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口付けと雨音




さあさあと雨が降る。


その雨は世界を暗く灰色に染め上げ、川の方からはしっとりとした霧が地面を這っていた。


あの美しい日曜日に花開いた庭の花々は、雨にその満開の花びらを散らし、或いは項垂れて息を潜めていた。




(このまま秋にならないで…………)



サラは張り裂けそうな思いでそう願い、今日も暗い雨雲を見上げていた。




また青空が覗いてあの日曜日のような日が訪れたなら、アーサーはアシュレイ家の庭に来てくれるだろうか。


そうしたらサラは言うのだ。


ブニャゴと鳴くダーシャを捕まえて、そんなダーシャを揺さぶってでも、アーサーの助けになって欲しいとお願いし、アーサーにここではないどこかに魔法はあるのだと伝えてみせる。



だから、どうか押し潰されてしまわないで。

諦めず、打ちのめされず、サラがアーサーの言葉で踏み止まったように、一緒に始まりの町に行こうって。




(私はまだ子供だけれど、ダーシャなら、アーサーの助けになるような言葉を考えてくれるかもしれない…………)



自分の力が足りないと自覚するのは悔しかったが、サラの考えつく言葉くらいは、きっと他の誰かが伝えてしまっているだろう。


ダーシャはアーサーの危うさを指摘したけれど、ジョーンズワースの家の呪いは解き方が難しいのかもしれないけれど、もしかしたらと抱ける期待はきっと、真っ暗な心を照らしてくれるお守りになる筈だ。



以前とは状況が変わった。

ダーシャだって、きっと理解してくれると思うのに。




雨が木々の葉を打つ音に、耳を澄ませてみる。



カーテンの影からこっそりと通りの方を睨みつけていても、あの日に現れた馬車は、もうどこにも見当たらなかった。


どれだけ怖くても今度は負けないし、またジョーンズワースの家の前に来たら許さないと、サラは小さく唸る。




雨音に蘇るのは、教会から響き渡るあの日の鎮魂の鐘の音。



黒い車が喪服の人達を乗せてゆき、父の腕の中で震えていた朝のことを思い出す。


母を喪った後も、恐怖はひたひたとサラの後ろからついてきたが、これだけアシュレイ家が呪われていると言われながらも、魔法をかけられた山猫の友達がいても、あんな怖いものを見たのは初めてだった。




あの日、父には真っ黒な馬車が見えないと分かったサラは、訝しむ父の背中を押すようにして、ジョーンズワースの家に向かった。

その時はとても混乱していて、怯えていて、あの場でサラにだけその馬車が見えているということを、誰かに知られたくないという思いでいっぱいだったのだ。



馬車がそこにあるのなら、それを牽く馬や御者がいるだろう。

そういうものがそこにいるのならば、サラは自分の存在を彼等に知られたくなかった。



だから必死にジョーンズワースの家に向かったのだが、父のノックに扉が開き、泣き腫らした目のエマがジョーンズワース夫人を呼んで来てくれれば、得体の知れない馬車に向ける怖さよりも、大切な家族を亡くしたばかりのジョーンズワース家の人たちへ向ける思いで、ひと時ではあるが馬車のことは忘れた。




ゆっくりした歩みに、夫人の喪服の裾が擦れる音がする。


ぎゅっと握り締め涙を吸い込んだハンカチに、涙で束になった下睫毛。

頬は青ざめていて、涙の跡がある。



おかしな話だが、ジョーンズワース夫人は美しかった。



喪服を着て髪の毛を結い上げ、涙をいっぱいに溜めた瞳で悲しげにこちらを見た人は、はっとする程に美しく、誰がこんな酷いことをこの人にしたのだろうと、拳を握って憤りたくなるくらいに痛ましい。



サラがじわっと涙目になるばかりで何も言えなくなる中で、父が、落ち着いた声でしっかりとお悔やみを伝えてくれた。




(…………お父様は、短い時間だけれど、ジョーンズワース夫人と色々な事を話していたわ…………)



アシュレイ家とジョーンズワース家は、友人のような付き合いがある訳ではないが、隣の家の隣人という存在だからこそ出来ることもある。


穏やかな声でそれを伝え、困った事があれば力になると伝えた父に、ジョーンズワース夫人は溢れた涙をハンカチで押さえ、深々と頭を下げていた。


決して饒舌な人ではないのだが、父がジョーンズワース夫人にかける言葉の頼もしさが、あの日のサラはとても誇らしかった。



そして、帰ろうとした時に、ちょうど喪服に身を包んで階段を下りてきたアーサーに遭遇したサラは、ひび割れてしまいそうな酷薄な微笑みを浮かべたアーサーに歩み寄る。



(ああ、……………)



