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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第四十話 諦めの使者

「承禎っ…!」

 蹴散らす気でいた。相手が誰であろうと構わない。しかもそれが、この陰謀の立役者だと言うなら、尚更だ。

(退けとは言わぬだわっ!)

 このまま、ぶっちぎる。

 ここから信長のいるところまで。どれほど距離があろうと、そんなことは関係ない。

 ひとたび駆けると決めたなら、この命運(いのち)が尽きるまで走るのだ。

(それが織田信長(あに)と同じ血を受けた者の生きる道だでやっ!)


 馬首に取りついて、一気に駆けすぎた。


 見る間に、承禎の老躯が視界から消え去っていく。蹴られた音も悲鳴もしなかった。だから、上手く避けたのかも知れない。だがそんなことはもう、どうでもよかった。信長のいる若狭は、北の果ての海際なのだ。たとえ一昼夜駆けたとしてもまだなお、走り続けなければ。


(前後を顧みてる(いとま)はないのだわッ!)


 無我夢中で、馬を逸らせていると、頭の後ろで声がした。

「…止まれゆうたやろ」

 承禎の声である。市は眉をひそめた。あの男なら遥か後ろへ取り残してきたはずではないか。

「そないに急いでも、何にもならへんぞ。…それになあ、そっちは北やないで」

「そっ!それを早く言いやあ!」

 馬が棹立ちになった。市は手綱を引いて、馬を留めた。

 で、辺りを見回したが、承禎らしき人影はどこにも見当たらない。

(忍びが使う幻戯(めくらまし)かや…?)

 狐狸変幻ともたとえられる忍びの技は、奇っ怪である。無視したはずだったが市は知らぬ間に術中にかけられていたのかも知れなかった。

「ここや、ここ!お()はんの足元や!馬に乗っとるから見えへんのや」

 言われて市が馬の足元を見たとたん、そこからむくむくと、承禎の頭巾をした坊主頭が浮かび上がってきた。それはみるみる、馬に乗ったお市よりも高くそびえ、やがて見上げるように高い巨人になった。


「化け物ッ!」

「誰が化け物や」


 承禎のその呆れ声が、幻術の解ける合図だったのだろう。


 気づくと、市は夕焼け空を見上げていた。仰向けに寝そべっている。その顔を、承禎がのぞきこんでいた。


「どや気ィ、ついたか」

「おのれッ!」


 何だかよく分からないが、いっぱい喰わされたことに気づいた市は、承禎に飛びかかった。


「おのれの素ッ首、兄上への土産にしてくれるわッ!」

「おいおい、威勢がええのはいいが、ほんまに金ヶ崎まで行くつもりかい!?」

 市の手をするりとかわして、承禎は、馬の(くち)を捕らえた。

「駆けるなら、替え馬でも仕立てんと、馬がくたばるわな。夢中になると周りが見えておらんのは、兄の信長譲りかいのう」

「いちいち腹立つッ!」

 顔を真っ赤にする市を、承禎は楽しそうに眺めた。

「いちいち挑発がきくな」

「ええから馬を返せッ!ええ加減にするだわッ!」

「ほれほれ分かった、馬は返す。そないに顔真っ赤にしたら、美人が台無しやぞ」

 承禎はあっさりと、市に手綱を返した。意外だった。この分ではてっきりとことん、邪魔をしてくるのだと思っていた。

(なんなのだ…どおゆうつもりだでやこの男…)

 市は目を細めて、まじまじと目の前の老体を睨み付けたが、もちろんそんなことで承禎の本心が見透かせるわけではない。

「なぜ、馬を返す?」

「返せと言うたからや」

 実にあっけらかんと、承禎は言った。

「別に無理やり止めに来たんと違う。行くのは自由や。…だが、無謀や。まず、自分の身の安全を省みてみいと言いに来たのよ」

「身の…安全?」

 お市が首を傾げると、

「おいおい、初めて聞いた言葉のような顔をすな」

 と、承禎は、呆れた顔になった。

「兄貴の身の上より、か弱いおのれの身の上やろう。ここから若狭まではどうやっても山越えや。道中、追い剥ぎに野盗もおれば、野犬やら熊やらも出おる。お前が、信長めのもとへ首尾よくたどり着くのは、天地がひっくり返っても無理やな」

「ぐ…」

 市は一言も反論できなかった。勢いでここまで来たが、見て見ぬふりをして来ただけだ。ここへきて突然、巨大な壁が立ちはだかったように思えた。

「せやから、とっとと諦めえ」

 止めを刺すように、承禎は言った。

今生(この世)で最もあかん死に様は、無駄死にや」


「無駄と分かっていて、浅井の奥方を行かせたな」

 と、髭だらけの顔をくしゃくしゃにして嘲笑ったのは、斎藤龍興である。

「さすが蝮の娘よ、むごたらしい真似をするな」

「あなたごとき蝮のおまけに言われる筋合いはないわね」

 相対するは、帰蝶である。


 互いに、影働きの手勢を従えている。兵力はほぼ同数、だが数を恃む気はないらしい。二人は得意の槍で相手を仕留めるつもりだ。


「忍びの鍛練を受けたわけでもない。お市がごとき足弱(あしよわ) (女性のこと)に山越えはかなわねえはずだ」

 龍興の読みは鋭い。


 たとえ琵琶湖を渡ったにせよ、そこから信長のいる北の陸の果てまでは、武装した旅隊を引き連れても無事に渡れるかどうかと言う山道なのである。


「ははあ、さては寝返った長政の正室をそそのかして無駄死にさせる目論見か」

「浅はかな当て推量してると、(こちら)の程度が知れるわよ」

 帰蝶は、人差し指で自分のこめかみを突ついてみせた。


 得物は一間半(約二・七メートル)朱柄の素槍である。細身ではあるが手元でしなりの利く、使いやすそうな槍だ。


 対する龍興は、同じ長さの十字槍。

 素槍と比べると扱いは難しいが、左右に取りつけられた刃で袖がらみ、騎馬武者も引きずり倒して仕留めることが出来る戦国ならではの難癖のある槍である。


 この二人の間にはすでに、殺気しかない。他のすべてのことが、意識の外にあるようだ。


 因業深い、斎藤家を背負った二人の殺しあいが今、始まる。


「槍も道三譲りか味を見てやろう」

 挑発するように言うと、龍興は、腰を落とした。

「ここでその首、槍玉に上げてやるぜ」






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