第34話 「嘘つき」
――互いの温もりを惜しむように、そっと二人の体が離れる。
最後の涙を指先で拭うと、花緒は自分が恥ずかしくなった。
(なんだ……。亜蓮様は最初から、私を一人の家族として見てくれていたんだ。恋だなんだと勘違いして、周りまで巻き込んで騒いでいた自分が恥ずかしい……)
――胸の中のこの愛おしさも、きっと彼を家族だと思うからこそ。……良かった。この気持ちが後ろめたいものではなくて。
(これで安心して、慈雨月様と――)
花緒が寂しそうにふっと笑みをこぼす。
――が、二の腕に違和感。亜蓮の手が、花緒の腕を掴んだまま離れない。
「えっ」
花緒の目が瞬く。
ゆっくりと、亜蓮の視線が上がる。
赤い瞳の奥に燃える、抑えきれない――熱。
亜蓮の唇が、ぎゅっと何かを堪えるように引き結ばれた。
「…………」
――獣のように澄んだ目。
情熱と欲望と羞恥がないまぜになった複雑な感情が決壊しそうになるのを、理性一つで辛うじて堰き止めている。
「――っっ!!」
一瞬で顔が真っ赤に染まり、花緒は慌てて両手で口を塞いだ。逃げようと身を捩るが、掴まれた腕はびくともしない。
亜蓮の目が探るように鋭くなる。
「……花緒」
「……な、なんでしょうか」
「慈雨月に嫌なことされてない?」
「へっ!? えっ!? べっ、別に……!」
「別に……?」
亜蓮の気配が苛立ち、花緒がますますパニックになる。
「と、取りただして言うことは何も!」
「取りただして言うことって何……」
「なっ、な、何もないです!!」
「ほんとに?」
「本当です!!」
「……」
「ほ、本当にありませんっ! ご心配に及ぶようなことは何も!!」
たまらなくなって震える声を張り上げる。耳まで赤くなるのを隠せず、視線に耐えきれなくなって目を逸らした。
そして爆弾を落とす。
「慈雨月様とはその……キ、キスまでしか……」
「きっ」
亜蓮の頭がガンッ!!と金槌でフルスイングされたみたいに弾ける。
「…………」
ズキズキ痛む胸を鷲掴みにし、呼吸すら危うくなりながら亜蓮はゆらりと顔上げた。吐血しそうだ。それでも、花緒が言ったことを一旦は事実として受け止め、深く息を吐く。
「わかった。でも、慈雨月に言っといて。何か企んでるみたいだけど、もし僕を養子にするつもりならそれだけはごめんだから」
「なんでそれを!!???」
「あいつの企みそうなことなんて大体わかるよ……」
真っ赤になって頬を覆う花緒に、亜蓮は険しい顔でうんざりと息をついた。
どうせ、亜蓮と花緒を形式上の親子にしてしまえば社会的に手出しできなくなると踏んだに決まっている。勿論亜蓮を助けたい気持ちもゼロではないのだろうが……あいつの行動は慈善的でも、根の性格は計略家なのだ。
「……っ、も、申し訳ありません……」
俯いて呟く花緒の表情は、これも本気で亜蓮の為を思っていたという落胆具合だった。その姿に、亜蓮の中で愛おしさが込み上げてくる。
「……いいよ。でも覚えておいて」
音もなく、亜蓮の顔が近づく。
伸びた手が、花緒の後ろ髪をすくうように触れた。指先が銀の簪――従者の証に触れた瞬間、花緒の胸がどくりと爆ぜる。
「君の誠意を傷つけないから手出しはしないけど……。もし、あいつが君を傷つけるようなことをするなら――」
互いの吐息が触れそうな距離。簪の根元に添えられた手に、もしもの時の覚悟を示すかのように、微かに力が籠った。
隙を狙うような熱く赤い目がすっと細くなる。
「その時は――躊躇わないから」
花緒の呼吸が止まった。
告白ですらない宣戦布告。
どうしよう。
心臓が壊れそう。
いや、もうずっとそうだ。
亜蓮とこんな風に向かい合う度、抑えられない衝動が胸の奥を焦がし、脆く崩れそうな理性を熱く溶かしてくるのだ。
花緒の揺れる瞳を見て、亜蓮がかすかに口角を上げた。優しく、抗いがたい強さと妖艶さで――
「花緒は……僕のだからね」
背筋にぞくりと熱が走った。息が熱い。震えが抑えられない。
(あ……)
その瞬間、意識が、真っ白に飛んだ。
ダメだ。
もう、
本当に、
限界だ。
花緒の頭ががくんっと項垂れ、亜蓮からその表情が見えなくなる。
「………………」
沈黙が妙に長い。
……何か様子がおかしい。
「……あ、の、花緒?」
がばっ!! と花緒が顔を上げた。
「…………わかりました」
ガラリと花緒の表情が変わった。戸惑いで潤んでいた瞳は一転、無になって鏡面のごとく静まり返る。そして、代わりに宿る謎の情熱。
「亜蓮様」
真剣な声音に、今度は亜蓮の心臓がどきっと鳴った。胸に溢れそうになる、淡い期待と愛おしさ。しかし次の瞬間、花緒はそれを真顔で打ち砕く。
「亜蓮様は多分――私の推しです」
…………固まった。
気のせいかバックの蛍達まで明滅を止めた。混乱で空間の時が止まる。
「…………ん?」
……え?
