第二十五話 浅井の舅
「浅井の先公…?長政さまのお父上…?」
浅井久政が、お市の臥床を見舞う。言葉通りに口に出してみれば、当然のことだ。義娘の懐妊を聞きつけて、舅がその容態を見舞うと言うだけの話である。
だがそこで、帰蝶が現れる、と言うのは、これにはそれなりの意味があるのである。
「火偸の話は、聞きましたね?」
と、帰蝶は単刀直入に切り込んでくる。市は、少し考えた。恐らくは、帰蝶が尋ねているのは、浅井家の内部派閥のことである。
「浅井家は今、二つの路線で分裂していると言っていい。この家の歴史から言えば、旧来の路線を行くべきと考えるのが親六角派、信長公との同盟で新たな展開を作ろうとするのが、あなたの親織田派、そこまでは理解している?」
市は、迷うことなく頷いた。
「そしてこの局面で、新たな状況が二つ。今からはここを認識しなさい。…一つは観音寺落城に伴う六角氏の崩壊、もう一つは、親織田路線の最前線であるお市どの、あなたの懐妊です」
つまり、帰蝶が言いたいのは市の妊娠は六角氏の崩壊に並ぶ『政治的事件』と言うことである。
「六角承禎は生きて、何かを企んでいます。しかし、公式には南近江と京都政界からは六角の名は消え、その影響力は消滅とまでは行かずとも、それに近いほど衰微した。浅井家の親六角派としては、由々しき事態が続いていると言うわけです」
「…つまり久政公はこの市に何か仕出かすためにやってくると言うとりゃあすで!?」
「落ち着きなさい。曲がりかりにも長政公の父君です。…そんなことは間違ってもないから安心なさい」
まるで刺客に襲われるかのような市の物言いに、帰蝶は苦笑するしかなかった。
「それよりも問題は、今、久政公がいったい、何を知りたがっているか、と言うことよ。あなたのところへ来るのは嫁舅の関係上、形式的なものに過ぎないのかもしれない。でももしかしたら、何かあなたから引き出したい情報があってのことかも知れない。…例えば六角承禎に様子をうかがうよう、頼まれているとかね?」
「じょっ、承禎がこの市から!?何の聞き出したいことがありゃあすのか!?」
と市が言うと、帰蝶は目を細めて微笑んだ。
「だってあなた、あの老人に気に入られているもの。…一度は接触があったのだから、ここでまたあなたから大きな動きがあれば、何かしてくるかも知れないでしょう?」
「いやっ、確かに一理…なくはにゃあですけども!本当にこの市のことなど、あの承禎がそんなに気にかけておりゃあすのやら…?」
「しっ、そろそろ静かになさい。…久政公がお成りになるわよ」
ぴしゃりと市の愚痴を封殺すると、帰蝶は侍女の顔に戻った。臥床の市を甲斐甲斐しく身の回りの世話をしているふりをし始める。
そこへ、話題にしていた久政がやってきたのだ。市は息を詰めて、いつもとは違う様子を作る。
(この方が、長政の父上…)
入室したのは、久政とその腰にすがらんばかりにして付き添う、色白の童児であった。市にとっては、ほとんど初対面である。
「ふいに倒れたのであったな。…その後、大事はないか、嫁御よ」
久政は、もの柔らかな口調で尋ねた。長身の長政とはまた異なり、中背の小綺麗な優男である。まともに相対して話したのはほとんどこれが初めてだ。婚礼の日に挨拶をした覚えがおぼろげながらは、あるのだが。
長政も丁寧で柔らかい言葉遣いを心がけて市と対するが、そこにはいつもどこか引き締まった気のようなものを感じさせる。そこをいくと久政からはそう言ったものは不思議と感じない。屈託がないと言うか、市の目からは、穏健で人のいい舅に見えてしまう。
「此度、思わぬご心配をお掛け致しまして義父上には格別のお心遣い、ことにありがたく存じ奉りまする…」
市はさしあたってそう、挨拶した。
もちろん、立て板に水でそう言ったのではなく、帰蝶がそれとなく耳打ちしたことをあわてて復唱したのである。取り繕った口上が未だに苦手な市であった。
「腹の子はどうか」
久政はいかにも、いたわしそうに尋ねた。
「はい。…まだ、懐妊したと言われても、どこが変と言う感じもありませぬで、何だか実感がにゃあで…」
正直に思ったことをしゃべると、市はこんな感じなのである。やむなく、帰蝶が割って入った。
「ここのところ、御方様は夜眠れぬ日々が続いたせいか、ひどくお疲れのご様子」
「そうか。それは良くないな。…まさかよく眠れておらなんだとは…」
「(帰蝶が耳打ちしている)…じっ、上洛の長政さまと離れ離れに日々を過ごすのが…そのっ、もの寂しく感じたてまつって…」
市は、聞き間違いをそのまま話している。帰蝶が笑いをこらえている。
「そうであったな。新婚の二人ゆえ、寂しくあるであろう。…いかに信長公の上洛が急務とは申せ、新婚も早々とはな」
久政は、人がいいのか、そう言う市を別段咎め立てしない。そして万福丸を連れてきたのも他意はなさそうだ。
「万福丸よ。…存じておろう、お市どのだ。この御方がわしとお前の新たな家族を作ってくれるのだぞ?」
万福丸は、無邪気な子である。長政の家系を継いでいるのか、色白で福々しく、愛らしい顔立ちの男の子だった。継母に当たる市のことをまだよく理解は出来ていないだろうが、悪い気持ちは持っていなさそうだ。市は万福丸の差し出してきた丸っこい手をそっと握ってきた。
「では、そろそろ行くとしよう。嫁どの、油断されぬようよく休め…そうだ、眠れぬのであったな…」
と言うと久政は手ずから、粉薬の包みを取り出し、
「…良ければ、今夜から呑んでみるとよい。少しは気が休まろう」
「過分のおはからい、いとかたじけなくたまわりまする」
市は薬包みを受け取った。穏やかな笑顔で久政は頷いた。
「長政が、戻るまで油断せぬよう。…また顔を出す」
と、久政は万福丸を抱え上げて去っていった。
「その薬、まさか飲む気じゃないわよね…?」
帰蝶が、皮肉げな視線を向けてくる。
「えっ!ええっ?やはり、飲まぬ方がええですか?」
帰蝶は黙って市から薬包みを受け取ると、自分の袂に入れた。
「あの御仁にはうかつに気を許さない方がいいわよ」
「はあ…」
目を丸くする市に、帰蝶はとんでもない秘事を吹き込んだ。
「あの遠藤喜右衛門を操っているのは、久政公なのだから」




