第6話 「泣いた鬼の内と外」
ドーム状の結界の中は、炎の嵐のような様相だった。
それを、頬杖をついて遠巻きに見下ろす影がある。
「ふん……。どうしたもんかねぇ……」
意識とは無関係に滑らかな尻尾がゆるく揺れた。
遠目の効く目は冷静に戦況を観察し、大きな耳は結界越しでも中の声を正確に拾い続けている。
水色の相貌が細くなる。微細な動き一つ見逃すまいと、ひたすら桃色の髪の少女を追いかける。
「…………華上 雪乃……」
*
「ああああああっ!!」
叫びながらモモが振りかぶった。鋭く脚を払われ、もう何度目かわからない地面を転がる。
花緒がペーパーナイフを投げ捨てたのはいつだったろう。気づいた頃からもうずっと素手で立ち回られている。
歯を食いしばり、立ち上がろうとする。でも、息を吸うたび喉の奥で金属を擦るような音が鳴る。
「どうしたんですか。……早く、立ってください」
花緒が顎に流れた汗をぐいと拭いながら振り返った。
モモは拳を握りしめ、爪の間に入り込む小石の感触を確かめながら歯を食いしばる。舌の上で血の味が広がる。
残った力任せに、乱暴に『角刀』を握りしめた。
その時。
――ああ、違う。
……そうじゃない。
誰かの声が、天使のように降りてきた。
ハッとモモが息を吸う。
柔らかいのに、悪戯で、楽しそうで。
背中から、誰かが優しく包み込んでくる。
――刀を握るときは……こう。
自分じゃない誰かの感覚が、皮膚の裏を這い、骨の中を巡る。手の上に長い指が滑るように重なる。
――そう……上手。
瞬間、足が駆け出した。
経験のない重心移動。考えた覚えのない間合い。
思考より先に体が正解を選んできた。
腕が勝手に動く。その恐怖で視界が滲む。
――やめて!!
「うわあああああッッ!!」
喉を裂く叫び。角刀を上段に振り上げる。
腕の隙間から花緒と視線が合う。その瞬間、モモの中に迷いが走った。手が強張り、ただ叩きつけるだけの動きになる。
花緒が視界から消えた。気づいた時には間合いは潰され、帯と胸ぐらを掴まれていた。視界が反転し、背中が地面に叩きつけられる。
肺の空気が一気に吐き出され、悲鳴が喉の奥で潰れた。
「――ッ!!」
すかさず花緒が上から押さえ込む。抵抗しようとするが、苦しくて腕に力が入らない。
「……く、ぅ……!」
「…………」
周囲の音が遠ざかり、二人の荒い呼吸音だけが響く。
汗に濡れた花緒の前髪から、雫が一つ落ちた。
見上げると目が合う。
その目がはっきりと訴えてくる。
――逃げるな。
はっ、とモモは悟った。
もう戻れない。
これまでの幼い関係に。
優しいだけの関係に。
怒りで押し込めていた不安が一気に決壊する。
モモの目から、涙が湧き上がるように溢れた。
「……花緒どうしよう……!! 私、私やっちゃったんだ!!」
モモが叫び、花緒の腕を握りしめた。
「雪乃さんのこと、そんなことないって言いたいのに、どんどん違うって言えなくなる……! これが私一人の体じゃないってわかるの!!」
花緒は顔を歪めたまま、答えない。
こめかみから顎へ、汗が静かに流れる。
「どうしよう……花緒、私のこと嫌いになった!? 亜蓮さんにも嫌われちゃうよね!? 御之さんも怒ってるよね!? 千助さんだってもう無理だよね!? ねえどうしよう!!」
積み上げられた誰かの経験が、容赦なく流れ込んでくる。自分の輪郭が削られ無くなっていくみたいだった。
「もう……わかんないよ……! 今戦ったのは、私!? 雪乃さん!? ねえ、どうだったの!? 教えてよ!!」
「……わかりません」
花緒は、切れ切れの息の合間から、吐息みたいに言った。
「確かに、貴女の立ち振る舞いには、雪乃様の面影があります。でも、全部がそうだとは言い切れない……。そして、これからどうするかは、貴女が決めることです。私達じゃない」
「でも私、ここにいていい奴じゃないじゃん!!」
モモの指が、縋るように花緒の腕に食い込んだ。握りしめた腕が変な形に歪むのに手が離せない。離したら、全部が終わってしまう気がした。
でも、この手を離さないと、きっともっと皆を傷つける。
「ここに……いたいのに……」
