ep.12 名もなく、声もなく
夜。 火のそばに、器がふたつ並んでいる。 ひとつには湯、もうひとつには干し実。
孝平は、薪をくべながら火を見つめていた。 風はなく、虫の音も遠い。 ただ、火の音だけが、ぱちり、ぱちりと響いている。
そのとき―― 草の音が、ふわりと近づいてきた。
孝平は顔を上げる。 火の向こう、草の間に、白灰色の影が立っていた。
うさぎ。 けれど、ただの野生動物には見えなかった。
片耳が少し折れていて、 黒い目が、まっすぐこちらを見ている。 そのまなざしは、まるで“人”のようだった。
孝平は、声を出さなかった。 ただ、器の干し実をそっと火のそばに寄せた。
うさぎは、しばらく動かなかった。 けれど、やがて一歩、また一歩と近づき―― 器のそばまで来ると、干し実をひとつ、くわえた。
そして、またふわりと草の中へ消えていった。
孝平は、火を見つめたまま、 ぽつりとつぶやいた。
「……なんだったんだ、今の」
けれど、心のどこかで、 また来る気がした。
朝。 火の跡に、まだかすかに温もりが残っている。
孝平は、器を片づけようとして、ふと足を止めた。 火のそばに、何かが置かれていた。
小さな輪。 草の茎を編んで作られた、素朴な細工。 ところどころに、赤い実がひとつずつ結びつけられている。
「……これ、昨日の……?」
孝平は、そっとそれを手に取った。 草の香りが、ほんのりと指先に移る。
誰が、どうやって、いつ置いたのか。 それはわからない。 けれど、“ありがとう”という気配だけは、確かに伝わってきた。
孝平は、輪を火のそばの棚に飾った。 そして、ぽつりとつぶやく。
「……贈り物、か。じゃあ、こっちも返さないとな」
その日、孝平は干し実を少し多めに作った。 器を磨き、火のまわりを整える。
“また来るかもしれない誰か”のために。
夜。 昨日と同じように、器がふたつ。 干し実と湯が、火のそばに並んでいる。
孝平は、火を見つめながら待っていたわけではない。 けれど、どこかで“来るかもしれない”と思っていた。
草の音が、またふわりと近づく。 振り返ると、そこに―― 昨日と同じ、白灰色のうさぎ。
ぽぷらん。 孝平は、まだその名を知らない。 けれど、心の中で、そう呼びたくなる気配があった。
うさぎは、昨日よりも少しだけ近くに座った。 火の光が、やわらかく毛並みを照らす。
孝平は、器をそっと押し出す。 うさぎは、ためらいながらも近づき、 干し実をひとつ、くわえて静かに食べはじめた。
ふたりの間に、言葉はない。 けれど、火の音と、湯気の匂いと、 “ここにいていい”という空気が、そこにはあった。
孝平は、火を見つめながら、 ぽつりとつぶやいた。
「……名前、あるのか?」
うさぎは、顔を上げた。 けれど、何も言わず、ただじっと見つめていた。
そのまま、しばらくの時間が流れた。
火が、ぱちりと音を立てた。 うさぎは、そっと立ち上がる。 器のそばに、もうひとつの赤い実を残して。
孝平は、それを見送る。 草の間に、白灰色の影が消えていく。
「……また来いよ」
返事はない。 けれど、風がやさしく吹いた。
孝平は、器のそばに残された赤い実を手に取る。 それは、昨日の草の輪と同じ香りがした。
火のそばに腰を下ろし、 孝平は、ぽつりとつぶやいた。
「……ぽぷらん、って感じだな」
誰に向けた言葉でもない。 けれど、その名前は、 火のまわりに、そっと根を下ろした。
夜は静かに更けていく。 火のぬくもりと、名もなき気配だけが、そこにあった。
火のそばに、ふたつの器。 そこに現れたのは、白灰色のうさぎでした。
言葉はなく、名も知らず、 ただ干し実をひとつくわえて去っていく姿。
翌朝、草で編まれた輪と赤い実が残されていて、 孝平は、それを“贈り物”として受け取ります。
まだ名前は知らないけれど、 心の中で「ぽぷらん」と呼びたくなるような気配。
そんな、静かな“出会いのはじまり”を描きました。