その微笑みはあまりにも悲しくて、わぁっと声を上げたくなるくらいだった。


息が止まりそうな思いでそっとアーサーの腕に触れると、アーサーは力なく項垂れるようにしてふっと長身を屈め、サラの耳元に、心がばらばらになりそうなくらいに深い溜め息を吐いた。



その時ほど、サラは自分が子供であることを口惜しく思った事はない。

サラが大人の女性だったなら、項垂れるアーサーをしっかりと抱き締め、私が守ってあげるからと言えたのに。


でも、サラにはそんなことは出来ず、ただ、項垂れるアーサーに寄り添い、その悲しげな灰色の瞳を見上げていた。



体を寄せた彼には、いつかの歌劇場の夜に鼻腔をくすぐった柑橘系のコロンの香りはせず、ふわりと揺れた澄んだ水の香りが、アーサーも人知れずにどこかで泣いたのだろうかと思わせて胸を打つ。




『……………来てくれて有難う、サラ。僕はもう行かなければ』




あの時にアーサーを引き止められれば、サラは、ジョーンズワースの家の前に停まっていた真っ黒な馬車の話を出来たのだろうか。



見知らぬ人が出入りするから、ダーシャは、夜明け前から厨房にある小さな食料倉庫の中に隠れてしまったと話してくれたクリストファーに、赤く腫らした目元が痛々しい彼に、どうしても今、ダーシャに会いたいと言えたなら、何かを変えられたのだろうか。





あの日にそう取り縋れば、まだ間に合ったのだろうかと、サラは、何度も何度も考えた。





(…………アーサー、あの葬儀の日に、ジョーンズワースのお家の前には、誰にも見えない真っ黒な馬車がいたの…………)




心の中でそう呟き、また暗い空を見上げる。



帰り道のサラは、すっかり怯えてしまって通り側には近付けずにいたが、幸い、得体の知れない生き物には見付からずに屋敷に戻れたようだ。




お悔やみを言い終えて家に帰ってから半刻もすると、カーテンを下ろした窓の隙間から監視していたその馬車は、空が少し明るくなってきた頃にしゅわりと消えてしまった。


靄が晴れるように消えた馬車を見て、やはりあれは人知を超えたものだったのだと、サラは震えが止まらなくなってしまう。



ジョーンズワースの家の人達に会っている時にはしゃんとしていたが、そこでサラは心がぽきんと折れてしまった。


窓の隅に陣取りカーテンの隙間から外を見ていた上に、今度はへなへなと床に座り込んでしまった娘に、父は慌てたようだ。


信じてくれないかもしれないけれど、あそこに誰にも見えない怖い馬車がいたのだと真っ青になって訴えるサラを、ひょいっと膝の上に抱き上げ、暫くの間、しっかりと抱き締めてくれた。




『………………ふぇっく』



そんな風に大事にされると、怖さと悲しさが入り混じって堪えきれなくなり、サラは泣き出してしまう。



(大切な人達だったの…………)



アーサーと彼の家族は、サラにとって、ほかほかと暖かな陽だまりのようだった。

あの、胸が張り裂けそうな葬儀の日に隣人として交友を深めさせて貰ったことで、どれだけ救われただろう。



(だから、ジョーンズワースの家の人達には、ずっと幸せでいて欲しかったの…………。私だってもう、誰にも死んで欲しくなかった。ジョーンズワースの人達は、私にとっても………………。それなのに、………………)




