137 時忘れの都 1
出発前、イネスは急ぐから馬車が多少揺れるかもしれないと警告してくれた。
だが実際は違った。
実際は……ものすごく、揺れた。
「────うっぷ」
俺が出発前に精がつくと思い、ロロが作った『神獣』料理を食べさせた馬達はとても元気に馬車を引き、『黒い剣』の重さをものともせずものすごい速さで砂漠を駆け抜けた。
窓の外を流れていく風景は爽快そのもので、しばらく俺はその状況を楽しんでいたのだが……しばらく乗っているとだんだん、そうも言えなくなっていった。
砂漠の旅用の大きな馬車を引く屈強な馬達の力は凄まじく、砂漠にある凹凸をものともせずに力一杯駆け抜けていく。
だが、馬車自体は何か小さな障害物に当たる度、車体を大きく傾けてガタガタと揺れた。
その振動が、とてもきつい。
他の皆は平気なようだったが、馬車が激しく上下運動を繰り返すうち、俺はだんだんと気分が悪くなっていった。
小さな揺れなら、まだ耐えられる。
だが、大きな砂丘に差し掛かると、馬たちは恐れることなく丘を力一杯に駆け上がり────時折、馬車がまるで天を駆けるように跳んだ。
同時にそれに乗っている俺の身体がふわり、と一瞬宙に浮く。
その度に俺の胃をはじめとした臓器が激しくかき回され、何か……色々なものが込み上げる。
俺は揺れる馬車の中で口元を押さえつつ、このままではまずいと思った。
馬が全力で走るのは道を急いでいるので仕方がないことだが、でも、それだったら、俺だけ馬車から降ろしてもらって馬と並走して移動した方がいいんじゃないか……?とすら思い、イネスかリーンに俺だけ降ろしてもらえるように頼もうとしたが、その度に胃の内容物が込み上げ、結局、何も言いだせなかった。
そうして、ある時点から、俺は自分の中から込み上げる何かと戦い続けることを覚悟した。
それからは生きた心地がしなかったが……それでも、なんとか我慢している間に馬車は目的地に到着した。
馬車が速度を緩めた瞬間、安堵感が込み上げる。
「着きましたね。もう、街が見えてきました。本当に驚くほどあっという間でしたね……ノ、ノール先生? どうかされましたか? か、顔色が……!?」
「……いや、大丈夫だ。もう、治った」
俺の異変に気がついたリーンが声をかけてくれたが、すでに俺は大きな波を乗り切った後だった。確かに長距離移動の時間としてはあっという間だったと思うが……俺としてはようやく、という感じだった。
揺れがおさまるとすぐに気分は良くなったが、途中のことはもう、思い出したくない。
考えるだけで色々と込み上げてくるものがある。
「……あれが『時忘れの都』、か?」
俺が気分を変えようと馬車の窓から辺りの様子を伺うと、そこから見えたのは目が覚めるような白い輝きを放つ、見たこともない街の姿だった。
「はい、あれがサレンツァの首都に次ぐ大都市、『時忘れの都』ですね。王都とも、ミスラの街とも造りが全く違いますね」
「そうだな」
確かにリーンの言う通り、これまで俺たちが訪れてきた街とはまるで違う雰囲気だった。
街を護る防壁らしき石の壁から頭を覗かせる建物はどれも背が高く、何か白い漆喰のようなもので継ぎ目なく塗られ、壁が日の光を受けてキラキラと輝いている。
照りつける太陽の反射光で辺りを眩しく照らしている。
サレンツァの都会と聞いて、獣人たちの集落が大きくなったような所かと思っていたが。
なんというか、想像していたよりもずっと綺麗な街のようだった。
「あそこが街の入り口か」
街に近づくにつれ、道なき道を進んでいた馬車が石畳で平らに舗装された道を通るようになり、
まっすぐに進んでいくと、白い防壁に空いた大きな木製の門に辿り着いた。
守衛にリーンが何かの書類を見せると中に通してくれ、このまま更にまっすぐ進んで見えてくる街の中で一番大きな建物に向かうように言われた。
お礼を言って進んでいくと、また珍しい風景が広がってくる。
白く塗られた石造の建物が立ち並び、その上に白いカーテンのような巨大な布がかかって風にゆらゆらと揺れている。
その布の下の日陰には多くの人々が集い、賑わっているのが見える。
「あれは、もしかして市場か?」
「はい。おそらくそうでしょう。居住区の手前、街の入り口に大きな市場があるのですね。本当に私たちの街とは全く違う、商人の街らしい構造ですね」
