第三十八話 不倶戴天の追手
火偸が撃たれた。
馬上から、転げ落ちた音がした。命中していれば、即死である。当たりどころがましでも、一人では動けまい。
「聞かなかったことになさい」
帰蝶は冷徹に言った。
「今は考えることがあるでしょう。…火偸も犠牲は承知です。先を急ぎなさい」
答える言葉もなく、市は唇を噛む。火偸は今まさしく、自分の代わりに犠牲になったのだ。
危険を冒して出れば、こうなることは分かっていた。でも、それでも心に残る衝撃と後悔は感じずにはいられない。
(わたしが出る、と言わねば、火偸は撃たれなかったで…)
だが、出なければ、信長は死ぬ。小谷に残してきた織田方の家来たちの命運も尽きる。
(立ち止まれば、払った犠牲が無駄になるでや)
市は一瞬で思い直した。決断する、と言うのは、こう言うことなのだ。信長が敢然と勝利を収めてきたのは、あまたの犠牲を振りきってきたからに違いない。少しでも躊躇したなら、その犠牲はすべて、無駄になるのだ。
(だから走れッ!今少しでも早くッ!)
お市は己れに強く言い聞かせた。
(ためらいはむしろ敵ッ!火偸のためにもここは走るだわッ!)
(…弱音は引っ込めたみたいね)
市の顔つきをみて、胸を撫で下ろしたのは帰蝶だ。ここから先は、ためらっている時間も振り返る余地もない。迷いそのものが敵なのである。
(こうなった以上、あなたを連れていかなくてはなんの意味もない)
お市自身の急報が、信長の命運を分けるだろう。浅井勢が追いついてから、信長の決断を待っては到底、間に合わないのだから。
当時の行軍速度は、通常時速五キロ、大急ぎに急いでその倍に達するか、と言うところだと言われる。つまり神速の進軍、などと言われても、実際にはそれほどの速さではない。
何しろ万を越える軍勢のほとんどは、徒歩なのである。この大行列を、渋滞なく移動させるだけでも、本来は一苦労なのだ。
そう考えると、追う浅井長政も追われる織田信長も、それぞれままならない乗り物を操縦しているのも同じなのだ。
市たちはここから琵琶湖のほぼ南北を縦断せねばならないが、浅井勢を追い越すこと自体はそれほど難しくはないはずだ。
だが問題は、その南北の距離をいかにして潰すかにある。浅井勢とかち合ってはもちろん、捕らえられてしまうし、と言って早馬を駆っても、火偸のように撃ち落とされてしまう。
「市らの馬はどこへ伏せてあるので、帰蝶さまッ!?」
藪の中を走りながら、市が不安げに訊く。しかし、帰蝶はにべもなく、首を振った。
「馬など、伏せてないわよお市どの」
「ええっ!?それならばどうやって、兄上がところへ行くので?」
首を傾げるお市のはるか前方を、帰蝶は指し示す。うっそうと繁る篠林の向こう、薄もやがかってみえるのは湖岸が近い証拠である。
「まさか舟!?」
そこに、川魚漁の舟に偽装した早舟が仕立てられていたのである。馬で行くとばかり思っていた市はさすがに息を呑んだ。
「何を驚いているの?ここで一番、速い乗り物を選んだだけよ」
古来から琵琶湖は、水運の湖である。中世すでにその経済活動の広さで名を成していた近江商人たちも、琵琶湖の水運で財を成したと言われる。
例えば京へ行く上で船便が最も迅速で、多くの荷を無駄なく運べる交通手段だったのである。
「どうかしたの、早く乗りなさいお市どの?」
ひらりと舟に飛び乗った帰蝶に対して、お市の足取りはおっかなびっくりである。
「ふっ、舟は船酔いするで苦手だわ…」
「やっと一皮剥けたと思ったら、この子は…」
さすがにいらっとしたのか帰蝶は、無理やりお市の手を引っぱりこんだ。
「尾張にも津島湊があったでしょう?」
「はっ、はい…そう言えば!そうだったわ…」
津島の舟祭りには出ても、船酔いがするので信長のように舟には乗らなかったお市だった。
舟ならば、浅井の軍勢を追い越すのはそう難しいことではない。さらに沖に出れば、広い湖面上には靄がかかり、陸上から発見される危険性は極端に少なくなる。
「これは、良い思いつきだわ…!」
「…あなたに誉められると、素直に喜べないわね」
帰蝶は言ったが、この策に抜かりはない。陸からすれば、この舟は白布の上のゴマの一粒程度にしか確認できず、例え鉄炮であろうとも、水上の市たちを狙撃するのは、至難の業である。
あっという間に浅井勢を追い越して、北へ市たちは無事、渡り終えた。
対岸ではすでに、帰蝶の手配した者たちが替え馬を用意して待ち受けている。
「ここは、賤ヶ岳か…!」
信長のいる若狭までは、休まず馬で駆ければ一昼夜である。
「あとっ、一息だわ…!」
市は、目を輝かせた。
ここからは、織田勢の陣中へ入る。間者を疑われぬためには、木瓜の黄色い旗印や使い番の装束など、事前の用意が頼りだ。
市たちは甲冑や馬印など、織田家の武者と判る格好をした。こうして今度は、味方の陣中を突破するのである。
「ここからは誰よりもお市どのを、全員で守るのよ」
岸辺で武装を整えながら、帰蝶は皆に呼び掛けた。
家紋の入った胴丸をつけた帰蝶も含め、市を護衛する人数は、合計で十名程度になった。いずれも腕に覚えのある帰蝶のお抱えの忍び者だ。
「金ヶ崎城を目指して行けば、必ず本陣には行き当たるでしょう」
それは、ここから北の陸の果てだ。道のりは実に長い。さらに時間の問題で、南の陸路は敵勢で塞がれることになる。この琵琶湖の船宿へ戻ってこれなければ一巻の終わりだが、ここへたどり着くのは、至難の業である。
「ちょうどよく、日も暮れてきましたね。夜駆けをしますよ」
落ちて行く陽を眺めながら、帰蝶は言った。慣れぬ道のりを、今度は徹夜の早駆けである。だがここまで来て否やは言っていられない。
「行くでやッ!」
市が号令をかけたその矢先であった。
夜の帳を破って銃声が響いた。
けたたましい風切音と共に闇の中から、まばゆい火箭が弾け、市の馬の足元に突き刺さった。
「ここまで、早馬で追ってきたようね…!」
棹だちになる馬を制しながら、帰蝶は長柄を構えた。
射線は鋭角に軌跡を描いた。と言うことは射手は、木の上にでも潜んでいると言うことだ。
「何者だでや!?とっとと出てこいッ!」
射手は、斎藤龍興である。返事は無論、しなかったが、木闇の中でほくそ笑んでいた。
「…はは、殺したいのが二人も引っ掛かりやがった」