なん、なんて?
「え、推し……?」
「はい」
「……や、え?」
「この際なので言ってもいいですか?」
言うが早いか、花緒は目を爛々と輝かせながら一歩踏み込んだ。その気迫に亜蓮がびくっと後ずさる。
「まず、佇まいがいいです。端正な顔立ちはもちろん、振る舞い一つ一つに品があるのに、時折子供っぽい仕草や男性らしい振る舞いが出るのが最高です。とても理性を掻き乱されます」
「え、あ、うん……」
「そして、細かい所作が全て美しいです。考え事をする時の指先の動きや、目を伏せた時の眼差しに瞳にかかる睫毛、無意識に口角を上げる微笑みに、何より、私を見つめる眼差しが他人に向けられるものよりずっと優しいのがたまりません、とても特別感を感じます」
「まっ」
「そして、戦闘の時ギャップがエグすぎます。あんなに優雅なのに鋭くて、洗練された剣捌きは、普段の優しくて穏やかな亜蓮様からは想像がつかないほど荒々しくて、私、何度目を奪われ命を落としかけたことかわかりません。控えめに言ってかっこよすぎます。愛してます。大好きです」
「……」
「ああもぉ、本当にっ、私にとって亜蓮様は理想の主人なんです! やっぱり、 私の推しに間違いないありません! だってこんなに好きなんですから!!」
うっとりと言い切った花緒は、実に晴れやかな表情だった。今まで抱えていた全てを吐き出し、達成感すら溢れる笑顔で両手を組む。
「はぁ……言えてすっきりしました……」
「……そ、そう……」
「ええ! というわけで、これからも執事として生涯お仕えいたしますね!」
「えっ?」
「亜蓮様」
にっこりと、最上級の笑顔で花緒は微笑んだ。
「これからも宜しくお願いいたしますね」
そのまますっと立ち上がり、きっちり会釈する。
「失礼いたします」
そして颯爽と去っていった。軽やかな足取りで。これまで見たことがないくらい上機嫌に。
「……」
亜蓮はその背中を呆然と見送る。
………………え?
どういうこと?
好き、って言われたよね?
愛してるって言った……。
執事として、一生お仕えします……?
「………………」
夜風が冷たく吹く。
見上げる月がやけに遠く感じた。
………………うん、これ、多分……。
推しとしては好きだから、執事としては今まで通り側にいますということで、でも恋愛対象としては見られませんということだから。
つまり…………そういうことか。
* * *
そして――。
ズゥン……!!と地鳴りのような轟音。
真っ二つに断ち切られた巨大な堕龍が崩れ落ち、地に舞い戻った亜蓮は手から刀を消す。
「亜蓮様っ!」
軽快に駆け寄る足音。
花緒が目を輝かせ、頬を染め、息を弾ませながら、亜蓮のすぐそばまで駆け寄ってきた。そして、他の誰にも聞こえない距離で甘い耳打ち。
「本当に……本っっっ当に、かっこよかったですよ……!」
熱量200%。
きらきらの瞳でうっとりと両手を組む。まるで人生を捧げる推しを最前列で見つめるファンに見えなくもない。そしてその右手には、変わらず光る婚約指輪。
「……うん……。ありがとう……」
亜蓮が力なく微笑む。
なんだ……なんだこの気持ち。嬉しい……はずなのに……何か違う……。
「あの……何かあったんすか……あの二人」
今にも灰になりそうな顔の亜蓮を遠巻きに見て、千助が気まずそうに指を差す。
「亜蓮さん、今日一番ダメージ受けてる顔してね……?」
「……あいつ逢魔倒す前にメンタル病んで死ぬんちゃう」
御之が半眼の呆れ顔でぼやいた。
その視線の先では、テンションMAXの花緒と、半分魂が抜けたみたいに虚ろな笑顔の亜蓮。……温度差が酷い。
「…………」
モモがなんともいえない顔で、亜蓮と花緒を交互に見比べる。……どうやら、何かしらの形で一応決着がついたらしい。
亜蓮は完全に振られたけど未練が残って、花緒は心の整理がついてすっきりした……ように見えなくもないが、モモの目には、ちょっと違って映っていた。