そう考えると悲しくて悔しくて、サラは随分と泣いていたと思う。



泣き疲れて顔を上げると、心配そうな顔をしたノンナが渡した蒸しタオルで、父が、腫れてしまった目元を優しく拭ってくれる。

まだ夏ではあるが、その日は怖いくらいに涼しい秋のような日で、あたたかなタオルで顔を拭くととてもほっとした。



こぽこぽと、どこかの部屋からお湯を沸かす音がする。


朝食の支度の匂いに、お湯で割ったエルダーフラワーのシロップの甘い香り。

いつの間にか、サラの前のテーブルには、そんな飲み物までが用意されていた。





『サラ。…………私も、黒い馬車が怖かったことがあるんだ』



ふすんと鼻を鳴らし、一息ついたサラに父が話してくれたのは、そんなことだった。

父が子供の頃に読んだという、怖い馬車の絵本の話をしてくれたのだ。




それは、この土地よりは少し高地にあたる湖水地方に伝わる伝承を元にした童話の一つで、サラの父は、その物語を小さな頃に読んでとても怖い思いをしたという。



その時のことを思い出し、サラはぶるりと震える。



あの悲しい朝から五日経った今、その絵本は既にサラの手元にあった。


濃紺の布張りに金の箔押しのある装丁が美しい、精緻な装飾挿絵を挟んだ高価な童話絵本だ。


中身を読めば、小さな子供には少し難しいところも多いので、土地の伝承をまとめたという体裁なのも分かる気がする。




(………アーサー、ダーシャ、…………私ね、もしかすると、ジョーンズワースの家の呪いの欠片を見付けたかもしれないのよ…………)




本をそっと指先で撫で、また窓の外を見た。



こうして庭を眺めているのは、アーサーを見付けたらすぐにでも会いに行く為だった。




(あの日、……………お父様が、ヒントをくれた)




父が話してくれたのは、呪いの馬車が出てくるという童話に怯えていた、小さな子供の頃の思い出話。



まずは絵本の概要を話して聞かせてくれると、なぜか不思議に心を奪うその物語に目を丸くしているサラの頭を、優しく撫でてくれる。



『その絵本を読んだ私は、…………まだ小さな子供だったが、自分の一族が呪われているのだと、家の中で交わされる囁きを聞いてとっくに知っていた。………だからなのかもしれない。きっとその馬車も実在しているに違いないと考えて、その本が怖くて仕方なかったんだ』

『…………墓犬やバンシーのようなもの?もしかして、その物語に出てくる馬車が来てしまったのかしら?』

『…………どうだろうね。けれども、確かにこの世界には、多くの人達は触れることのない、目には見えないものがあるのだと思う。…………サラ、もしアーサーが訪ねて来たら、力になってあげなさい。その時の為に、馬車が怖くなくなるおまじないの言葉を教えてあげよう』

『…………っえっく。…………おまじない…………?』



そこで父は、不思議なおまじないをサラに教えてくれる。


見えない馬車を目撃し、すっかり怯えてしまっていたサラに、このおまじないを伝える為に絵本のことを話してくれたのだろう。



父の柔らかな声を聞きながら、サラは、こんな時に父が味方になってくれるのは、アシュレイ家が呪われていたからこそなのだと、ぼんやりと理解した。



普通の家であれば、サラの恐怖は理解すらされなかったかもしれない。


それは、アーサーがサラに呪いの話を打ち明けてくれたように、知っているという前提でのみ、傾けられる心なのだ。




『さっきの物語を覚えているかい?竜は飛んで行ってしまった。王子はもうここにはいない。そう言えばいいんだ』

『……………竜』

『そう。あの童話に出てくる呪いの馬車は、竜と王子を探しているんだ』

『……………王子』




(…………そう。そうなのだ)



その絵本には、怖くて美しい竜と、その竜の友人となるお姫様がいる雪の国と、その竜を討伐せんと企む、騎士や魔法使い、そして悪い魔物がいる帝国が出てくる。


記された世界の気配がとてもダーシャの話に似ていると固まってしまったサラに、父は、祖父の工房からこの本を持って来てくれた。



『下巻が見付からなかったが、…………これだ。上巻はまだ怖くないのだが…………』

『まぁ、お家にあったのね…………』

『アイリーンが、決して捨てないようにと言って、大事に管理していたからね。………アシュレイ家の呪いの話を覚えているかい?』

『覚えているわ。カトリーナのお話ね?』

『そこに出てくるものによく似た、霧の町の話が、この物語にも出てくる。今思えば、叔母さんはそのような物語が他にもないか、探していたのかもしれない。…………この本は、元々は私の叔父が買って来たものなんだ。その叔父も、同じような理由で探し出したのかもしれないな』



そんな事を聞けば、サラは、その絵本をくまなく読み調べなければならなかった。




そうして、この絵本こそがジョーンズワースの家の呪いにかかわるものだと確信に至ったのは、絵本の中に描かれた、お姫様を乗せた“目隠しの馬車”を見た時だったと思う。


その時はまだ、アシュレイ家の呪いにもかかわる霧の町が出てこない上巻しか読んでいなかったが、それでも、これはあの一族に無縁のものではないと、はっきりと確信したのだ。




