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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第三十一話 九死の天下取り

「反信長包囲網…?」

 いかにも剣呑な言葉に、長政と帰蝶は眉をひそめた。

「左様、考えようによっては信長公にとって上洛とは敵の包囲の中へ自ら躍りこむ死出の旅路に候」

「死出の旅路って…上洛の件は十兵衛、あなたが、信長公を誘ったのでしょう?」

 帰蝶は、顔色を変えた。無理もない。信長を唆して、むざむざ敵の巣窟へ誘い入れたと言うならば、それはただの謀略である。

「はは、いかにも帰蝶どの仰せごもっとも。…されば信長公にとってはこの明智十兵衛、さしずめ死神にござろうな」

「明智どの…お話をうかがうと、貴殿の肚が分かりかねるな」

 長政も、怪訝そうな顔になった。


 上洛は信長滅亡への道。

 そんなことをあっさりと断言する光秀こそが、長政にとっては怪人物に見えてきた。


(本当にただの幕臣か…?)


 明智光秀。

 帰蝶の血縁と言うが、思えばこの男も得たいの知れない人物である。


「ただ、くれぐれも誤解のないよう。…この光秀、信長公を死地へ追いやる魂胆にては決してなく。両人にもこれが、天下平定への道であるとお心得頂きたい故、あえて話しているのでござる」

「今の危機が、天下平定の道?」

 帰蝶が、不満げに食いついたが、光秀の笑みは揺るがない。

「敵は根絶やし、一網打尽にせねばならない。それが天下取りへの唯一の道。…今のうちにこれを怠れば、信長公はたちまち、かつて京をこの手にしかけた支配者たちと同じ、破滅の道を辿ることとなりましょう」


 京都は歴史的に獲るは易し、守るは難し、と言われる。


 この都が王朝時代、あらゆる道の終点としてつながる王の都として建設されたことが祟っているわけである。


 つまり、占領するのは簡単だが、一旦守りに入れば、四方八方から攻撃される仕組みになっていると言う戦略的な死地なのである。


「さらに上洛したことは、すぐに全国のめぼしい大名に伝わりまする。遠方の強敵、近くの弱敵」

 信長の場合まず、遠方の強敵は甲斐の虎、武田信玄であり、越前国の朝倉家であると言う。

「彼らは腰が重い代わり、一旦始まれば、滅亡を覚悟せねばなりますまい」


 だが光秀言う。

 甲斐の武田信玄は、動かない。ちょうど家督相続の問題で、内部が揺れているときであり、危険な遠征を行う可能性は低い。


「そして、越前朝倉が見るは若狭一国」

 新領土の併合で忙しい朝倉は、外部の敵を迎えたくない状態だ。


「しかしこの二家はいずれ、信長公とぶつからざるを得ませぬ。だが二家いっぺんには戦えませぬ。ゆえに近くの弱敵をじっくり始末をつけながら時を稼ぐが肝要」


「よく分からないわね。近くの敵は弱いんでしょう?だったら一気に勝負を決めたらいいのではないの?」

「ことはそう易くはないですな」

 帰蝶の言うことを、光秀は一笑に付した。

「弱敵は、いくさには弱い。しかし弱いゆえに、勝つのは難しゅうござる」


 近くの弱敵とは、三好三人衆を代表とする京の悪党たち、さらには摂津に本拠を構え、全国に展開する一向一揆の元締め、本願寺衆であると言う。


「彼らは寄せ集め。家名を守る武士ではなく、負ければ降参し、逃亡すれば再集結して、延々と挑んできまする。この弱敵を封じなければ、手足をとられているうちに強敵に攻められ、滅亡するは必定」


 故に戦略によって、これらを順番に一つずつ降していけば、信長はあらゆる懸念を払拭できると光秀は言いたいのだ。


「まさに危機こそ好機。…信長公が本物の天命に遣わされし英雄なれば、くぐり抜けあたうはず。さればこそこの光秀、義昭公を岐阜へ動座せしめた次第」



 さて、そこで肝心の信長である。実は明智光秀、長政と帰蝶にしたのと同じ話を、信長としている。この上洛をしおに、目障りな者共を一掃せよ、と言う戦略構想である。


 光秀が言う通り、嫡子義信の謀反事件で揺れる武田家は縁の結び時、姫を送り込むことで、同盟路線へ持ち込んだ。


 そして朝倉家は固く殻を閉じたままだ。光秀の言う『強敵』が重い腰を上げるのは、まだ先の見込みである。


 三好三人衆との争いは、終わりが見えてきた。随身してきた松永弾正は、いわゆる同じ穴の狢の悪党で、彼らの弱味も知り尽くしている。ねぐらを追い詰めて弱らせれば、向こうから音を上げてくるだろう。


