……これはどうしたことだろう、と少女は疑問に思った。
彼らはつい昨日まで暗い顔で暗い部屋に閉じ込められ、俯いて不安ばかり口にしていた人ではなかったか?
なのに、ここでは誰一人、明日への不安を口にしている者はいないように見える。
それどころか、楽しそうに笑い合ってさえいる。
少女は昨日からずっと夢を見ている気分だった。
だんだんこれが現実の出来事だと理解できるようになってからも、まだ本当に夢みたいだし、ここは天国みたいだと思っていた。
どうせ夢みたいな出来事なら、このままずっと、こんな幸せなことばかり続けばいいのにとも思う。
どうしてこんなことになっているのかさっぱりわからないけれど……明日もまた、こんな風に皆が笑って過ごせたら良いのにな、と。
少女だけでなく、他の皆も朧げにそんな見たこともない明日を心に思い描き始めていた、その時だった。
「────ほう、貴様ら。どうやら存分に浮かれているようだな。ここが天国だとでも思ったか? 顔にそう書いてある」
次なる広い部屋に通され、中央の壇上に待ち受けていた鋭い目つきをした長髪の男を目にした瞬間、皆に緊張が走り、表情が強張ったのがわかった。
「……隠さなくとも良い。貴様らは今、我々『時忘れの都』の職員より、超一流の奉仕を受けたのだから、当然だ。だがこんな恵まれた待遇は今日限り、今後は易々と与えられぬモノと知れ。貴様らはこれから、死ぬまで、ここで働くことになるのだからな────」
そうして、男の不吉な言葉と声色に徐々に動揺と不安が広がっていく。
「────そうだ。よく、覚えておけ。死ぬまでだ。貴様らはこれからほぼ例外なく、今後一生、この『時忘れの都』の中で過ごすことになるのだ」
長髪の男が壇上でニヤリと笑うと、皆が怯え、青い顔になったが、傍で見守る黒服の女性が不安そうな顔で男に声をかけた。
「……ええと……。待ってください、クロン。確かにノール様からは原則として全員『終身雇用』との指示がありますが。言い方?」
「奴らはこれより、我々職員の同僚となる者たちです。甘い顔をして、いつまでもお客様気分でいられては困りますので。塩梅はお任せを」
「……頼みましたよ?」
未だ不安そうな表情を浮かべる女性を背に、男は大声を張り上げた。
「────いいか、新入り共ッ! 心して聞けッ! 貴様らは現時点を以って『奴隷』の身分ではなくなった! 故に主人の顔色ばかり窺う下卑た根性は、この場に綺麗さっぱりと捨てていけ! 貴様らはこれから誰一例外なく、誇り高き『時忘れの都』の一員となるのだからな……一流の施設の、一流のサービスを行う、一流の従業員たるにふさわしい教育を一から受け、その上で職務に就くことになる!」
「……従業員? 教育?」
「その際、寛大なオーナーの意向により貴様らはどんな職に就いても良いことになっている。配布する紙に第三希望まで書いて提出しろ。文字の読み書きができない者は近くの職員に訊くがいい。他、何か質問がある者は俺の前に進み出ろ」
聞き慣れず、予期もしない言葉ばかりを耳にした人々は互いに目を見合わせた。
程なくして、人々の前に何かが書かれている小さな紙が配られると更に場の困惑は深まった。
文字の読めない少女はすぐそばにいた黒服の職員に読んでもらったが、そこには誰もが希望できる職業の例として、護衛、仕入れ係、顧客対面サービス、運送業、美容、調理士、医者、法律家────と様々な職業が書き並べられている。
「……えっ? 医者? ……法律家?」
幾つか気になることはあったが、少女が特に疑問に思ったのは、なぜ就くまでに高額の費用がかかる職業として有名な二つまでそこにあるのか、ということだった。
不思議に思った少女は気後れしながらも、険しい顔で周囲を睥睨している男の前に進み出た。
「あっ、あのっ! し、質問……しても、いいですか……?」
「質問があればしろ、と言ったが。あるならさっさと言え」
「こ、これって、本当に誰が何を選んでもいいってことですか……? もしかして、私が……お、お医者さんでも?」
「……なんだ、貴様……? 俺の説明の何を聞いていた」
目つきの鋭い男は少女をギロリ、と睨みつけるように言った。
