ep.33 波にゆられて
朝の海は、霧に包まれていた。
潮の匂いが、いつもより濃い。
火の輪のそばでは、ぽぷらんがしっぽで灰をならし、
孝平が湯を沸かしていた。
「……なんか、波の音が違うね」
咲姫が、鍛冶場の屋根から海を見下ろしてつぶやいた。
「風向きが変わったのかも」
リリアーナが、紙の地図に目を落としながら答える。
「昨日までより、音が近い。……潮が寄ってきてるのかな」
そのときだった。
果林が、浜辺から駆けてきた。
息を切らしながら、声を張る。
「……船! 海に、小舟が!」
火の輪の空気が、ぴんと張りつめた。
孝平たちは顔を見合わせ、火を囲んだまましばし動けずにいた。
霧の向こうに、ゆっくりと近づいてくる影。
帆もなく、ただ波にゆられていた。
「……誰か、乗ってる」
ぽぷらんが、しっぽで火をなぞった。
孝平は、湯を火のそばに置いたまま、立ち上がった。
「行こう。迎えに行こう」
*
舟は、波に押されるようにして、浜辺にたどり着いた。
帆は裂け、舵も折れている。
それでも、舟はまるで“ここを目指していた”かのように、
火の輪の島へと流れ着いた。
舟の中には、十人ほどの人影があった。
年配の職人風の男、幼い姉弟、やせた母親、荷を抱えた若者たち。
皆、疲れきった顔で、しかし目だけはしっかりと開いていた。
一人の女性が、ふらりと立ち上がった。
髪は潮風に乱れ、服はほつれていたが、背筋はまっすぐだった。
「……ここは、“エルシンポリア”ですか?」
孝平は、少しだけ驚いた顔をしたあと、うなずいた。
「……はい。そう呼ぶことに、昨日、決めたばかりです」
女性は、ほっと息をついた。
その目に、かすかな涙がにじんでいた。
「……火の輪の噂を、ずっと前に聞いたんです。
名前のある場所なら、帰れるかもしれないって……」
ぽぷらんが、しっぽで砂をなぞった。
「風に乗って、届いたんだね。火の輪の名前が」
咲姫が、舟の縁に手をかけながらつぶやく。
「……名前をつけたから、風が返事をくれたんですね」
孝平は、舟の中の子どもに手を差し伸べた。
「ようこそ。ここは、火の輪の村――エルシンポリアです」
*
午後、火の輪の看板の前に、舟の人々が並んでいた。
焼きごてで刻まれた『エルシンポリア』の文字を、誰もがじっと見つめている。
果林が、腕を組んでぽつりと言った。
「……素材、足りるかな。水も、干し芋も、そんなに余裕ないよ」
瑛里華が、静かにうなずいた。
「でも、分ければいい。火の輪は、そうしてきたじゃない」
リリアーナが、地図の余白に新しい線を描き足す。
「小屋をあと二つ、建てられる場所がある。
畑も、少し広げれば……なんとかなると思う」
アリシアが、にやりと笑った。
「“エルシンポリア産”の素材が増えるってことね。
旅人が来たら、もっとにぎやかになるかも」
孝平は、看板の前に立ち、舟の人々を見渡した。
「ここは、まだ“村”って呼ぶには早いかもしれない。
でも、名前があるから、迎えられる。
“ようこそ”って、言える場所になったんだと思う」
女性が、そっと頭を下げた。
「……ありがとうございます。
私たち、もう“どこにも帰れない”と思っていました。
でも、ここに火があるなら、また暮らせる気がします」
ぽぷらんが、しっぽで火を囲んだ。
「火も、うれしそうだよ。
“ここが、エルシンポリア”って、ちゃんと伝わったみたい」
火が、ぱちりと音を立てた。
その光が、看板の文字をやさしく照らしていた。
名前をつけた翌日、風が変わりました。
火の輪に届いたのは、魔法でも冒険でもなく、
ただ「暮らしたい」と願う人たちの、小さな舟でした。
彼らがどこから来たのか、まだ詳しくはわかりません。
でも、火のそばで眠る姿を見ていると、
それだけで、もう十分な気がしています。
火の輪はまだ小さく、素材も限られています。
それでも、分け合うこと、迎えること。
それが“エルシンポリア”の火のあり方なのかもしれません。
次回は、舟に乗っていた人々の中から、
ひとりの職人に焦点を当てて描いてみようと思います。
火の輪に、新しい手が加わることで、
暮らしがどう変わっていくのか。
それでは、また火のそばで。