「ああ、面白いな」
辺りを見回すと店らしきものがたくさんあり、色とりどりの果物や、なんだかわからない様々な道具類が、風ではためく白い大布の下に所狭しと並べられている。
最初、あの布の役割がよくわからなかったが、おそらく、あれが日の光を遮る屋根のような役割を果たしているのだろう。
その下の日陰にいる人々はそれなりに快適そうだ。
思い思いの過ごし方をする、さまざまな年齢の人で賑わい、なんだか美味そうな食べ物の匂いもしてくる。
サレンツァは商人の国、というだけあって市場には活気があるようだ。
ここにはどんな商品が並んでいるのか、気になるところだが。
「俺たちがこれから向かうのは、さらにこの奥か」
「はい。あの白い壁の中ですね」
馬車が進む舗装された道の先に、街の中でも一際高い白い壁があった。
ここまで見てきた建物よりもさらに真っ白な塗料で塗り固められ、キラキラと眩しく輝いている。
ずっと眺めていると照り返しで目が痛くなる。
「あの壁の向こうにまた街があるのか」
「はい。より正確に言えば、あれの中に街があるのではなく、あれ自体が一つの建物なんだそうですが」
「……一つの建物? あれが?」
「『時忘れの都』というのは本来、領主が管理する国営の娯楽の館を指す呼称なのだそうです。私たちが今通り抜けてきた街はあそこに滞在する裕福なお客達を目当てに、商人達が長い時間をかけて形成した商業地区で、今ではそこを含めて『時忘れの都』と呼ばれているのですが……元々は全く別なんだそうです」
「あの白い壁にしか見えないものが一つの建物ということか……随分と大きいな?」
「はい、私も話には聞いていたのですが……まさか、あそこまで大きいとは」
リーンからあの白い壁は一つの建物だと教えてもらい、目を細めながら改めて眺めてみるが、とてもそうは思えない。
それは城というにも大きすぎる、ひたすらに見上げてため息ばかり出るような真っ白な箱だった。
「すごいな。あんな大きなもの、どうやったら建てられるんだ……?」
「聞くところによると、サレンツァ独自のゴーレムを使った建築技術があるのだそうです。ゴーレムを使役することができるのはサレンツァでもごく一部の人々に限られますから、あれ程のものは一般的ではないと思いますが……クレイス王国では真似できませんね。人の手だけであれを作るのは、不可能とはいえなくとも、かなり難しいでしょうから」
「確かに、そうだろうな」
白い壁は一部の隙もなく、のっぺりと白い塗料で塗られている。継ぎ目など全く見当たらない。
あんなものが人が作った建物だというのだから、なんともすごい話だった。
窓ひとつなく、まるで巨大な要塞のような感じではたして居心地が良いのかどうかはわからないが。
あれが『時忘れの都』の主、ラシードが俺たちをもてなしてくれる館だという。
建物の直前にまた一つ関所のような場所があり、守衛らしき人物に呼び止められた。
「クレイス王国からの者です。通してもらえますか?」
「お話は聞き及んでおります。念の為、身分の証明となるものを……はい、確認させていただきました。どうぞお通りください」
リーンが門番と短い話をして通してもらうと、白い建物の壁に、ぽっかりと空いた入り口らしき穴が見えてきた。
その入り口は建物の巨大さからすると、ささやかなものに見えたが、近づいていくと俺たちが乗る大きな馬車が十台ぐらい同時に通れそうなぐらいの幅はある。
あまりにも建物が巨大すぎ、大きさの感覚がおかしくなる。
入り口近くまで馬車を進めると、一人の人物が出迎えてくれた。
「ようこそ『時忘れの都』へ。お待ちしておりました。館主ラシードから聞き及んでおります。遠路はるばる、ご苦労様でございました」
昨日、獣人達の集落にやってきた二人と同じような黒服を着た、長髪の男だった。
男は片手を胸に添え、俺たちに丁寧に礼をした。
「皆様のご案内を承りますクロンと申します。これより館内をご案内いたします。馬車は係の者が待機場所まで誘導いたしますので、そのままにしていただいて結構です」
「……わかりました」
俺たちは馬車を降りると、黒服の男に連れられて白い壁にぽっかりと空いた大きな穴のような入り口を潜り、館の中に入っていった。
だが、中に足を踏み入れると思わず俺は驚いて立ち止まってしまった。
