第三十二話 悲運の始まり
「朝倉攻むるべし」
織田信長が、ついに越前朝倉攻めを決めた。永禄十二年に再びの上洛を果たし、将軍足利義昭の要請を受けての出陣である。
軍勢の進発はその翌春(四月二十五日)、狙うは若狭、武田元明の救出である。元明は将軍の甥だ。義昭が岐阜の信長の元へ来て程なく、朝倉の軍勢に居城を襲われ、若狭一国を奪い取られた。
信長が将軍から求められたのは、若狭の奪還と武田家の家名復興であった。
従って、狙うは朝倉家の本拠一乗谷ではない。金ヶ崎である。
金ヶ崎。
この地の名は、信長とお市の人生の中で、もっとも大きな運命の岐路として記憶されている名だが、城自体は敦賀湾に突き出た標高百メートルもない小高い丘に作られた城の名前である。
信長は、そこを攻めたわけでもなかった。狙いは若狭を分捕った朝倉景恒である。
「幕敵討つべし」
信長の命に集ったのは、上洛軍三万である。ただ、今回の遠征は浅井長政を除き、三河から徳川家康の援軍を恃んだ。
(今回のいくさは、義景をば滅するためにはあらあず)
信長の落としどころは、若狭武田領の復旧と越前朝倉家との手打ちである。武田元明の件については、足利将軍家の意向であり、織田の旗を立てるつもりは元よりない。
いくさを有利に進めていく上で、頃合いに義昭に仲立ちしてもらい、和議によって朝倉家を将軍家に従わせるつもりでいた。信長にとっては薄氷を踏む戦略であった。
(とても手が足りぬ)
織田徳川連合は、今回も三万の大軍だが、この軍事力がいつまで維持できるものか。それでなくても織田家は各地に展開中なのである。
矢銭(軍事費)の要求は、方々へ行っている。新たに支配を広げた堺の町衆へ、敵対を続ける本願寺勢力へ。補給や救援がなくては、いかな大軍とは言え、根を離れた切り花に等しい。
(決着は短期)
勝敗は、どれだけ早く手打ちに持っていくかに懸かっている。それには、初手全力で結果を出すことだ。
上洛軍の朝倉領侵攻は、突発的に行われた。信長が采配を朝倉家に向けたことを、浅井家は事前に知らされることはなかった。
(もう、来たか…)
覚悟していたとは言え、長政は忸怩たる想いを拭えない。本家一乗谷との全面衝突ではないことを信長は言い訳にするだろうが、家中の反対派の声は、それだけでは押さえ込めまい。
(やはりこの心中、義兄上には察してはもらえぬか)
長政の苦境は、次第にはっきりとした形を帯びるようになっていった。
一方のお市は、もはや外向きのことなどに構っている暇がない。乳離れもほどない長女に四苦八苦しているところ、続いての懐妊が明らかになったのである。
(また子宝を授かってしまっただわ…)
目出度きことながら、あまりの命中率には市もさすがに思うところがあった。浅井三姉妹の二人目、お初である。出産は、信長が朝倉家遠征に発った年の夏になった。なので、この頃の市はまだ、身重の妊婦である。
足繁く長政は、市のところへ通ってくる。この時代に珍しく、長政の愛情の注ぎ方はお市一途であった。
来ればまず、世話役の埋火の背から、幼い茶々を取り上げ、その長身に包み隠すようにして抱くと、身重の市と話した。親娘三人水入らずとなると、穏やかな談笑が絶えない。話ぶりも、ごく呑気なものだ。
しかし、織田徳川軍侵攻の報が入ったそのとき、長政は中々、お市にその話が出来なかった。
遠藤はじめ、親朝倉派として息のかかった連中の動きは、まだ、掌握しきれていない。
いざとなればいち早く、長政は遠藤を斬らなくては、とまで思い詰めていた。
(あのとき、殺しておくべきだった)
しかし、遠藤に押しきられ、果たせなかった。そのことを、後悔する日がもう、間近にやって来るような、そんな危機感すら抱いていた。
