第四十二話 蛇は玉を呑む
戦国最速の情報伝達術とは何か。
それは、狼煙である。
狼の糞を混ぜて作ると言うこの発煙弾は、単純に居場所を知らせるためだけではなく、上げ方によって複雑な情報伝達を遠距離に迅速に伝えることを可能にした。
狼煙による伝達網を、最も重要視したのは、甲斐の虎、武田信玄である。戦国随一の策士として挙げられるこの知将は、領地の隅々にまで合図を挙げるための、いわゆる狼煙台を置き、それらを全て甲府の主館、躑躅ヶ崎館につながる連絡網として、整備していた。
信玄の手にかかれば、どのような領国内の侵入者もほんの一刻足らずのうちに、その掌中に捕えるように、監視下に置いたと言われている。
無論、情報伝達の速さも範囲も、早馬などの比ではない。
「まさか…あのお市までもが囮か…!?」
帰蝶は、唇を綻ばせて頷いた。これには、さすがの龍興も、顔色を喪うしかなかった。監視下の小谷城でお市と組んだ極秘作戦それ自体が、囮の偽装工作だったとでも言うのか。
「連絡網はすでに整えてあった。…あなたたちが地下で浅井の裏切りを画策していたことは、せんから見通しがついていたわけだし、いつでも織田家本隊に連絡がつくようにしておくのは当然の処置」
ただ、と帰蝶は人差し指を立て、そっと自らの唇に当てた。
「狼煙は空に上がる。…この策を成功させるには、あなたたちの目を、地上へ向けておく必要があった。そこで最も目立つ囮に、狼煙が上がる道から遠ざけてもらったと言うわけよ」
不敵。
と言うべきか、それとも不遜と言うべきか。
龍興は、このとき確かに敗北感を覚えた。認めたくはない。断じて口では認める気はないが、それは身を切られるような屈辱ですらあった。
天下に『国盗り』の名を以て響く戦国随一の策士、斎藤道三の血を分けたものとして、策略で上回られることほどの、屈辱はないのだ。
しかるにここは、あらゆる点で龍興の策を、帰蝶のそれが上回ったのだ。策略における視野の巨大さ、準備の周到さ、作戦展開力、はたまた小手先の術数。そのすべてに置いて、帰蝶は龍興を手玉に取ったと言ってよかった。
こんなことをされて、これで収まるはずがない。殺しても飽き足らない。せめて今味わっているこの屈辱を、この女蝮にも、味わあせてから、殺さねば気が済まない。
「おのれ…」
龍興は、下唇を噛みきった。血の滴る唇のあわいから、こぼれでた声は憎悪に震えていた。
「おめえだけは、ただ殺すだけじゃ済まさねえッ!今ッ、おれが味わっている屈辱を何倍にも返してから殺してやるぜッ!」
「ふふふっ、それは光栄ね」
帰蝶は、身悶えしそうなほどに悦んで嗤った。不倶戴天の男からの怨嗟の声、それが何より聞きたかったのだと言う風に。
「でも、生き残れるかしら。…もう、妾の仕事は終わり。後の楽しみは、ただ一つ。…お前を骨まで噛み尽くしてくれましょう」
額から頬に垂れたおのれの血を、帰蝶は手で拭うと、温度を持たないその舌で舐めずった。
残忍非道でも名をなした道三の血を最も受け継いだこの女の血は、芯まで冷えきっているようだ。
「殺す。…もはや我慢がならぬわ」
「なんや…狼煙!?」
空に上がる白煙を見て、一瞬で顔色を喪ったものがもう一人いる。
言うまでもなく、お市を足止めに現れた六角承禎である。
狼煙が上がった方角を見て、承禎は直感的に、帰蝶の策動に勘づいたのだった。まんまと無駄な足止めに現れた道化になりつつある己れのいまいましさを、承禎は今さら呪いたくなったが、龍興より上手なのはそれを、顔には出さなかったことである。
「狼煙!?なーんも見えんでやッ!さてはまた、えー加減なことを言うておるなあっ!?」
そして肝心の市は、見逃したようである。
(ま、無理もない)
承禎の目は、忍びの目である。夕暮れの雲に紛れかけている、山際の彼方に立ち上る細長い煙の筋をそれと認めるのには、それなりの才能と訓練がいる。
(だが、どうするか…)
と、そこで承禎は考えた。
まず、この狼煙が帰蝶の差し金だとして、それを正直にお市に伝えてよいものか。後方で戦っている龍興がどうしているのかは判らないが、この情報伝達戦でこちらが敗北したとなれば、早目に次点の手を打っておかねば、最悪、戦場で孤立すると言う憂き目を見ないとも限らない。
(さらうか)
承禎は、ふと思いついた。信長の妹である市を拐かしておけば、帰蝶にしてやられたとしても挽回する策は十分に思いつける。
「…阿呆かッ!よう、みい!あれが見えんのかい!?」
と、承禎は声を張り上げた。
「信長めが討ち取られたと言う合図じゃい!わしが仕込んどいたんや!」
「はっ!そんなわけなかろうも!第一なーも見えんだわ!」
「あっちの空や!若いくせに、ジジイのわしに見えてみえんのんかい!?」
「ほざけッ!見てやるだわッ!どっちの空か…くっ!」
市が身を乗り出したときだ。狙いを澄ました承禎の当て身が鳩尾に入り、さすがの市も呆気なく、気絶した。
「ふう、これでよし。…度胸と威勢はええが、まあ女は女やな」
腕の中に市を抱えた承禎は、馬を引き寄せることにした。これで逃亡用の乗馬も出来るし、一石二鳥だ。
「さてこれで、あの蝮の娘にどないしてほえ面掻かせたるか…」
頬をひきつらせながら、承禎が帰蝶への呪詛を口にしたときだ。
彼方から凄まじい馬蹄の轟きが、肉薄してきたのだった。
(なんや!?)
承禎は思わず、市を取り落とした。ただならぬ気配を、もう少し早く察知すれば良かったのだが、そこまで気が回らなかった。今は一刻も早く、市を人質に去ろうとしていたのである。
だがその目論見も一瞬で、無に帰すことになる。
振り向いた承禎と、馬蹄の主とが目を合わせてしまった。早く隠れるべきだったと、承禎は思った。だが遅い。その騎手は走り込む勢いのそのまま、手にした手槍を繰り出してきたからだ。
「退きゃあ不逞者めらッ!」
なんとそれは、戦場さながらの甲冑に身を固めた信長当人であったのだ。




