第四十五話 覇権のゆくえ
世上、大物崩れ(大敗のこと)と、人は言う。不意を打たれた織田勢は金ヶ崎を逐われ、迎え撃つ間もなく織田信長だけが単騎、命からがら落ち延びていった、と。だがこの絵図は決して、そのような単純なものではなかった。
このいくさの立役者だけが、知っている。今回の勝利はむしろ、信長の方にある。辛くもではあったが、織田信長はまさに周到に張り巡らされた破滅への術数を回避したのだ。
(恐らく最も今、ほぞを噛んでいるのは、六角承禎だろう)
と、立役者の一人である長政は苦笑する。織田信長と言う男を葬るため。そのただ一点のために、六角承禎は観音寺城だけではない、大名たる六角家をもなげうって挑んだのだ。
将軍義昭の要請を持って、信長を金ヶ崎へ動かし、その背後を突如、反旗を翻した浅井家に襲わせる。この絵図を完成させるのに、承禎は心血を注いだのだ。
信長の息の根を止める。そのたった一つの目的が未遂に終わった時点で、この極めて高度な謀略の意味も、灰塵に帰したに違いない。
(久政は今頃、どんな顔をしているだろう)
承禎に口説かれた久政こそいい面の皮だ。謀を操り、浅井家を裏切り者に仕立て上げ、大軍を向かわせたとて、結局、得る物など全く無かったではないか。
織田信長を倒す。
このことの、どれだけ至難なことか。長政の見るところ、信長はまるで何かに護られているかのようだ。
いや、もしかすればこの戦国を束ねる指導者としての武威が備わりつつあるのか。足利義昭はいぜん、信長を消したがっている。そして六角承禎や斎藤龍興も諦めないには、違いない。
だが、此度、これだけの謀略を以てしても、討ち取れなかった信長と言う存在を、見誤ることはいわば天に叛くことにも等しい、身の破滅を招く選択なのではないのか。
(考え直してほしいものだ)
久政にも、遠藤喜右衛門にも。まだ間に合ううちに、浅井家の行くべき道を思い直してほしい。お市が信長との架け橋を築いてあるうちに、方針を転換するべきなのだ。しかしそれも、家政を旧主流派に乗っ取られているうちは叶わぬ夢である。
(この長政、今は義兄上どのに向ける顔もない)
今は苦しくも、与えられた役を全うする立場に甘んじねばならない。その身の辛さは、誰にも漏らせない。
(だがいつかは、私が主権を取り戻す)
そのためには、強き当主を演じなくては、立ち行かない。当然、納得のいかぬ決断もしなくてはならないだろう。
(義兄上どのはその長政を、どうご覧あるのか…)
この謀反の首謀者は、後ろに隠れている。織田家と敵対する矢面に立つのは、どうしても当主の長政となろう。
(いつか、分かっていただける日が来る)
それまでは、何人にたりとも弱音は吐くまい。
(誰にどう、恨まれようとな…)
忸怩たる想いを噛み殺し、長政は悲愴な決意を固めた。
「くはあーーーっ…」
そして、今ごろのお市である。
すっかり脱け殻になっていた。
「お市さまっ、呆けている場合でござりまするか!」
「んー?」
火偸が話しかけても、上の空である。目線がちょこっとしか動いていない。
「お茶々さまが、また泣いてござるぞ。…お市さまが放っておくからです。埋火が嘆いておりましたぞ」
「で、あるかー…」
市の頭には、新たな情報が入らないらしい。明けても暮れても、考えるのはあの夜のことだ。
京へ落ちた兄、信長の無事を、小谷城で知らされたときは心底ほっとした。続報をもたらしたのは、誰あろう夫の長政である。
「織田どのは、浅ましくも身一つで逃げたと、口さがないことを言う人間も居るが、それは浅慮と言わざるを得ない」
長政は慰める風もなく、信長の戦略の確かさを誉めそやした。
「肩透かしを喰わされた方にも、見えぬ損害がある」
乾坤一擲の奇襲と言うものは、その一回きりが勝負なのだと言う。ましてや軍勢を集め、あらかじめ行動を示し合わせ、機を見て動いているのである。
一度失敗したからと言って、すぐ同じことをやれと言われてもおいそれと出来るものではない。それが軍勢の力学と言うものだ。
(つまり、兄上は勝ったのか…)
相手に、詰めの一手を打たせない勝ち方もある。長政が言いたいのは、そう言うことだったに違いない。今は、信長敗走に湧く巷間ではあろうとも。
「おっ、お市さまぁーっ!お市さまああっ、お助けをーっ!!」
あわただしく埋火がやってきた。火のついたように泣きわめく女児を持て余している。言うまでもなく、お市の長女、茶々であった。
「もうっ、限界ですうっ!お市さましか、どうにか出来ませんっ!」
「ん、分かったわ、そう騒ぐな。…こやつめは騒ぐと余計、泣きわめくだわ。ほれ、茶々。母であるぞ。いつまで泣いておるだわ」
お市がたんたんと茶々を抱き上げると、城中に響き渡るような声で泣きわめいていた茶々は、嘘のような勢いでみるみる大人しくなった。
「一体どんな細工をされておられるのですお市さま」
「素直に母親らしゅうなったと何故言えん火偸」
「どうして、お市さまの前ではこんなに大人しいのでしょうね…」
火偸も埋火も不思議でならないようだ。お市に顔もそっくりな茶々だが、とにかく癇癪が強く、一度泣き出すと手がつけられない小さな暴君なのである。
「別にいー、秘訣はないでや。お前たちが、わあわあ騒いでおるからこやつが、泣きわめくだわ。落ち着いた声で話せば、こやつも気が鎮まる」
「母上、おしっこ」
すっかり泣き止んだ茶々は、市の袖を引いた。
「ふむ、小用、であるか。ほれ、したいことが分かったぞ。厠へ連れていってやれ」
「承知しましたお市さま」
「…気を鎮める以外のことは、なされないのですな」
呆れたように火偸が諌めたが、これは市なりに理由があるらしい。
「当たり前だでや。でなくばあの娘は、いっつまで経っても城中の者たちに馴染めぬ。あの茶々めも、この市のようにいずれは奥として女房どもを率いる身なるぞ。…気に入らぬことがあるたび、わめきちらしておる者に務まるか」
「なんと、お市さま、子育てをそこまで考えておられたとは」
「ふんっ、はじめは、この市が何でもやってあげておったのだわ。じゃがそうしておるとなあ、いつどこへ居てもあやつに呼ばれる。自由な時間がないっ!もーーーーっ、うんざりなのだわっ!」
「やっぱりお市さまはお市さまでしたな…」
本当はあの我が儘な娘は、誰より母親の市にそっくりなのではないかと、火偸は思った。
それにしても、信長への裏切りにあれほど揺れた浅井家中であったが、城中は、こともなく、静まり返っている。長政が采配を振るったのか、織田家ゆかりのものたちと城方の女房たちの間でも目立った軋轢はなく、日一日が何事もなかったかのように過ぎ去っていく。
「強硬派たちは今、一体何を思っているのか…」
あれだけ長政に食って掛かってきた連中も、何も動きを見せない。ことによっては、京都で身を案じている信長と一戦辞さないと言う強硬論も出てきておかしくないとは思うのだが。
(またいつ、何が起きるか分からぬな)
そう、お市が身構えてきた矢先である。長政からお市は唐突に告げられた。
「お市、言いにくいことだが牢に入ってもらいたい」
「へっ?…えっ、ろっ!牢!?」
お市夫婦の平穏な日常も、どうやら終わりを告げようとしていたようだ。




