171 多重契約者
「……ラシード様はなぜ、私だけ置いて出ていかれたのでしょう」
『時忘れの都』の管理者の長であるメリッサは一人、施設の屋上に佇んでいた。
ここはごく限られた者だけが出入りを許される場所。
メリッサが決まって一人で考え事をしたいときに使う場所だった。
何一つ視界を遮るものがないこの場所からは、辺りの全てが見渡せる。
メリッサは何度となく心が落ち着かない時、ここで風景を眺めてきたが、今日は特にそうしたい気分の日だった。
メリッサに頭に浮かぶのは、主人ラシードがなぜシャウザだけを連れて、自分をこの『時忘れの都』に置いていったのか、という疑問だった。
以前にもラシードに留守を任されるということはあったが、これは前までの状況とは違う。
あの人はもう『時忘れの都』を出て行ってしまったのだ。
そしておそらく自分を迎えに帰ってくることは二度とない。
ラシードの態度から、メリッサはそんな気配を読み取った。
だからこそ、メリッサは自分がここに一人で置いていかれた理由を考えざるを得なかった。
「やはり、もう使えないと見限られてしまったのでしょうか。あるいは────単に、飽きられてしまったか」
おそらく前者でもあり後者でもあるのだろう、とメリッサは思う。
元々、あの人にとって、自分はそれほど価値がある存在ではなかったはずだから。
もう自分は利用価値すらなくなったのだろうとメリッサは冷静に分析した。
というより本来、ラシードにとってメリッサは側に置くことで不利益しかないはずの存在だったのだ。
メリッサは元々、ラシードに差し向けられた暗殺者だった。
もっと言えば、まだ幼かったラシードの命を狙う為にサレンツァ家の親族から見繕われ、送り込まれた刺客であった。
メリッサは商業自治区サレンツァを取り巻く小さな国の一つで生まれた。
貴族階級として育ったメリッサは幼少期は何不自由なく、幸せな日々を過ごしていた。
だがメリッサが八歳の誕生日を迎える頃、メリッサの国は崩壊した。
国王が隣国との小競り合いのための戦費を調達しようとサレンツァ家に借金を作ったのが始まりで、それほど間をおかず、利子をはじめとした重い債務に耐えきれなくなり国自体が消滅、支配階級に近い立場だったメリッサの家族も重い借金を背負うことになった。
それからはメリッサ自身も家族と共に高貴な身分から一転、借金奴隷にまで落ちぶれた。
やがて家族ともども人身売買の競売にかけられる羽目になったが、明らかに他の奴隷よりも高い教養を身につけていたメリッサはとある買い手の目に留まり、専門の施設に送られて『富裕層向けの暗殺者』としての教育を受けることになった。
幸か不幸か多くの才能に恵まれたメリッサは施設の中ですぐに頭角を表し、すぐに重要な仕事を与えられることになった。
その仕事がサレンツァ家の長男ラシードの暗殺だった。
当時のラシードはあらゆる権力者に憎まれており、数々の暗殺者が差し向けられたがその度に例外なく消息を絶っており、次は油断を誘える歳の近いメリッサが良いと白羽の矢が立ったのだ。
当時12歳だったメリッサは是非もなくその仕事を引き受け、幼い家政婦を装ってラシードの屋敷の門を叩くことになった。
出迎えたのは屋敷の主人、ラシード本人であった。
明るく笑うラシードに直接屋敷の中に招き入れられると、メリッサは早速、命令に忠実に仕事を遂行しようとした。
だが、その試みは瞬く間に失敗に終わった。
ラシードは一目でメリッサが服の下に忍ばせた毒入りの短刀の存在を見抜いており本人より素早くそれを抜き取ると、逆にメリッサを廊下の壁に押し付けた。
その時のメリッサは当然、自らの死を覚悟した。
メリッサが命を獲るはずが、逆にいつでも獲られる格好になっていたのだ。
にもかかわらず、次にラシードがとった行動は意外なものだった。
メリッサを壁際に押し付けていた手を離し、あろうことか奪ったナイフを笑顔でメリッサに手渡すと、その後は嬉々とした様子で自身の広い屋敷を案内した。
そうしていくつかのやり取りの後、三枚の白金貨をメリッサの給仕服のポケットに入れ、このまま自分の家で働き続けてほしいと言った。
メリッサにはラシードの行動の意図がわからなかった。
でも、少なくとも自分は失敗からチャンスを拾うことはできたのだと感じた。
自分の暗殺の成否には家族の命がかかっていた。
奴隷となり離れ離れになってからは会えてはいないが、仕事の仲介人が言うにはメリッサの父も母も存命で、弟もどこかに無事でいるという話だった。
メリッサが命令に忠実に任務を遂行する限り彼らは保護され、逆に背けば殺される。
だから、初回の襲撃に失敗はしたがまだ希望は残っていると考えた。
少なくとも依頼主との契約はまだ生きている。
ならばこれを幸いとし、成功するまで何度もラシードの暗殺に挑むしかないと思った。
だが、その希望もすぐさま失われることになった。
メリッサとラシードが共に生活をするようになって数ヶ月もした頃、ふと屋敷から姿を消したラシードが『ボディガード』としてある人物を連れて戻ってきたのだ。
それが片腕と片目を失った獣人、シャウザだった。
当時のシャウザは見るからに悲惨な状態で、多くの血を失い痩せ細り、いつ死んでもおかしくはないと思えるほどに衰弱していたが、その眼光は鋭く、当時のメリッサから見てとても恐ろしい生き物に思えた。
メリッサはシャウザを一目見た瞬間に、この相手にだけは絶対に勝てないと悟った。
