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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第三十九話 死線の先へ

(…もう少し真面目に、炮術を習っときゃあ良かったかな)

 火縄銃の目当て(照準のこと)を覗く斎藤龍興は、舌打ちをした。さっき、使い番に化けた騎馬武者を射落としたが、何だか妙に手ごたえが軽すぎる気がした。


 まるで人形を載せてあったように、弾丸を喰らった甲冑武者はあっさりと吹き飛んだのだった。


(何かがおかしい)


 と、大木の上で辺りをうかがうと、ちょうど、その反対方向から、女二人を載せた舟が湖面へ出るではないか。


(やはり囮か)


 疑い深い龍興には一瞬にして、帰蝶のからくりがばれた。舟も速いが、早馬で北へ駆け抜け、上陸地点を突き止める方が速かったのである。


「お市どのっ、怯まず駆けなさいッ!」


 眼下で、帰蝶が叱咤する。その顔面に、撃ち込んでやりたいが、今は任された仕事が優先だ。


 龍興は、手早く次弾を装填する。駆け出そうとするお市めがけて、筒口を向けた。狙いは馬体である。馬さえ仕留めてしまえば、足留めの用はそれだけで足りる。


「まずは転べッ!」

 龍興が市を落馬させようと、馬の腹に狙いを定めたその時だ。


 凄まじい轟音が何発も炸裂した。

(何だ!?)

 龍興はまだ撃っていない。誰が先に撃ったのかと、思わず辺りを見回した。

 と、おびただしい白煙が、目の前いっぱいに立ち込めてきたのだ。

(煙幕…!)

 龍興は、歯噛みをした。これでは何も見えない。誰かは知らないが、痛烈な鉄炮封じである。


「お市さまっ!帰蝶さまっ!お聞こえ遊ばしまするかッ!?」

 声は紛れもなく、火偸だった。無事は喜ばしいが、市は不意に噴出した煙幕で落馬し損ねたところであった。

「火偸!?生きておったのか!?」

「撃たれたは、空蝉(うつせみ)にござるッ!」

 火偸の声は言った。


 さすがは、忍者である。伏せ鉄炮もあろうかと、火偸はまず、甲冑を着せた生き人形を馬の背に載せて走らせていたのだ。龍興が撃ったのは、その身代わりであった。道理で手応えがなかったわけである。


「おのれ下郎がッ!」

 龍興は、装填した弾をぶちこんだ。


 しかし標的は煙幕の中だ。放たれた焔は、ほんの刹那、一閃ほとばしると、淡くなって消えていくだけだった。


「聞いた声がしたわね」

 煙幕の中でも、耳を澄ませていたのは、帰蝶だ。常人離れした蝮の娘の感覚器は、わき上がる煙と砂ぼこりの雑音の中でも、龍興がやけくそになって放った銃声と呪詛の叫びが、はっきりと聞き分けられるようだった。

「声などしにゃあわッ!それより火偸、火偸はどこだわッ!」

 お市は音は聞き分けられないが、銃弾が飛来したのは分かった。物々しい風切り音と共に、市の乗馬のすぐ足元に強力な六匁玉が撃ち込まれたからだった。

「ここでござるッ!お市さまっ、とにかく声のする方向へ走りなされえッ!」

 火偸の声だけが木霊する。幸い、方向は分かる。とにかくそれを信じて馬体を逸らせるしか、今は方法はなさそうだ。

「火偸!どこだでや!我が馬へ添えッ!」

「…後で必ず追い付きまする!ここは、一騎駆けをばッ!このまま行けば、煙は晴れまするッ!」


 駆けろ。


 帰蝶も火偸も、お市に望んでいる。あくまで目的は、信長の元へ走ることなのである。なりふり構わず走らねば間に合わない。


 この状況を打破するのは武力より何よりも、信長顔負けのお市の馬術だけなのだ。


「頼みましたよお市どのッ!」

 帰蝶の叱咤がその背に浴びせられる。お市は先の見えぬ煙幕の向こうに、飛び込んでいくのを躊躇った自分が恥ずかしくなった。

(帰蝶さまも、火偸めも)

 命を懸けてこの場で戦ってくれるのは、お市が自ら行くと、決断したらかだ。

(たとい一歩でもこの市が怖じ気づいたなら)

 二人の思いは、一気に無になってしまう。

 そう思ったとき、すでに市は馬を駆けさせていた。続く銃声に怯まず、馬は影のようになって駆け抜け、みるみる煙幕を振り払っていく。


「ちッ!」

 と、歯噛みをしたのは龍興である。

 市と馬体はいぜん、発見できないが、馬蹄の轟きが際立って遠ざかっていると言うことは、龍興の手から功名が離れつつあると言うことである。

(口惜しいが、蝮女の相手をしている暇はないな)

 そう思ったら、さっさと自分は銃撃をやめ、素槍を抱いて馬にまたがった。

「右京太夫さまッ、どちらへ!?」

 手下どもが龍興に追いすがってくる。龍興はそれへ無造作に自分の銃を投げ渡した。

「お前ら、撃ち方やめるな。おれがまだ狙っているように、取り繕え」


 さて逃げるはお市、追うは龍興。


 しかし馬首にすがるお市は、追われていると言う意識はない。右へ左へ押し流れていく焦げ臭い煙の流れを切り裂いて、ただ一身に駆け続けていくだけだ。


(兄上ッ!)


 いつの間に辺りは風景になり、どこまでも飛び去っていく。やがて馬が首を振り始め、疲労があらわになってきた。市もまた深い息をつくと、ようやく周りを見回す余裕が出来た。


(ここは…どこだわ?)


 ところは山中の上り坂だ。もはや湖畔にいるとは思えない。なぜか驚くほど静まり返っていた。


 この頃、すでに浅井の軍勢が琵琶湖を進んでいるかと思われたが、鎧の小札が擦れる音や馬蹄の轟きと言ったものは聞こえていない。


 火偸はそのまま走れと言ったが、それは追手を振り切るためだ。本来、目的の場所へ行くにはこの方向で果たして良いのやら。市の心に戸惑いが兆したときである。


 間道にぽつり、と人が立っている。

 草色の頭巾に袖無し羽織、商家の旦那にも見えなくはない。だがその顔つきに、見覚えがある。市を走らせながら息を飲んだ。


 六角承禎である。


「止まれや、浅井の嫁御」


 承禎は言った。穏やかだが張りのある大声である。


「ここから信長のおるところまでは、えらい遠いで」


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