「……あれは……?」
建物の外側は白い壁ばかりで殺風景だったので、てっきり中もそういう感じかと思ったが、一歩内部に足を踏み入れると、そこにはとても信じられないような光景が広がっていた。
「……あれは鳥か? 小さな動物もいる。それに、あれはもしかして川か? 魚もたくさんいるし……奥には森のようなものも見えるな」
まるで、いきなり見知らぬ森にでも迷い込んだようだった。
建物の中は豊かに草が生い茂り、辺りには小川が流れ、色とりどりの花が咲き乱れている。
森のようにしっかりした樹齢の木々も立ち並び、木の上には鳥が棲んでいるのか、色々な鳴き声が聞こえてくる。
耳を澄ませば、俺たちの登場に驚いた小動物が、岩の上を跳ねて逃げていくような足音もする。
辺りに漂う枯葉と土の匂い、わずかに湿った空気の流れも森の中そのもののように感じる。
……とても、建物の中とは思えない。
「……これはいったい、どうなっているんだ……? 見たこともない植物がたくさんある。面白い形をした虫もいるな。どれも、初めて見るものばかりだ」
物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す俺に、案内役の長髪の職員が解説してくれた。
「あれらは世界各地より蒐集された動植物にございます。中には非常に希少価値の高い品種もおりますが、このように開放して飼育しております。来館されたお客様の目を愉しませるのも、この館の目的の一つにございますので」
「なるほど、すごいな」
砂漠のど真ん中の建物の内部に生き物が住み着き、全く違う土地の環境が再現されている。
それ以上に驚いたのは、この場所の快適さだ。
やけに中が明るいとは思ったが、見上げると遥か彼方に見える天井は全面、透明なガラスか何かで覆われており、青い空がすっと見渡せた。
日差しが差し込んできて、辺りは眩しいほどに明るいのに、全く暑くない。
というか、建物の中だというのにどこかから心地よい風が流れてきているのを感じる。
これはどういうことかと、思わず足を止めて遠い天井を見上げていると、隣にいたリーンも俺と一緒になって天井を見上げた。
「どうされました、ノール先生?」
「これだけ強い日差しが入ってきているのに、ここが涼しいのはなんでなんだろう、と思ってな」
「そうですね……もしかして、氷と風の複合魔法で冷やしているからでしょうか? 王都にも似たような、室内を快適にする為の温度調整技術があります。これほど大規模なものは、私も見たこともありませんが」
「御明察です、リンネブルグ様。当館内部は全域を快適に保つ為、主に『迷宮遺物』の魔導具による繊細な空調を行っております。コレクションされた動植物も生息地に近い環境でないと生き長らえることができませんので、それぞれの生態に合った温度・湿度管理を毎日欠かさずに行っております」
俺のふとした疑問にリーンと黒服の男がそれぞれ解説をしてくれた。
「なるほど、全館空調ですか。おそらく、建物の外に窓が見当たらなかったのも内部で調整された空気を外に逃さない為なのでしょうね。それも、あんなに多くの動植物を生かすことのできる繊細な空気の調整とは……すごい技術です」
「……なるほど? 俺たちが乗ってきた馬車についていた空調と似たようなものか」
「はい、技術のレベルがまるで違いますが。これは、勉強になりますね」
「そうだな」
俺は知らなかったがクレイス王国にも似たような技術はあるらしく、イネスの着ている鎧にも同じような工夫があるのだそうだ。
あの暑い砂漠で彼女がなんであの分厚い鎧を着て涼しい顔をしているのかずっと疑問に思っていたが、意外なところで謎が解けた。
確かに、そういう工夫でもなければ鎧など砂漠では暑くて着れたものではないだろう。
暑くても居心地良く過ごす技術は、結構色々あるものなのだなと俺が感心しながら皆の後ろについて歩いていくと、俺たちを案内してくれた男が立ち止まった。
「それでは、こちらで皆様のお荷物をお預かりします」
「荷物、ですか?」
立ち止まった男の背後の白い壁には何の材質かわからないが透明な大扉があり、その奥に長い通路が続いているのが見える。