「────無論、その通りだ。現オーナーの意向により、今後の貴様らの教育は全て無償で行われることになっている。もし貴様が医師希望であれば専門知識を伝える医師がつき、直々に指導を行う。その為の契約金は既に支払い済みだ。故に、むしろ貴様らにはこの恵まれた環境を余すことなく活かす義務があると知れ」
「……ぎ、義務……ですか……?」
「そうだ……だが、勘違いするなよ? 希望の職は相応の努力をした者にのみ与えられる。怠け者に与えられるものなど、この『時忘れの都』には砂粒一つない! どの道も専門家として歩む上で簡単なものはないのだからな。選ぶ以上、覚悟して臨め」
「わっ、わかりました!」
「解答は以上だ。他、何かある者は進み出ろ」
険しい表情の男から自分の質問への回答を得た少女だったが、どうもよく意味が理解できなかった。
わかりました、と返事はしたものの。
むしろ疑問ばかりが膨らんでいく。
どんな職も好きに選んでもいい上に、その知識をタダで伝えてもらえる?
それって……どういうこと?
「────ちなみに。これは貴様らが満足に働けるようになってからの話だが。所定の休日の他、貴様らに与えられる『給与の発生する休日』は年100日まで。賞与は原則として年ニ回。昇給の機会は年一回だ────当然、働きが不十分な場合は据え置きとなる……覚悟しておけ!」
「……給与のある休日が……100日? ……賞与? 昇給?」
「従業員としての基本的な待遇の説明は以上となる。他に質問がないならこれで終わるが」
男は自分に何か問いかけてくる者がいないかと辺りを見回すが、誰からも声が上がらない。
そもそも男が口にした言葉の意味を誰も理解できていない、という表情だった。
「……後で質問を思いついた者は俺の部屋まで来い。そして、最後に。貴様らがこの地で暮らす上で何よりも大事なことを伝える。一度しか言わないが、これは絶対に死守すべき大原則だ。もしこれを忘れ、怠り、または軽視した者は裸のまま熱砂の砂漠に放り出されても文句が言えないものと思え」
男の一層厳しい声色に騒がしかった辺りは一斉に鎮まった。
「────まず、一つッ! 貴様らの破格の待遇は全て、この『時忘れの都』を守護するオーナー、ノール様のご厚意によるものである! 故に一日たりともオーナーへの感謝を忘れるな! ────二つ! 貴様らが日々、この恵まれた環境で生きながらえられることが当然と思うな!! 努力と研鑽を怠る者には、この『時忘れの都』には居場所がないものと知れ! 何かを与えられたければまず、己から与えよ! それが我ら、超一流の専門家たる者の生き様だッ!!」
男の剣幕に、皆が思わずゴクリと息を呑む。
だが言われたことに疑問を覚えた者はその場には居ないようだった。
「……この二つを忘れた者は、寛大なオーナーが許してもこの俺が許さん。即座にこの『時忘れの都』から叩き出されるものと思え────今後の生活で気をつけることは、以上だ」
依然厳しい顔つきではあるものの、そこまで言い切った男はどこか満足げだった。
一方、背後で黒服の女性が頭に手をやり、小さくため息をついている。
「クロン。大筋では間違っていませんが……後でお話があります」
「は。では本日の業務を済ませた後、速やかに館長室に伺います」
長髪の男は悪びれる様子もなく涼しい顔で女性に頭を下げると、そのまま足速に去っていった。
そんな男の背中を見送りながら悩ましそうに額に手を当て、小さく首を振っている女性をぼんやりと遠目から眺めていた少女だったが、先ほど紙の内容を読んでくれた職員が自分に歩み寄ってくるのが見え、そちらの方に振り向いた。
「何か、希望の職種があれば教えてください。私が代わりに書きますよ」
職員は少女に自分の希望を教えてほしいと言う。
聞かれて少女の頭によぎった答えはいくつかある。
でも、少女は迷うことなく答えた。
既に男の話を聞きながら、これしかない、というものが固まっていたからだ。
「私……お医者さんに、なりたい………………です」
でも口に出した瞬間、言い淀んだ。
自分で信じられないようなことを言っている、と思ったからだ。
そんなこと、昨日までちっとも考えもしなかった。
そもそも、自分に明日があるとも考えなかった。
それ以前に、つい昨日まで『医者』がどんなものなのかすら見たことがなかったのだ。
なのに。
……自分が、医者になる?