今もその思いは消えないが、シャウザが来たばかりの頃は猛獣のような獰猛さと威圧感があり、ただ恐怖の対象でしかなかった。
当時のシャウザの目は常に殺意にぎらついていて、見るモノ全てを射抜くような鋭さがあった。メリッサはラシードの命でシャウザを看病することにはなったが、ただ包帯を巻くために肌に触れるだけで身を引き裂かれそうな憎悪を指先に感じ、生きた心地がしなかった。
実際、シャウザは本来は身動きすらできないと思える瀕死の状態ですら強かった。
日夜を問わずラシードに差し向けられる新たな刺客をことごとく発見、潰していき、時が経って傷が順調に癒えてからは、もはやこの世に敵う者などいないのではと感じるほどの無敵さを見せた。
メリッサはシャウザが来る前には何度もラシードの寝込みを襲い、喉元に刃を突き立てようとしたことがある。だが、今それを実行に移そうと思ったら、きっと自分はその瞬間、あのシャウザに片手で捻り潰されてしまうだろう。
だが、元の仕事を続けないという選択肢はない。
顔の見えない雇用者からメリッサの元に、仲介人を通して「家族はまだ生かしてある」との知らせが何度となく届く。
それはあくまでもまだ、と云う話に過ぎないという含みであることはメリッサとしても承知している。
雇用者との契約は未だに生きているのだ。
そしておそらく、ラシードはその事情の全てを知っている。
その上で、どうせ本来の仕事なんてできないだろうと見透かされ、脅威でないと思われ放置されているのだろう。
厳密にはメリッサにはラシードの考えていることは何一つわからない。
重要なことは何も言わないし、意図はどこまでも掴みきれず、言ったとしてもその真意は汲み取りがたい。
でも一つ確かなのは、あの人物はいつ、どんな時も笑っているということだった。
とりわけ自身の命が危険に晒されるような場面でも状況を一から操ってみせ、それをただの遊びと豪語する。だからあの人にとって自分を側に置く意味もきっと、そんな遊びの一環なのだろう、とメリッサは解釈していた。
もしくは、そんな遊びを彩る些細な装飾品の一つに過ぎないのだろうと。
メリッサとしては、せいぜいその油断を利用して忠実な右腕を演じ続け、ラシードの暗殺に優位な場所に居続けるのが精一杯だった。
実際、元の雇い主からラシードの家に差し向けられてからこの十年あまりの間、何ひとつ実行に移せず、最早脅威ですらないのはメリッサも自覚していた。
逆に言えばあの人はそんな自分を、シャウザを使っていつでも殺すことができたのだ。
だから二人が去り、メリッサは一旦は安堵した。
だが、すぐに釈然としない想いが起きる。
何故、自分だけ置いていった?
いつでも殺せる、脅威ですらない自分を。
そう、だから単純に「飽きた」のだとメリッサは解釈した。
いてもいなくてもどちらでもよかったものがもう、いらなくなった。
たったそれだけの話なのだろう、とメリッサが結論に辿り着き始めたその時だった。
「……あれは?」
目を凝らせば砂漠の朝靄に霞む空の彼方に小さな影が揺れるのが見えた。
それは簡易通信用に使われる小型のゴーレムバードだった。
ゴーレムバードは時忘れの都の上部に佇むメリッサの姿を見つけると、空から急降下して目の前に降り立ち、小さな金属製の筒をくくりつけられた機械仕掛けの細い脚をメリッサの顔の前に差し出した。
メリッサがその筒を受け取ると、中に小さな手紙が入っているのが確認できた。
そこにはメリッサにとって見覚えのある人物の筆跡でこうあった。
──────────
親愛なるメリッサへ
商都でちょっとした買い物をした。
こちらでは抱え切れないので君のところに送る。
君がこの手紙を読む頃には届いていると思うので、後のことはお願いするよ。
君の友人 ラシードより
──────────
いつものラシードの軽い筆致だった。
砕けた文面と、あまりにも簡潔にすぎる内容。
ラシードはこうしてさもメリッサを忠実な部下のように扱うのだ。
自分達は実際、全く違う関係性だというのに。
小さくため息をつきつつ自らの形式上の主人の手紙を読み終えたメリッサだったが、その手紙の裏に、もう一通手紙が重なっていることに気がついた。
「……裏に、もう一枚?」
同時に、自分が今いる『時忘れの都』のオーナーが既に別の人物であることを思い出す。そうだ。館長としての自分に命令を出す権限はラシードではなくあの男、ノールにあるのだ。
いつも以上にラシードの手紙が簡潔だった理由はつまり、そういうことなのだろう。
具体的な情報と指示の内容はきっとそちらに記してあるだろうと考えたメリッサは半ば安堵しながら、心して二枚目の手紙の文章に目を通す。
すると、そこにはこうあった。
──────────
よろしく
ノール
──────────
「……? …………???」
メリッサは何度も首を傾げながら、その手紙を読み直した。
だが、何度見直しても、そこにあるべきはずのものがないことがわかるだけだった。
少なくともメリッサが期待したものは何もない。
ラシードの手紙にもまして必要な情報が足りていない……というか、ラシードの手紙があったからまだいいものの、単体では手紙としてすらほぼ意味をなしていない。
もしや他にも紙があるのかと探してみるも、見当たらない。
「えっ……? 本当に……これだけ?」
何かの暗号かとも思ったが、それも違うらしい。
……ここから、何を読み取れと?