「はい。お手持ちの武具類はこちらで私が全てお預かりすることになっております。その上で、奥に進んでいただければ他の係の者がおくつろぎいただける部屋にご案内しますので、そちらで私共の準備した衣装にお召し替えいただくことになります」
「それは……どういうことでしょう?」
「そのままの意味でございます。ここは多くのお客様が訪れる施設となりますので、館内に入館していただく際、他のお客様に危険を及ぼす物品の持ち込みは禁止されています。どなたにも安心して当館の施設をご利用いただけるよう、皆様にご協力を頂いております」
職員の男の言葉に、リーンは戸惑っている様子だった。
「……自身の身を守る最低限のものも、持ち込みが出来ないのですか?」
「もちろん、でございます。皆様、そのようにしていただいております。申し訳ありませんが、私共職員には全てのお客様の安全を守る責務がありますので、異国から遥々お越しいただいたお客様といえど特別扱いはできかねます。もちろん、何かしら不測の問題が発生した際は、私共職員が責任を持って対応いたしますので、どうぞご安心くださいませ」
そう言って、長髪の黒服の男はリーンに向かって丁寧に礼をした。
「────尚、当館には来賓の方に楽しんでいただける様々な施設を取り揃えてございます。館主ラシードからは『裁定遊戯』までの間、お客様に最大限のもてなしをするように、と申し付けられております。もちろん費用は一切発生いたしませんので、ぜひ、ごゆるりと楽しんでいただければと」
俺たちをここまで案内してくれた男は紳士的な笑みを浮かべ、この館の施設を楽しんでいってくれ、と言っているが。
リーンの表情は不安そうだ。
「……ノール先生はどうお考えになりますか?」
「いいんじゃないか? 何かあっても彼らが対応してくれると言っているし。それにイネスもいるだろう?」
「……そうですね」
リーンは振り返り、イネスと目を合わせた。
彼女は元々、武器を一切持っていないらしいので預ける預けないもないだろう。
まあ、武器を持っていないというか、俺としては彼女自身がその辺りの武器など比較にならないほどのとんでもない危険物のような気がしてならないが、もちろん、そんなことは彼女本人の前では口が裂けても言えない。
「リンネブルグ様、確かにノール殿の言う通り、私は装備がなくとも任務に支障はありません。もし何かあれば、私が対応しましょう」
「わかりました。シレーヌさん、ロロもそれで大丈夫ですか?」
「はい。リンネブルグ様のご指示であれば、もちろん私は構いません」
「うん、ボクも大丈夫」
「それでは、お荷物を預からせていただきます」
リーンは俺とイネスの話に納得したらしく、いつも使っている剣と、腰あたりにつけている短剣と小さな杖を黒服の職員に差し出した。そして、リーンに続いてシレーヌは弓を、ロロは料理に使っていた包丁と籠手をそれぞれ黒服の職員に手渡し、職員は受け取ったものを壁の前に設置された高級そうな布の敷かれた石の台の上に丁寧に置いた。
「では、そちらのお客様も」
「わかった」
そうして俺も彼らに続き、長髪の職員に『黒い剣』を手渡そうとしたのだが。
直前でふと、思い止まって手を止めた。
「どうされました、お客様?」
「いや。本当にこのまま渡してしまっていいものかと思ってな」
「……それは、私共が信用ならない、という意味のお言葉と受け取っても?」
長髪の黒服は急に目をギラつかせ、俺の目を見た。
どうやら、俺が彼らに剣を渡したくないという意味に受け取られたようだ。
「そういうわけじゃないんだが……この剣、ものすごく重くてな? 一人で持てるだろうか」
「────は」
俺の心配に、男は僅かに肩を震わせて笑った。
「……失礼。お気遣い、大変ありがたく存じます。ですが、どうぞご心配なく。私共は日頃から荒事もこなす都合上、鍛えておりますので。お客様のお荷物がどれほど重いものであろうと、全く問題になりません」
「そうか。それなら渡すが、くれぐれも気をつけてくれ。この剣、見た目より重いから」
「お客様。私共もプロです。大事なお荷物には傷一つお付けいたしません。ご心配は無用とお考えください」
「そっちの心配はあまりしてないんだが……怪我しないようにな?」
「……ご心配は無用、と申し上げたつもりですが。それとも他に渡したくないご理由でも?」
「いや。何もない」