ぎゅうと目を瞑る。視界の暗さより、これから先を想像するだけで目の前が真っ暗になりそうだった。許されるはずのない言葉だとわかっていても、言わずにいられなかった。
みんなと仲良くしたいだけなのに。
――その時、切れ切れの息を押し殺しながら花緒が言った。
「雪乃様を喰った悪い鬼は、さっき殺しました。それではいけませんか」
モモがはっと目を開けた。
見上げた花緒の顔は、泣き出しそうにぐしゃぐしゃだった。
「言えませんよ……。私だって、貴女を責められるほどちゃんとした奴じゃないんです……。 知ってるでしょう? 私だって、亜蓮様と慈雨月様の心を、生きたまま殺してるような最低な人間なんですよ……? それに、この事実を報復で片付けるには、貴女はいい子すぎました……!」
汗で張り付いた前髪の隙間で、花緒の目に熱い雫が溜まっていく。折れた腕の痛みを堪えて声が引き攣った。
「御之は、貴女が雪乃様を喰ったと言った……! でも、私にはどうしても、雪乃様が自分を喰わせたようにしか思えない……! どうしても、貴女が望んでそれをしたとは思えないんです……!」
息継ぎすら悲鳴のようにして花緒が言い切った。
モモは、瞬きも忘れてそれを見つめていた。
細い腕を握りしめていた指がふと緩む。
花緒の目から、ぼろぼろと熱い涙が溢れていく。
「雪乃様のことは……悔しいです。でも、だからってそれを、貴女を切り捨てる理由にできない。……どうしていいか、わからないなら、わかるようになるまで、ここにいてください。怖くなったら、私が話を聞きます。暴れたくなったら、貴女の力を受け止められる人間がここにいます。それじゃ、駄目ですか……!?」
祈るように、花緒が項垂れた。
モモの着物を掴んでいた手が、縋るような形に変わる。でも、片方は上手く力が入らなかった。
「……私だってモモさんは、いてもらわないと、困ります……」
濡れた髪の合間から、花緒のすすり泣く声が聞こえる。
その言葉と胸元を濡らしていく涙が、モモの胸に温かく落ちていく。
花緒は、ただモモを圧倒していたわけじゃなかった。
花緒から伝わってくる力には、敵意も拒絶も嫌悪もなかった。
もう、これまで通りではいられない。
それでも、終わりにしたくない。
ただ証明したい。貴女の行き場の無い怒りをぶつけられる人間がここにいると。
「花緒……」
モモの胸の奥に張りついていた冷たいものが、じわじわと溶かされていく。気づけば、恐怖はどこかへ消えていた。モモの手から力が抜け、角刀を手放す。
「一人になっては、いけません……。自分の中に潜りすぎれば、戻れなくなる……。でも、貴女の気持ちまで、他人に作られたものかもしれないなんて疑わないで……!」
その言葉に、モモの鼓動が、ゆっくりと知っているリズムを刻み始めた。細くなっていた瞳孔が丸みを取り戻していく。そして、手の中にあった角刀が、柔らかな光の粒になって消えた。
「花――」
――あ〜あ、もう終わりかぁ。
ふっと、あの天使のような声が舞い戻った。
どきんとモモの心臓が跳ねる。
モモの目の前に、白い髪の女の子が映った。
白い空間に、ブラウス姿の女の子がしゃがみ込んでいる。
ふわふわの髪で、悪戯っぽそうで、目は陽だまりのような金色で。
モモを覗き込む愛らしい顔がにいっと笑う。
でもその笑顔の奥に、ほんの少し寂しさが滲む。
――ま、今日はこのくらいにしとこうか。
あと、あっちのことはよろしく。
白くて長い指がすいと横へと流れた。
その指先を、モモの視線が追う。
――あいつ……
怒るとまあまあ止めらんないからさぁ……。
――じゃあね。
笑うような気配を残して、白い幻がふわりと消えた。
焦点を失った目のまま、モモが何もない空間を見て呆然としている。
異変に気づいた花緒の表情に不安が走った。
「……モモさん?」
その声を、轟音が割った。
唐突に二人の意識が現実に帰る。
モモの顔がはっと蒼白になった。
御之に馬乗りになる亜蓮が、顔の横に刃を突き立てている。
――転がる黒いガラケーが、戦いの勝敗を物語っていた。
「亜蓮さんっ!!」
自分の身に起こったことなど忘れ、モモは跳ね上がるようにして駆け出した。