絵本の中で、竜の友達になったお姫様は、お城を抜け出して竜に会いに行く時はいつも、“目隠しの馬車”と呼ばれる真っ黒な馬車を使っていた。


それは、大好きなお姫様が野盗などに狙われないようにと、誰の持ち物かを分からなくする為に馬車が自ら漆黒に姿を変えたもので、その馬車が呪われてしまった後も、施された本来の装飾の一部だけが、天井部分に残されているという。




それはとても美しい王家の紋章で、そこだけは、王家の印にかけられた守護があまりにも強く、誰にも侵食出来ない為に、隠す事は出来なかったのだと。




「………………同じ模様だった」



そう呟き、サラは小さく唇を噛んだ。


勿論、絵本の中の挿絵なのである程度はデフォルメされてしまっている。

けれどもその紋章は、確かにあの日、サラがジョーンズワースの家の前に見たものと同じように思えた。



屋敷の窓からは遠いのだが、なぜか、その紋章だけははっきりと見えたのだ。




“その国の紋章は、とても特別で不思議なものでした。強い力が込められているので、悪さをされないようにと守護がかけられており、何もない時にはどうしても思い出せないのですが、目の前に誰かが正しい紋章を示せば、記憶の中にしっかりと浮かび上がるのです。また、王族の者達と特別な職人や魔法使い達だけは、何の制限もなく思い出したり、描いたりも出来ました”



そう記された文章のあるページを開き、サラは、ほうっと溜め息を吐く。


そのページに描かれていた馬車はあの日に見たものにそっくりではあるが、乗っているのは恐ろしいものではなく、竜と友達になった聡明で小さなお姫様なのだ。


窪地の森でそんな友達を待っている竜は、真っ白な牡鹿のような角のある、それはそれは美しい神獣のような生き物だった。



(……………ダーシャの大切な竜は、この竜なのかしら?でも、前に話してくれた時には黒と赤の立派な竜だったと言っていたから、違う竜なのかもしれない……………)



父に絵本の概要を聞かされた時には、あまりにも符合が多過ぎて、きっとダーシャのことだと思った。


けれども、実際にその絵本を見てみれば、ダーシャには関係のない、また別の向こう側のお話のような気がする。

でもそれは物語の中の作り話ではなく、きっとどこかであったことなのだと、サラはそう信じていた。

この絵本は、その出来事を知る誰かが、記録としてこちら側に残してくれたものなのではないだろうか。



著者の名前には、ローヴァルト・ジョーンズ、ワースと記されている。



それを見た父もあまりの偶然の一致に驚いていたが、この絵本に記されたジョーンズ、ワースという表記の部分は、一概に家名とも言えないようだ。

整った文字で記されたローヴァルトの部分に対し、ジョーンズ、ワースの表記は、句読点で句切られているし、あえて手書きのように表現されている。

装丁の金の箔押しの文字でもそのようになっているのだから、これはきっと、著者の意図するところなのだろう。



その場合、このジョーンズワースには、何かメッセージのようなものが隠されているのではないだろうか。


そう考えたサラは、父から、昔の本にはそのようにして、沢山の意味が隠されていたのだと教えて貰い、不思議な昂揚感に胸がいっぱいになった。



(文章としての意味はなさないけれど、…………この文字だけで考えるのなら、ジョーンズは切望、或いは何かをしたくて堪らないという意味にもなる。ワースは、財産や、価値がある、もしくはそれに値するという意味もあるから、……………)



なお、それは意図したものには当てはまらないかもしれないが、ジョーンズワートという植物もある。


聖ヨハネの草とも呼ばれ、強い魔力を宿すと言われる植物だ。

その花は、災いを退け、呪いなどを含む病を治す魔力があると信じられ、小さな黄色い花が咲く。

ジョーンズワースという家名を聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるのは、聖ヨハネの日の前夜に集めたとされる、薬草のジョーンズワートのことだろう。



(そのどちらの意味をも、込めてあるということはあるのかしら……………)



『サラ、残された伝承や書物にはね、幾重にも真実が塗り重ねられていることがあるんだ。人々の記憶に残る短い文章や物語、時には土地や建物の名称にも。僕のいたところの魔術の作法では、幾重にも意味を持たせることで、魔術の強度を上げるという術式もある。…………そうだね、橋の名前を付けるときに、繋ぐものという意味合いの言葉の響きを変えて、崩れないという意味も含ませると、その橋は水害でも崩れない魔術に守られる。逆に言えば、うっかり厄介な意味を持たせてしまうと、酷い目に遭ったりすることもあるかな……………』



