第三十九話 死線の先へ
(…もう少し真面目に、炮術を習っときゃあ良かったかな)
火縄銃の目当て(照準のこと)を覗く斎藤龍興は、舌打ちをした。さっき、使い番に化けた騎馬武者を射落としたが、何だか妙に手ごたえが軽すぎる気がした。
まるで人形を載せてあったように、弾丸を喰らった甲冑武者はあっさりと吹き飛んだのだった。
(何かがおかしい)
と、大木の上で辺りをうかがうと、ちょうど、その反対方向から、女二人を載せた舟が湖面へ出るではないか。
(やはり囮か)
疑い深い龍興には一瞬にして、帰蝶のからくりがばれた。舟も速いが、早馬で北へ駆け抜け、上陸地点を突き止める方が速かったのである。
「お市どのっ、怯まず駆けなさいッ!」
眼下で、帰蝶が叱咤する。その顔面に、撃ち込んでやりたいが、今は任された仕事が優先だ。
龍興は、手早く次弾を装填する。駆け出そうとするお市めがけて、筒口を向けた。狙いは馬体である。馬さえ仕留めてしまえば、足留めの用はそれだけで足りる。
「まずは転べッ!」
龍興が市を落馬させようと、馬の腹に狙いを定めたその時だ。
凄まじい轟音が何発も炸裂した。
(何だ!?)
龍興はまだ撃っていない。誰が先に撃ったのかと、思わず辺りを見回した。
と、おびただしい白煙が、目の前いっぱいに立ち込めてきたのだ。
(煙幕…!)
龍興は、歯噛みをした。これでは何も見えない。誰かは知らないが、痛烈な鉄炮封じである。
「お市さまっ!帰蝶さまっ!お聞こえ遊ばしまするかッ!?」
声は紛れもなく、火偸だった。無事は喜ばしいが、市は不意に噴出した煙幕で落馬し損ねたところであった。
「火偸!?生きておったのか!?」
「撃たれたは、空蝉にござるッ!」
火偸の声は言った。
さすがは、忍者である。伏せ鉄炮もあろうかと、火偸はまず、甲冑を着せた生き人形を馬の背に載せて走らせていたのだ。龍興が撃ったのは、その身代わりであった。道理で手応えがなかったわけである。
「おのれ下郎がッ!」
龍興は、装填した弾をぶちこんだ。
しかし標的は煙幕の中だ。放たれた焔は、ほんの刹那、一閃ほとばしると、淡くなって消えていくだけだった。
「聞いた声がしたわね」
煙幕の中でも、耳を澄ませていたのは、帰蝶だ。常人離れした蝮の娘の感覚器は、わき上がる煙と砂ぼこりの雑音の中でも、龍興がやけくそになって放った銃声と呪詛の叫びが、はっきりと聞き分けられるようだった。
「声などしにゃあわッ!それより火偸、火偸はどこだわッ!」
お市は音は聞き分けられないが、銃弾が飛来したのは分かった。物々しい風切り音と共に、市の乗馬のすぐ足元に強力な六匁玉が撃ち込まれたからだった。
「ここでござるッ!お市さまっ、とにかく声のする方向へ走りなされえッ!」
火偸の声だけが木霊する。幸い、方向は分かる。とにかくそれを信じて馬体を逸らせるしか、今は方法はなさそうだ。
「火偸!どこだでや!我が馬へ添えッ!」
「…後で必ず追い付きまする!ここは、一騎駆けをばッ!このまま行けば、煙は晴れまするッ!」
駆けろ。
帰蝶も火偸も、お市に望んでいる。あくまで目的は、信長の元へ走ることなのである。なりふり構わず走らねば間に合わない。
この状況を打破するのは武力より何よりも、信長顔負けのお市の馬術だけなのだ。
「頼みましたよお市どのッ!」
帰蝶の叱咤がその背に浴びせられる。お市は先の見えぬ煙幕の向こうに、飛び込んでいくのを躊躇った自分が恥ずかしくなった。
(帰蝶さまも、火偸めも)
命を懸けてこの場で戦ってくれるのは、お市が自ら行くと、決断したらかだ。
(たとい一歩でもこの市が怖じ気づいたなら)
二人の思いは、一気に無になってしまう。
そう思ったとき、すでに市は馬を駆けさせていた。続く銃声に怯まず、馬は影のようになって駆け抜け、みるみる煙幕を振り払っていく。
「ちッ!」
と、歯噛みをしたのは龍興である。
市と馬体はいぜん、発見できないが、馬蹄の轟きが際立って遠ざかっていると言うことは、龍興の手から功名が離れつつあると言うことである。
(口惜しいが、蝮女の相手をしている暇はないな)
そう思ったら、さっさと自分は銃撃をやめ、素槍を抱いて馬にまたがった。
「右京太夫さまッ、どちらへ!?」
手下どもが龍興に追いすがってくる。龍興はそれへ無造作に自分の銃を投げ渡した。
「お前ら、撃ち方やめるな。おれがまだ狙っているように、取り繕え」
さて逃げるはお市、追うは龍興。
しかし馬首にすがるお市は、追われていると言う意識はない。右へ左へ押し流れていく焦げ臭い煙の流れを切り裂いて、ただ一身に駆け続けていくだけだ。
(兄上ッ!)
いつの間に辺りは風景になり、どこまでも飛び去っていく。やがて馬が首を振り始め、疲労があらわになってきた。市もまた深い息をつくと、ようやく周りを見回す余裕が出来た。
(ここは…どこだわ?)
ところは山中の上り坂だ。もはや湖畔にいるとは思えない。なぜか驚くほど静まり返っていた。
この頃、すでに浅井の軍勢が琵琶湖を進んでいるかと思われたが、鎧の小札が擦れる音や馬蹄の轟きと言ったものは聞こえていない。
火偸はそのまま走れと言ったが、それは追手を振り切るためだ。本来、目的の場所へ行くにはこの方向で果たして良いのやら。市の心に戸惑いが兆したときである。
間道にぽつり、と人が立っている。
草色の頭巾に袖無し羽織、商家の旦那にも見えなくはない。だがその顔つきに、見覚えがある。市を走らせながら息を飲んだ。
六角承禎である。
「止まれや、浅井の嫁御」
承禎は言った。穏やかだが張りのある大声である。
「ここから信長のおるところまでは、えらい遠いで」




