第四十四話 乱世の別れ
あれほどに、会って話したい。
そう思っていた兄だった。
しかし、いざ目の当たりにすると、何か言葉らしい言葉が出るわけではない。何を話すべきかなど、まず吹っ飛んでしまう。
(やっぱまぶしいでや、兄上は…!)
しばらく会わないでいると、余計判るものだ。織田信長と言う英雄の巨大さが。美濃の斎藤を追って岐阜を造り上げたあとは、六万の兵を従え、京都へ凱旋し。天下随一の武力を持つ大名として、一躍京都政界の真っ只中へ躍り出た信長は、市の憧れる信長であり続けているのだ。
「なんだ、呆けたか市よ」
さっきから一言も発しない市に、信長は目を丸くして尋ねた。
「まさか今さら、怖い目を見たなどと、申すみゃあな?」
「そっ、そんなことにゃあで!」
と、あわてて市は言い募ってからようやく、我に返った。
「…あっ、兄上…伝えたきことがあって…!その、まずはっ…申し訳ありませぬ…!」
市は深々と頭を垂れた。
ここにいない夫のために、謝っている。そのつもりだった。長政は信長の盟友としての役目を結果的に、果たせなかったのだから。
「浅井が旗色を変えたは、すでに狼煙にて伝え聞き及んでいるでや」
そう言われて、はっ、と市は目を見張った。ちょうど渾身の策の両端を紐で結んだ小豆袋を取り出して、信長に渡そうとしていたからだ。
「なんだわ、それは」
「兄上への土産と言うかっ!そのっ…これはなんでも…ありませぬわえっ!」
「土産ならなぜ隠すだわ。さっさと寄越さぬか」
信長は市から、その小豆袋を取り上げた。
「なんだこれは。珍妙な小豆袋だわ…!」
「袋の中にある…その小豆は織田勢にござりますればっ…!」
市は自分で話していて、声を詰まらせた。決まり悪いのである。そもそも、こう言う絵解きは、受け取った人間こそがするものなのだ。
「両端が結んであるだわ…ほほう、さしずめ我らが袋の鼠とでも申したきか!」
「ごっ、ご名答…」
信長は鋭い。だがここで気づいては欲しくなかった。
「はははっ、やはりか!おのしにしては中々機転の利きたる土産物だわ!」
「くっ…」
なんか恥ずかしかった。どうも、ほめられている気がしないからだ。しかし、信長は本心から嬉しかったらしい。戦塵にまみれた手で、市の頭を撫でぼそりとこう言った。
「ほんによう来た。…お市よ、もしお前が来なんだら、浅井が裏切り、我が目前に兵が迫ろうとも、到底、信じられぬところであっただわ」
「兄上…!」
市は言葉もなかった。今のが、真から口にした信長の心の音だろう。
「家中をまとめえなんだこと、夫の長政に代わって兄上にはお詫びをっ…!承禎どもめが策略とは言え、兄上とこのような形になるとは夢にも思わず…」
「うつけもの!」
信長は、ぴしゃりと市を叱りつけた。
「お市、お前からそーんなしゃっちょこばった口を利かれると、背筋が痒うなるでかんわッ!」
「でっ、ですが兄上っ」
信長はにべもなく、首をふった。これ以上、この妹と語るべき話ではないと思ったのだろう。まずその話を突き詰めれば、必ず長政にその責めは行く。
とにかく今は、市がその身を挺して、長政の目代として浅井勢の裏切りを報せてくれた、そのことにだけ感謝したい信長なのだった。
やがて、敗走する龍興たちを見失ったのか、帰蝶が手勢を連れて戻ってきた。
「おやかたさま…無事で何よりです」
「…よう報せてくれた」
信長は帰蝶の労をねぎらうと、市の身柄を引き渡した。
「頃は良し。二人で小谷へ帰るでや」
「しかし、おやかたさま、京までそれで落ちるおつもりで…?」
帰蝶がさすがに心配になったのか、尋ねにくそうに尋ねた。
後から少しずつ馬廻りの小姓たちが追い付いてくるらしいが信長は、ほとんど単騎なのである。
「問題はにゃあで、藤吉郎めらを殿軍に残してきた」
と、にべもなく信長は言う。
「あっあの猿めを殿軍にっ!?」
市はすっとんきょうな声を上げた。
「藤吉郎どのは大丈夫なのですか?」
「分からぬ。…だが、殿軍は死んでもやりおおせよう。あやつはそれだけの器量はある男だでや」
(あの藤吉郎が…!)
恐らくそれは、決死の任務になるだろう。藤吉郎はただの台所番だった男だ。そんな男が今、屈強な浅井勢の猛攻を引き受けているのかと思うと、さすがの市も息を飲まざるを得なかった。
「それで、おやかたさまは今宵はどこへ落ちられるのです?」
「朽木谷よ」
と、信長は言った。
「古くからの大名がそこへ住んでおる。この松永めの顔見知りよ。まずはそこへ、宿を取ることにするだわ」
「松永…どのの顔見知りですと?」
心配そうに、帰蝶は松永弾正の方を見た。その古強者こそ、裏切り抜け駆け何でもやってのけてきた悪党なのだ。
「ふん、今さら下らぬことを言うでにゃあわ。そもそもあの松永爺はのう、この信長が面白いゆえ連れてきたのだわ。この期に及んで恐れ疑って、如何するでや。裏切られたらばこの信長の器量はそこまでのこと」
きっぱりと、言い切って信長は馬首を翻した。
「さて時がないゆえ、行くでかんわ。二人とも、達者でおるだわ。いずれまた、この信長の朗報を聞くであろうがや」
信長は敗走する。
それは思いもかけぬまさに大敗であったはずだ。『金ヶ崎崩れ』として歴史に残るほどの。
しかし信長は敗軍の将ではなかった。敗れて逃げるのではないのだ。今宵、市の目に信長の駆けていく馬上姿はむしろ、眩しくすら見えたのであった。