花緒の本心は彼女にしかわからない。
それでも、彼女がこの戦いを続けていくために、一番自分らしくいられる形を取ったことだけは、確かな気がする。
……花緒は「嘘つき」だから。
戦斧を肩から下ろし、しょうがないなぁ、とモモは笑う。
(……うん。私がしっかりしよう。)
クスッと笑って、そう心に決める。
「あ、そうでした。慈雨月様に送る亜蓮様の写真を撮らないと」
「それ今やる!?」
が、花緒が唐突にスマホを取り出したせいで、モモが慌てて声を上げる。
不意打ちで出た恋敵の名前。咄嗟に心臓を抑える亜蓮はほぼ瀕死だ。
「ほなみんなで撮ろーや! ほら、モモちゃんも!」
「あ、いいですね! やったー! みんなで写真!」
「えっ、全員ですか!? まあ、暁月の活動報告にもなりますし構いませんが……」
「――はっ! えっ、何? 何の話……?」
「記念撮影ですよ! ほら、亜蓮さんが真ん中です!」
唐突に意識を取り戻して目を白黒させる亜蓮の背中を、モモがぐいぐい押す。亜蓮を中心に仲間達がわらわら集まりだして、すぐにフォーメーションができた。
背景は今し方倒した堕龍が横たわる山だが、みんなこの生活に慣れた退魔師だ。バックの異常性を気にする者は誰もいない。
「千助さんもお願いします」
「えっ俺も!? 俺正規メンバーじゃないんすけど……」
「千助さーーんっ! こっちこっちー!」
「わーい! 俺モモちゃんのとーなりっ!!」
モモの一声であっさり釣られた千助がモモの隣にピタッと収まる。
御之の小型式神――クロチ達がよちよち積み重なって、ぐらぐら危なっかしく揺れながらもスマホを構えた。
「――亜蓮様」
隣に寄り添う花緒が、そっと囁く。
亜蓮が顔を上げると、そこには、まるで宝物を見るように優しく自分を映す花緒の瞳があった。
……ああ、そうだ。
今はただ、君が笑って生きているだけで――
「……うん」
亜蓮の表情に自然な笑みが戻る。それを見て、花緒も安心したように微笑み、前を向いた。
「よっしゃ、撮るで〜!」
――パシャリと、軽快なシャッター音が夜の山中に響き渡った。
そして――。遠く離れた都会。星々が眼下に散る夜の街。
執務台の上で震えるスマホを、長い指が取る。右手の薬指には、銀色に光る指輪。
画面を開いた慈雨月は、ふっと口元を綻ばせた。
まず目に飛び込んできたのは、仲間達の中心で、少し照れ臭そうに笑う赤目の青年。いつか予知夢で見た、そのままの「大人の亜蓮」だった。
身を寄せ合う仲間達は、勢いよくサムズアップを前に突き出し、千年京の闇も呪いも吹き飛ばしそうな笑顔で笑っている。
そして亜蓮の隣には――彼の肩に優しく手を添え、穏やかに笑む花緒の姿。
「……なんだ。少しは妬かせてくれるじゃないか」
悔しげに目を細めつつも、慈雨月は余裕を取り繕って苦笑した。
この一年余、自分の前では一度も見せなかった笑顔を、彼女は取り戻している。それも、自分ではなく、亜蓮の隣で。
……嫌な予感が当たってしまったのかもしれない。
だが、家族を失い、帰る場所も失い、生きることにすら迷い、傷ついたままでも進み続けた先に手に入れた、二人の新しい仲間達だった。
彼等の幸福を純粋に願う者として……それは尊い前進だと思う。
「……兄さん、亜蓮は一人じゃないよ」
だから――今だけは許してあげることにしよう。
写真に写る花緒の右手には、変わらず自分との指輪がある。
それでいい。
彼女の最愛がどこにあろうが、もう手放す気などないのだから。
「……近いうちに挨拶しなければならないね」
ゆったりと瞳を細め、慈雨月は笑う。その視線が、画面の端へと移る。
そこには……桃色の髪の、無邪気に笑う少女。
――まるで、在りし日のあの子のような……。
「渡良世 モモ……君にもね」