そう教えてくれたのは満月の夜のダーシャで、彼はその時、国境の町へ繋がる橋を、サラと一緒に地図の上から探していたのだった。



『……………僕にはこちら側の言葉の意味が、まだそこまで多く理解出来ていないものも多いんだ。何かそういうものはあるかい?』

『………………ここはどうかしら、水浸し湿地』

『……………うーん、霧が立ち込めるからかな?』

『………………ほこり橋はどう?』

『ほこり……………?ええと、戸棚の下なんかに溜まってる、あれかな?』

『ええ。この辺りの土地にはね、古い家に昔からあったほこりが、妖精になるという童話があるのよ。貧しい家の子供達が、ほこりの妖精の助けを借りて王子様と仲良しになって、お城に住むようになるの』

『……………僕のいたところにも、ほこりから生まれる妖精はいたけれど、かなり悪い奴だったなぁ………。少なくとも、子供達を助けるような生き物ではなかった筈だ……………。これが文化の違いか……………』



ダーシャは、そもそもほこりを長年放置するのもどうだろうと、母親のような目をして唸っていたが、そんな不服そうなダーシャはさておき、サラは、ほこり橋に向ける推理を続ける。



『だからね、ほこり橋だなんて名前だけれど、古いものが良きものになるようにと、わざとそういう名前を付けることもあるみたい。前に叔母様が、ほこり扉の話をしてくれたもの』

『絶対にくぐりたくない名前だね……………』

『裕福な商人のお家の、地下室の扉の名前だったんですって。古い地下室に悪霊が入り込まないようにつけられた名前だと言われていたんだけれど、実は、不衛生な部屋だと思わせて、役人や王様から大量のお酒や小麦を隠していたそうなの』

『………………そういう使われ方が一般的なら、秘密があるという意味合いにも取れる?』

『ええ。私は、良い魔法がかかりますようにという意味しか知らなかったけれど、何かを隠すための目隠しの名前でもあるみたい。それに霧という言葉は、ほこりという意味に解釈することもあるでしょう……………?』

『サラ、最後のだよ!それを最初に聞きたかったな!』

『まぁ、ダーシャは知らなかったのね?』



そうして、他にも幾つかの土地や橋が絞り込まれ、サラは、ダーシャが教えてくれた方法で、何度も地図と辞書を並べて読み込んだ。



元々、記された文字以上のことを読み取る作業は苦手ではない。


何しろサラは、譜面や歌詞から、作曲家達が残した真意を暴き立て表現してみせる、音楽家の家に生まれている。

小さな頃から、この曲にはこのような解釈があり、実際の時代背景になぞらえると、実はこの歌詞はこのようなことを表現していたのだというような解釈本を沢山読んできた。



そんな楽曲の紐解き方に似ているダーシャの地図の読み方は、魔術というものに慣れ親しんだ向こう側のお作法なのだという。



(だから、あの著者名にその手法を当てはめてみるならば……………)



そこに浮かび上がるメッセージは、“切望するに値する”、或いは、“災いを退ける魔力は、望むに値する”という意味にならないだろうか。


そこまで意味を探してしまうと考え過ぎかもしれないが、せめて、“願いは財産である”というような意味を含むのであれば、この絵本に残されたのは、希望なのだとサラは思う。




(アーサーなら、著者がどこのどんな人なのかを調べる伝手もあるかもしれない。それにダーシャなら、この絵を見て、何か向こう側のものが隠されていないか、調べられるかもしれない……………!)




霧雨は徐々に本格的な雨模様に変わり、いつの間にか、窓硝子を雨の筋が流れていた。


立派な装丁の絵本を手に取って胸に抱き締め、サラはもう一度だけ、庭の方を眺める。


せめて雨が上がってサラがあのガゼボに座っていれば、アーサーも、気付いて声をかけにきてくれるかもしれない。



(………………でも、傘をさしていけば、向こうのお家の窓から、アーサーにも傘の色が見えるかもしれないわ………………)




その日のサラは、とても焦っていたのだと思う。



既にアーサーの父親の葬儀からは何日かが経過しており、それだけの日々を、アーサーが何の助けもなく一人で苦しんでいるのだと思うと、秘密を作ってしまっているサラは、いてもたってもいられなかった。


であれば、家を訪ねて話をすれば良かったのだろうが、お悔やみを言いに行った日の無力感がちりちりと焼け残っており、まだ子供のサラが、こんな時期に無遠慮に訪ねてゆくことへの罪悪感からそれも出来なかったのだ。




