第三十七話 お市の桶狭間
「兄上に報せる?この小谷から…!そんなことが出来るわけが…」
言いかけた途端に市は、さっ、と顔色を変えた。
(いや、やるしかにゃあで…!)
兄、信長の存亡に関わる事態である。夫、長政からの後押しは、ここまでしか得られない。後は妻である自分自身がこの作戦を補完するよりない。迷っている暇はないのである。
「早馬なればこの市が得手。市が自ら参りまするわも!」
「お市さまそれは、無茶すぎまする」
と、血相を変えたのは火偸だ。
「あの久政公は、お市さまの出方をこそ、警戒しているのですぞ。この小谷に残れる兵も我らの動きをうかがっているに違いありませぬ。その中で、城を抜けるのは不可能にござりまするぞ!」
「だがそれでもやるしかにゃあで!」
市の決意は固い。そもそも、信長が死ぬことは、浅井家内織田家である自分たちが実質孤立無援になることに他ならない。
「やらねば、浅井家中の織田、すなわち我らも亡びる。違うかえ!?」
「それは…!」
火偸は、抗う言葉を喪った。確かにその通りなのである。
「分かり申した。…今から火偸が言うことを、よくお聞きあれ。お市さまが言うことが正しいのは、論を待たぬこと。今がまさに、お家の危急にござる。されど、お市さま自ら往くのは危険。そう申し上げているのです。ここは、火偸と埋火の二人が一命を懸けまする。お市さまは、この小谷に籠って、どうか、家中の動揺をお鎮めくだされ」
火偸と埋火はこぞって、市の前へ進み出た。
思えば、この兄妹が浅井家にいる意味が、まさに今のような事態のときなのである。
火偸など、普段は市と言い争いばかりしているように見えるが、いざと言うとき、市のために命を棄てるのが責務、と思い定めているからこそ、ここにいるのである。
「あなたたち、よく言ったわ」
帰蝶はすかさず二人の覚悟を誉めたが、続く言葉は意外なものだった。
「でも、そう簡単にいくかしら?」
「帰蝶さま!?」
「妾が言っているのは、おやかたさまのことです。同じ裏切りにせよ、説明が必要でしょう」
「説明…?」
「この裏切りはただの裏切りではないでしょう?」
と、帰蝶は言う。
「そもそも浅井家の裏切りは、長政どのの変節ではありません。いずれ謀略を覆し、浅井家を元の軌道に乗せるのです。ここを特に理解してもらう必要があります」
「…兄上には、わたしが話す」
それしかない。市自らが信長に伝えることで、浅井軍急襲の通報を長政の真意とする。
「長政どのは兄上を裏切ってにゃあで!」
「その意気よ。それをきちんと、おやかたさまにお伝えなさい」
そこで密使はなんと、市本人と決まった。姫君が早馬を駆り、いくさ場を通るのである。無謀と言えば無謀すぎる。だが、市もここを決死の場と決めた。
(ここを市が桶狭間とするでや…!)
血の気で顔の火照った少女の記憶が、蘇る。
大軍の大波にさらされた小舟のような清洲の城で。
誰もが真っ青に血の気の引いた顔をして右往左往する中、信長の面差しは、凄絶に輝いていた。まるで昇ると分かっている蒼天の旭日を見上げるように、市はその姿をこの目に焼きつけていたのだ。
(夫を持ち、子が出来、忘れかけていたのかも知れんで…)
かつて、兄のようになりたいと想った。
だが甲冑をまとって、いくさ場で刀槍を振るうのがそのことではない、と知っていた。
(市は市の道を探せと、兄上は言うてくれた…)
戦国の女として、生きる道を。それは、生き方ではない。生きざまである。かつて帰蝶に戦国の女の生きざまを問われた意味が、ここへきてようやく、分かった気がする。それは、
(選んだその道を、後で悔いぬ生きざまをすることなのだわ…!)
市はもう、退くことは考えない。
「奥の身代わりは、埋火がなさい」
帰蝶が、てきぱきと手はずを整える。
「長政どのへの急使を装います。火偸、甲冑を着て馬を駆って先へ出なさい。その隙を縫って、お市どのと妾が城を出ます」
火偸は胴丸をつけ、面頬をした。仰々しく、密使の早馬が出る。
その間に帰蝶が手下を率い、密かに作った抜け穴から、市を城外へ出した。
「火偸は大丈夫か…?」
市は心配そうに馬の行方を眺めた。目立つ囮である。どこかで、捕らえられたりすれば、ことである。
「狙われるための囮です。火偸も心得ていますよ」
帰蝶は振り返りもしない。それからとにかく、道なき道の藪を走るのである。お市もそれどころではなかった。
「ここからは、二人で行きます。馬が隠してあります」
と、帰蝶は言った。
一方、出撃した浅井勢である。
長政は馬上、残してきた市たちのことを想っていた。
(帰蝶どのが上手くやってくれたろうか…?)
小豆のことはよく分からないが、何か仕掛けがあるのだろう。すでに勘づかれていなければ良いのだが。
(すまぬお市)
長政の采は、織田家の人間を確実に殺すことになろう。その点については、一点の弁解の余地もない。市の見知っている人間を討ち取るかも知れないのだ。
(許せとは言えぬな)
長政の顔つきは、晴れない。
その長政を追って、火偸の早馬が駆ける。馬蹄の轟きは高く、市たちの耳にも聞こえていた。
「火偸めはそろそろ、逃げても良い頃だでや…」
そのとき市は、何となく嫌な予感が兆した。虫の知らせも馬鹿に出来ない。
銃声が、蹄の音を掻き消した。
「伏せ鉄炮…!」
帰蝶もこれを、察知していなかった。火偸は狙撃されたのである。何か重たいものが落ちる音ともに馬のいななく声が聞こえた。弾丸は、火偸を傷つけたのか。主のない馬はどこへ駆けていったのか。藪の中では、それが分からない。帰蝶と二人、市はまず、臥せって身を守るしかなかった。
「火偸…!」
市は叫びを噛み殺した。