「…長政どの、この市の気のせいか、今日は顔色が優れぬと見えまする」
言われて長政は思わず、息を呑んだ。市の目はここへ来たときより、大分たおやかに女らしくなったが、ものを見る鋭さは喪われていない。信長譲りと言える鋭い感性は、長政の異変を的確に捉えていた。
「よもや、兄上がいくさに発たれましたのか?」
「誰かに聞いたのか、お市」
長政がさすがに驚いて尋ねると、お市は得意そうに微笑んだ。
「長政どののお顔にそう、書かれておりゃあしたゆえ」
「そうか、お市に隠し事は出来ないと言うことだな」
長政は、苦笑した。途端、張りつめていた何かが、急にほぐれてきたように感じた。
「義兄上が、朝倉家を攻めた」
きっぱりと、長政は戦況を告白した。
「攻めたのは、越前一乗谷ではない。…しかしそれでも、浅井家との約定は反古にされた。浅井家は、この長政の代となっても、朝倉家とのつながりを断てないようだ」
市は、黙って聞いている。最近少し、長政の話を聞いて待つようになってきた。
「内紛があるかも知れない。長政のこれからの役目は、それを収めることになる。つまり、今の有り様を守ることだ。私が親織田路線を守れば、家中の反対派は、織田から来たお市を目の敵にしてくるはず」
「覚悟は決めておりゃあすで。…市めが岐阜へ逃げ帰る気は毛頭ありませぬだわ」
「そう言ってくれると思っていた」
長政はそこで、初めて明るい顔を見せた。
「苦労を掛けるかも知れない。…だが、この長政ある限り、市にも茶々にも産まれてくる和子にも、危険はおろか、肩身の狭い思いは絶対にさせない」
「長政どのっ」
今度はお市が息を呑む番だった。
長政がその手を思いの外強く、握ってきたからだ。
「今のは痛いだわ…ちょっと、強すぎではありませぬか…」
「すまない」
引き絞るように握ってしまった手を、長政はあわてて引っ込めた。あのせっかちで男勝りだったお市が今や、たおやかな人妻なのである。
「それより長政どの、お市と娘がことはお気になさらぬで。思いのまま、おやり下され」
「しかし、お市…」
と言う長政の手を、今度は市が握り返した。
「埋火も火偸も…いざとなれば、帰蝶さまもおりゃあす。子を抱えていても、何とか身は守れまする。長政どのは、当主としておのれが進みたき道へ、家中を導けばそれで良えのだわ」
「私が進みたき道か…」
反芻する長政に、市は笑顔でうなずいた。
「そうだわ。市のことなど気にせず、存分にやりなされえ」
人の親が慣れてきたのか市は、腰が据わったようになってきている。かつての火のような情緒や突発的な行動は前へ出ることが少なくなり、それが逆に頼もしくすらあった。
(まさか、お市に激励されるとはな…)
長政は、市に過酷な現実を告げることに気後れしたことを恥じた。
長政は、陣触れを急ぎだした。
後詰め(救援)の用意である。朝倉本家は若狭へ援兵を出すことになるに違いない。朝倉景恒は、せいぜい城籠りを長引かせ、本軍の到着を待って反撃に出る腹積もりだ。
その救援を抑えるのは、地理的に見て、北近江の浅井家であろう。信長もそれを期待しているはずだ。これを既成事実としてとにかく朝倉家と本格的にことを構えてしまおうと言うのが、長政の魂胆だった。
陣触れはやけに迅速だった。
まるで用意されていたように、短期間で馬揃えが整った。
(よし)
焦る長政は、ここで不信感を持たなかった。すでに軍勢の集結は、長政の命を待たずして、行われていたのだ。
進発を決めた長政の陣幕へ、乗り込んできたのは、やはり遠藤喜右衛門であった。
「敵は金ヶ崎にあり。いざ『織田攻め』をばつかまつらんッ!」