「ベサニー、少しだけお庭に出ているわ。この雨で、お姉さまの薔薇が萎れてしまわないか、…………とても心配なの」



庭に続く硝子戸のところに行くと、サラは、お茶でも飲みますかと声をかけてくれたベサニーに、そう伝えた。


心配そうな目をして、あまり長く外にいちゃいけませんよと言ってくれたベサニーには、その理由の後ろに、アーサーに会いたいというサラの真意が見えてしまったのかもしれない。



雨には濡れないようにして、長くならない内に戻ると約束をして、鮮やかな水色の傘をさした。



しかし、一時間程、雨の中で庭をうろうろしていても、アーサーに会うことは出来ず、それどころかサラは、その日の夕方からすっかり風邪をひいて体調を崩してしまった。



父には、自分がすっかり時間を忘れて無茶をしたのだと伝えられたが、あの時に止めておけばお嬢さんが風邪をひいたりはしなかったのにと、責任を感じたベサニーは、熱心に看病してくれたようだ。


ようだと言うのは、その間の記憶がとても朧げになっているからだった。


呪われたアシュレイ家の子供とは言え、病気ではあまり体を壊してこなかったサラにとって、高熱の出る風邪というものはとても珍しかった。

慣れない高熱にすっかり弱ってしまい、熱が引くまではずっと意識が朦朧としていたようだ。




「………………朝になってる」




目が覚めると、いつの間にか雨は上がり、空は綺麗に晴れていた。



不思議な夢を見たような気がして、サラはそっと自分の頬に触れる。



夢の中ではアーサーに会えたのだが、そのアーサーはとても悲しい目をしていて、遠くに行くことになったんだと言って、サラの頬に口付けを残していなくなってしまうのだ。



部屋にある花瓶には、素晴らしい白薔薇の花束が飾られており、庭にはない品種の薔薇であるので、父が買ってきてくれたのだろうかと首を傾げながら階下に下りてゆけば、朝食を食べながら新聞を読んでいた父が、驚いたように顔を上げる。



「…………サラ、熱が下がったか!」

「ええ、お父様。心配をかけてご免なさい。もう二度と、風邪を甘くみたりしないようにする……………」

「まったくだ。とても心配したぞ。歌い手になりたいなら、喉も大事にしなければ」

「……………ふぁい」



熱の影響か、ぎしぎしと軋む腕で顔を洗い、寝間着の上にはきちんとガウンを羽織っていた。


熱が下がったようだと父に伝えることを優先してしまったが、後で、ベサニーかノンナに手伝って貰って、体を拭くか、お風呂に入るかしよう。




「それとお父様、綺麗な薔薇を有難う」

「………………サラ、それはアーサーからだ。出立の挨拶の時に、お前を見舞ってくれたんだよ」

「アーサーが、私のお部屋に来たの……………?」



熱を出してうんうん唸っているところを見られてしまったのかと目元を染めてから、サラは、父の言葉の不穏な響きに瞳を揺らす。



「………………お父様、出立の挨拶って……………?」

「ジョーンズワース夫人が、心労で倒れてしまったようでね。………ああ、大事はない。だが、その一件もあって、ジョーンズワース家の人達は、暫く、親族の別荘のある国で夫人の療養をすることになったそうだ。今回の事故では、同乗していた有名な議員も亡くなっているからな。屋敷の周りに記者たちが押しかけていたので、そのような心無い者達から隠れて心を休める意味もあるのだろう…………」

「………………外国なの……………?」

「………………ああ。アーサーには、私から、サラに手紙を書いてくれるように頼んでおいたよ。薔薇の花瓶の横にある、小さな箱を見たかい?友達になってくれたサラへの、感謝の贈り物だそうだ」



あまりのことに、サラは息が止まりそうになる。



目を瞠ったまま力なく首を振り、よろよろと食卓の椅子に向かうと、くしゃりとそこに座り込んだ。



「…………ぇっく」


涙が溢れてしまい、めそめそと項垂れたサラの背中を、父がそっと撫でてくれる。

私も残念だよと、静かに呟いた。




「サラ、……………それでもどうか、彼等の気持ちを分ってあげなさい。あの家族は、きっとこれから、時間をかけて身内の死を受け止め、その不在を嘆く辛い日々が続くだろう。それを和らげる為の転地なのだから、置いていかれてしまったと、恨んではいけないよ」

「………………恨んだりしないわ。…………でも、やっとアーサーの力になれると思ったのに……………」




そう呟くと、自分の言葉にまた打ちのめされてしまい、サラは、夏の終わりの木漏れ日が差し込む食堂で、さめざめと泣いたのだった。














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