半ば放心状態で砂漠の彼方に目を向けたメリッサは、再び自身の目を疑った。
「まさか」
それは地平線の向こうまで続く長い長い商隊だった。
手紙にあった「ちょっとした買い物」とはどうやら、あれのことらしい。
察しはついたが、納得はいかない。
どう考えても「ちょっと」などという規模では追いつかないからだ。
そこにあったのは『時忘れの都』の人口のおよそ二割に達しようかというほどの人の群れ。
「……あれを、私にどうしろと……?」
文面の趣旨からすると二人とも、あれをメリッサにどうにかしてほしい、という話のようだったが。
理解はできても、やはり納得はいかない。
おそらく、あちらでろくに時間がなかったのだろうという事情は察することはできるが、何の事前打ち合わせもなしにこれはあんまりだ。
……でも、思い返せばいつもこうだった。
あの人は大抵、予め、大事なことは何も伝えてこない。
それでもこれぐらい君ならできるだろう? と言わんばかりに。
メリッサはその度にそんなわけがあるか、と思いながら、常にそれに応えてきた。
全ては、暗殺対象との距離を保ち続けるため。
それは今に始まった事ではないし、事態の進展が早いのはいつものことだったが。
でも、今回は規模がまるで違う。
まさか本当にあんな少量の情報だけで自分があの人々をどうにかできるとでも思っているのだろうか?
それも、ほぼ即興で。
「────思っているのでしょうね。あの人は。いえ、あの人たちは」
今の問題はむしろ、あの新しい方の経営者だとメリッサは思う。
頭の中身をまるで推し量れはしないが多少の付き合いがあるラシードのことより、臨時の契約上の上司にあたるあの男の方が遥かに難題だった。
メリッサをかなり有利な条件で館長に据えおいた時から感じていたが、あのノールという男に至っては、無邪気にメリッサの素性も能力も疑わず、何もかも信じきっているのではないのか? という印象が拭えない。
あの男こそ、そんな関係性ではないというのに。
でも、その結果がおそらくあれなのだ。
今、ラシードの資産は名目上は全てあの男に渡っている。
だとすれば、あの男が「そうしたい」と言ったからああなっているのだと思う。
もちろん、何らかのラシードの手引きがあったことは明白だが。
要するにこの異様な状況はあの二人の総意なのだ。
二人の理不尽な上司からの要求に逃げ出したくもなるが、あの男が支配する『時忘れの都』の館長を一旦引き受けたからにはメリッサにも責任の一端は生じている。
何より自分が仕事を放棄しては、あの大量の人々が路頭に迷うことになる。
「……やるしか、ないのでしょうね」
メリッサは未だに最後尾が見える気配のない長い長い商隊の列を眺めながら、一つ大きくため息をつく。
でも少なくとも今、メリッサは安堵していた。
仮初の主人であるラシードにまだ見限られず、また新たな役割を与えられていることに。
そんなふうに感じてしまう自分は未だにあの人の心臓に刃を突き立てる準備ができていないのだろう、とも思いつつ。
「……いけない。すぐに受け入れの準備をしなくては」
今はそんな些細な感傷に浸っている場合ではないのは確かだ。
あの人数を受け入れるのだとすれば、これからやるべきことは山ほどある。
それにあの正体不明の大群を目にすれば確実に館内は浮き足立ち、血の気の多いクロンあたりが先走った対処をしかねない。
メリッサは自分に与えられた幾つもの仮初の役割を念じつつ、目の前に迫りつつある『時忘れの都』の人口を何割か押し上げそうなほどの規模の人々の受け入れに急ぎ、走った。