 気になるのは本願寺勢力だが、散り散りに抵抗戦を展開する彼らは確かにしぶといが、散発的であり大きな戦略的展開はまだ見られない。


(と、なると向かうは一つ…)


 総力を上げて潰すのは、北の越前に他なるまい。及び腰の一乗谷の朝倉義景は、そろそろ叩きごろであろう。信長の目は、朝倉家へ向き始めていた。


 だがその前に一つ、信長には懸念がある。


 永禄十二年の年明け、信長は再び上洛した。かねての案件を、将軍義昭に話そうと思っていた。それは朝倉家の若狭武田乗っ取り問題のことである。


「ついに余の弟を救うてくれるか」


 義昭は、信長の提案を喜んで迎えた。武田元明は若狭を獲られ、朝倉家に軟禁されているのである。


「義景めの心胆見えたり。御所の名のもと、この信長に和して京の悪党と戦えと言う申し出を蹴り申したゆえ」


 信長は、協力の手を差しのべたのである。しかし朝倉義景はこれを無視した。表立っての敵対は見せないまでも、

「家格で言えば下の織田家の軍門になぞ、誰が降れるか」

 と言う姿勢を隠すこともない。


「この上は一乗谷を焼き払ってでも、義景めに思い知らせてやりとうござりまする」


 信長のそれは殿中言葉だが、抜き身の殺気に満ちている。

 義昭は怖じた。そしてそれから、いやな顔をした。

 底冷えするような戦場さながらの殺気を、(いやしく)も将軍たる自分の前で剥き出しにすること自体が、無礼ではないかと、憤慨したのである。


 地位が安定すると共に、義昭は将軍らしさを気にするようになっていた。確かに最初はおっかなびっくり、言われたままを演じていたに過ぎなかった。


 だが、将軍として自らがすすんで振る舞うからこそ、誰もがそれを尊い存在として、最敬礼を払ってくれるのだと言うことに、気づき始めていたのだ。


 極端な話、同じ食べ物でも頭を下げて恵んでもらえば物乞いであり、そちらからすすんで納めさせれば、それは将軍と言う権力への献上と言う形になる。つまりは威張れば威張るほど、将軍は将軍らしくなると考えるようになっていた。


(この信長も、将軍としての余が頼りの癖にその態度はなんじゃ…)


 思い上がりはついに、恩人であるはずの信長に向きかけていた。


(だがまあ、良い。この男はまだ、余の望みを叶えてくれるのだからな)


 越前への仕置きは時間が掛かったが、これも信長を遣わす自分の権力あってこそだ。そもそもこの信長も手紙一つで、再上洛させたのである。義昭は今や、何でも出来るような気になっていた。


「…ところで、御所さま。この信長、朝倉家を攻める代わりに、お約束頂きたいことがありまする」

「約束?」

 と言う義昭に、信長は一通の書状を差し出した。

「…向後はもう少し、この信長を信頼されまするよう」

(どう言うことじゃ…)

 と、義昭は書状を拡げて顔色を失った。それは、いわば信長からの折檻状であった。

 文章は格式にそれなりの礼は払っているが、義昭にこれ以上、勝手な行動は許さない、とがんじがらめの禁止事項がこれでもかと列挙してある。

「無礼な…」

 義昭は歯噛みした。こんなことがあっていはずがない。ここに書いてある通り、信長の言うなりにすれば義昭は、一切の政治活動が出来ないことになる。

 それは将軍の権威の死である。これではなんのために将軍になったのか分からない。

「信長…」

 怒りの禁止状を叩きつけて去る信長の背に、義昭は初めて殺意を向けた。

(余の恐ろしさ、思い知らせてくれる)

 計算ずくで攻略できるはずの信長包囲網に、予想外の展開が加わるのはまさにこれからのことである。






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