第三十六 謀の攻防
「小豆」
久政はかすかに目を見開いた。無邪気に相槌を打ったようにみえるが、その胸中はその市の要求の真意を図ろうとしているに違いない。
「それくらいならば備えはあるが、小豆で良いのかね?」
久政は、屈託なく聞き返してきた。
確かに、陣中見舞いとして特に選ばれると言う品ではない。陣中に持っていたとて、薄粥の足しになる程度である。
「兄が、湯漬け飯が好物で」
市はとっさに、嘘をついた。
「飯に小豆を混ぜると、よく噛むので腹が減りにくくなると常々言うておりましたのです」
「なるほど、さすがは音に聞こえた織田信長、小豆を湯漬け飯の足しにするとは、いくさ慣れしておられることよ」
淀みない市の答えに、久政は素直に感嘆したようだった。
しかしよく考えると、信長はさっさと食事を済ませたいから食べやすい湯漬けの飯に凝っているわけで、口に残る小豆を入れたらむしろ食べにくいのでは、とは市も思ったのだが、方便は方便、これで押し通すしかない。
「嫁御あい分かった。小豆だな。では荷駄方に申し付けておこう」
久政は、なんの疑いも口にせずに了承した。
「まだ出陣まで間がある。他に持っていきたいものがあれば、遠慮なく申し出てよいぞ」
「で、小豆でどうするので?」
久政が去ったのを見届けると、市は帰蝶に真意を問うた。帰蝶の答えはそっけないものである。
「そのまま、運ばせなさい。どうせ、土産にはなりません」
「それでは結局、何にもなりゃあせぬでありませぬか!?」
「別に何もしなくていいのよ。貴女は、何も知らないままでいい」
その方が、久政に疑われなくて済む。帰蝶がお市にすべてを伝えないのは、ひとえに身の安全のためである。
「後は妾たちが引き受けます。お市どのは奥の間に下がり、織田の家来たちを守りなさい」
「小豆か…」
久政は、思案を続けた。
「小豆…小豆…さて、何であろうな」
元々、荒事よりも、こうした謀の絵解きの方へ関心の向く方だ。お市の土産物の真意を、別れてからもあれこれと、考え出していた。まず思案したのはこれを、長政にどう伝えるかである。
(まあ、黙殺することも出来る)
聞かなかったふりをして、握りつぶす。それも一つの手だ。実際、浅井家はこれから、信長の陣中見舞いに行くのではないのだ。どうせいずれ離反の事実は伝わるわけだし、市たちに対してはあの場取り繕えさえすればそれで良かったのだ。しかしここはまだ、こちらの手を指す頃合いでもないと、久政は思ったらしい。
「嫁御は、小豆を所望だそうな」
と、久政は、鎧兜をつけた長政に投げかけた。
「どうする。小豆…準備はなくはないが」
「…お父上の好きにしたらいいのでは」
長政は素っ気なく答えた。
「どうせ、義兄上の陣に持ち寄ることはないのですから」
「まあ、それもそうじゃ」
だがな、と久政はここで、考えを変えた。
どうせなら、連中がどんな尻尾を出すのか、そこまで見極めてからの方が、後々の力関係の面でも都合が良い。
(謀は無駄と思い知らせてやるか)
久政は心を決めた。
「だが長政、城を出る時、小豆の荷駄がなくては、嫁御に訝られようぞ」
小豆は運ぶ。その上で、奴らの真の目論見を叩き潰してやった方が効果は大きい。
久政はそう企んだ。
今後も長政の心を変えさせぬためにも、市たちはせいぜい、都合の良い人質になってもらわなくてはならないのだ。
「長政、小豆は積むぞ。よいな」
久政は、念を押すように言った。
「さりとて無駄にはするなよ。扶持米の炊き出しに混ぜて、雑兵らにでも喰らわせてしまうがいい」
長政は返事をしなかった。自分は、この件には関わらない。自分に一人相撲を演じさせておくのが、せいぜいの当てつけだと思っているのだろうと、久政はほくそ笑んだ。
(お市…帰蝶どのから知恵は借りたのか)
長政は長政で、本心は知らん顔をしていたのではない。
今、久政に顔色を読まれたら終わりだと思ったので、素っ気ない態度を貫いたのだった。
(小豆か…)
長政も考えてみたが、真意は分からない。だが、分からないままの方が良いと思ったのだ。
(父上も分かっておられぬようだからな)
だからこそ今は、泳がせようと小豆の運搬を許可したのだろう。
古今、謀略家を自認する者には共通の難癖がある。それは、謎かけをされると、それを読み解かずにはいられない、と言うものだ。だからそれが露見しないうちは、久政は受け身に回るに違いない。
(後は私が出来るのは、精々行軍を遅らせることくらいか)
もちろんそんなことをしても、焼け石に水だ。そもそも家老の遠藤によって、軍勢は掌握されてしまっているのだ。
(命を拾ってくれ)
長政は、市と信長のために天運を祈った。
浅井勢が出撃する。
小谷を進発の軍勢は、越前方面から来る朝倉本隊の後詰めと連携し、信長の南側の退路を塞ぐ。
信長の活路は、南側にしかない。この挟撃をやり過ごすには、岐阜へ戻るか京へ落ちるか二つに一つだが、信長が連れてきた大軍は、そう簡単に反転、逃亡できるわけではない。
東西から朝井朝倉の連合軍が立ち塞げばまさに、一網打尽なのである。
「…今のおやかたさまの状況を、端的に表現するとこうね」
帰蝶は、両口を麻縄で引き締めた袋をお市に投げ渡してきた。中身は小豆が詰められている。
まさに東西両端を塞がれて、にっちもさっちも行かなくなったのが、袋の中の小豆のごとき、織田・徳川の連合軍の末路である。
「成る程!これは一目瞭然だでや!…って、まさか小豆を手土産に選んだはこれを伝えるため!?」
「まあそうね」
と、帰蝶は、軍勢の隊列が続いていく小谷の城門口を辺りを眺めた。
「でも、あそこに積んであるのは、ただの俵につまった小豆よ。どうせ、あれは織田本陣には届かない。忍術で言えばあれは陽忍。目につく囮に過ぎないの」
「な、成る程…」
と、相槌を打つお市に、帰蝶は、作戦の全貌を告げた。
「後は誰がどうやって、早馬でこの袋の小豆を届けるかよ」