そんな希望を持つこと自体、間違いなのだと少女はちゃんと知っている。
でも────
「では、第一希望は『医師』と記入しておきますね。他は何にしますか? 第二、第三希望まで書けますが」
「他は……ないです」
「……ない?」
どういうわけか一旦口に出してしまうと、それはそんなに不思議なことではないように思えた。
現実的に考えれば文字すら読めない自分が医者になるなんて、奇跡でも起こらない限り、絶対に無理だとわかっている。
でも少女は諦める気にはなれなかった。
それは、既にもう一つの『現実』を知ってしまったから。
今日、少女はあまりにもたくさんの奇跡を目にしたのだ。
────失望に沈み、項垂れる人々が一斉に上を向く様を見た。
決して動かぬと思えた現実が、誰か一人がやったことで、いとも簡単に捻じ曲がってしまうのも見た。
奇跡のような様々な変化をこの目で目にし、何より、自分が体験した。
残酷に思えたこの世界には、誰かがしたことで他の誰かが救われるという事実もあることを理解した。
奇跡は普通、起こらない。
……でも。
どうやら時には、いっぺんに大量におきることもあるらしい。
じゃあ、自分にだって努力すれば一つぐらい、奇跡を起こせるのでは……?
そんな不思議な気分になっていた。
「……希望は本当にそれだけでいいんですか? 一番目がダメだった場合、他を書いておかないと不利になりますが」
「はい。それだけで、いいです」
自分が何を希望するか?
聞かれてみて改めて、元々そんなの一つっきりしかない、と少女は思った。
────そう。
自分はまず、あの人に会いたいのだ。
なぜか?
会って、お礼を言いたいから。
まだ何一つ、言えていないから。
少女は他の何よりも先ず、あの時、自分を救ってくれたあの人にお礼を言いたかった。
明日の見えない薄暗い人生を歩んできた少女にとって、それこそが当面の、かつ唯一の願いであった。
故にそこから導き出される少女の結論も、とても単純なものだった。
────なら、あの人と『同じ道』を進めばいい。
あんな風になってみたいし、仮にそうなれなくても、その先にはきっと、あの人がいるはずだから。
少女は単純にそう考えた。
あれだけ奇跡みたいなことが起こせる人なら、その道では絶対に有名に決まっていると思ったのだ。
そうしていずれ、まだ顔も名前もわからないあの人を探し出し、ちゃんと面と向かってこう言うのだ。
自分の怪我を治してくれて、本当にありがとう、と。
まだ何も知らない少女はその時、真剣にそう思っていた。
好きに選んで良いというのなら、自分の残りの人生はきっと、その気持ちだけ伝えるのに使えれば十分だから、と。
絶望に満ちた部屋で抱いた朧げな感情は、いつしか少女の生きる糧となっていた。
その願いが現実的か否かは、最早、少女にとってそれほどの意味をなしていなかった。
「……本当の本当に、それでいいんですね……? 第二、第三希望なしで……?」
「はい。それで、大丈夫です」
そうしてその日、少女は生まれて初めて自分の『希望』を口にした。