「でしたら、お任せいただければ。悪いようには致しませんので」
俺が剣を渡すのを渋っていると、職員の男はみるみる不機嫌になっていった。
言葉は丁寧だが、額に青筋を浮かべ、俺を睨みつけている。
結構、気が短い人物なのかもしれない。
俺が手にしている『黒い剣』は、皆初めての時は重さに驚くので、もう少し確認してから渡したほうが良いとも思ったが……まあ、彼は腕に自信がありそうだし、大丈夫だろう。
たぶん。
「もし無理だと思ったら、すぐに手を離してくれ。床に落としてしまってもいいから、自分の身の安全を第一に考えてくれ」
「かしこまりました、お客様。ですが……一言、よろしいですか? これは私からのささやかな忠告として受け取っていただきたいのですが」
男は黒い手袋をはめた手を差し出しつつ、鋭い目で俺を睨みつけた。
「……いかに異国よりいらしたお客様といえど、そこまで私共をみくびるのは感心いたしません。私共職員にもプロとしての誇りというものがございます。私どもの日常業務にはその辺りのならず者の集団を片腕一本で片付ける、ということも含まれます。たかが剣一本の対処に困る、などということはないのですよ。それとも、これは貴方がたクレイス王国流の冗談なのですかな……? そのようなセンスは少々、理解に苦しみますが、ね」
彼はゆっくりと丁寧に喋っているように思えるが、声は唸るように低く、額にはさっきより一層くっきりと青筋が浮かんでいる。
どうやら、怒っているらしい。
「なんだか、悪かったな……? じゃあ、渡すぞ? 本当に気をつけてな?」
「……いえ。私も当館の荒事の部門の長をしております故、少々強い物言いになってしまったのはご容赦を。では、改めまして────ふゥんごッふッッッ!!???」
俺が彼が差し出した手のひらに『黒い剣』を載せると、男は剣と共に床に沈んだ。彼は膝あたりまで床に沈みながらも剣を落とさず、ちゃんと立ったままだったが、表情は苦悶に歪み、奇声を発し始めた。
これはまずい、と思い、俺は剣を支えようと手を伸ばしたが、彼はそんな俺を鋭い目で睨みつけ、踏ん張った。
「────くっ、はァッ!!」
驚くべきことに、彼は片手で剣を支えていた。
変な声をあげて内股気味になりながら、額に青筋を浮かべ、必死の形相で剣の重さに抵抗している。
鍛えている、というのは本当のことだったらしい。
とはいえ、ほんの一瞬耐えられただけで、奮闘の甲斐なく剣は男の手を滑り落ち、轟音を立てながら床にめり込んで建物に大きな亀裂を作った。
「……大丈夫か?」
「………………」
思わず声をかけたが、長髪の職員は俺が王都の工事現場で力自慢の同僚に初めて『黒い剣』を持たせようとした時と同じ、感情の消えた目で割れた床を見つめている。
その同僚はその後、『黒い剣』を見るたびにひどく怯えるようになり、剣を持っている時の俺には近づこうともしなくなってしまったのだが。
彼もあの時の同僚と全く同じ顔をしている。
「……危なかったな。でも、怪我がなくてよかった」
あとほんの少しずれていたら、剣は重さで男の足を砕いていただろう。
だから、気をつけてほしいと言ったんだが……言葉で伝えるのはなかなか難しい。
その後も心配になって何度か話しかけてみたが、全く返事がない。
「し、室長ッ!? どうされました……!? い、今の揺れは……!? し、室長ッ!?」
そのうち異変に気がついた他の職員が駆けつけ、床にめり込んだ『黒い剣』を持ち上げようとしたが誰も剣を持ち上げられない様子だった。
流石に俺も手伝おうかと思ったが……立ちながら固まっている彼はさっき、自分達にも職業上のプライドがあるので見くびらないで欲しいと言っていた。
その言葉をどう受け取ればいいのか判断が難しいが、さっきまでの彼の様子だと、かえってここで助けに入ると迷惑がられるかもしれない。
少し迷ったが、ここは彼らに任せておいた方がいいだろう。
「じゃあ、すまないが頼んだぞ? 重くて運べないようなら、たくさん人を呼ぶといい。無理に少人数で運ぼうとすると危ないから、慎重にな」
「……は、はい?」
「待たせてすまなかったな、リーン。行こうか」
「は、はい」
戸惑っている様子の黒服の職員達に後のことは任せ、俺は待たせていたリーンたちと他の係員がいるという館の奥へと向かった。






