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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第二十三話 つなぎ止める絆

 帰蝶のお陰で、取り戻したと思えていた足場が再び、取り払われたようだった。

「この市めが…」

 夫の長政を棄てるのか、それとも最愛の兄の信長を棄てるのか。

 決断のときは、迫っている。それも刻々と、予断を挟む余地もなく。否応ない運命の波濤(はとう)は、すでにそこまで打ち寄せてきている。

「あなたが選びなさい、お市どの。…それは誰にも、こうしなさいと言えるものではないの」

 帰蝶は、きっぱりと言った。


 突き放した言い方に聞こえたが、この蝮の姫はむしろ、市を想って言っているのであった。そもそもこの帰蝶にも、果たすべき使命とそのための謀略がある。ただ市を自分の言う通りに操りたかったら、そのようなことは口にしないのが有利なはずなのだ。


「らしくないと思ったわね?」

 と、帰蝶はそんな市の想いを見透かしたように言った。冷血で鳴る姫の血の通った説教なのだ。

「でもね、それが武家の女の生き方なのよ。他の誰かはともかく、あなたにはその生き方を貫く資格と義務がある」

「帰蝶さま…」

 気づかぬまますがるような眼差しで市は、帰蝶を見返した。思わぬ人から思わぬことを言われて、己の心の弱さが、もろに漏れ出でてしまった。

「お黙りなさい。そんなことで、あなたは顔向けが出来ますか。あなたは未来を託されたのでしょう、吉乃どのから」

「吉乃さま…」

 胸を刺し貫かれたかのように、お市は息を詰めた。

 その人は、いつも心にある名だ。

 口には出さずとも。大事なものを、この胸に譲ってもらったはずの、すでに市の住む世にはいない、人の名。

「この戦国をいかにして生きるか。吉乃どのは立派に選んであなたに見せたでしょう、女の生き方を」


 吉乃は。


 最愛の信長に殉じた。まるで真夏の太陽のような、地獄の覇道の灼熱を生きる過酷な運命の男に惚れてしまったその報いは受けたかも知れないが。幸せだった。武家の女性(にょしょう)として、愛した屋形の子を宿し、織田家を担う信長のためにその消えゆく生命の最後の残り火までも捧げ尽くしたのだ。


「そうか、この市も、長政さまのために…」

 ただ吉乃になぞらえ始めた市の性根の甘さを、帰蝶はぴしゃりと打つ。

「勘違いしないで。わたしは、あなたに吉乃どのを真似て生きろと言っているわけではないの。…今のあなたでは駄目。甘いわ。吉乃どのがあなたに遺した心を、もっと突き詰めてみなさい」

 安易な結論で、市に決断をごまかさせる気はない。帰蝶には、一切の妥協がない。

「あなたに強いるのは、妾もそうしているから。人間(じんかん)、女の一生としては、まだこの帰蝶もあの女には及ばない。それが悔しくて、手だてを尽くして、この畜生のような武家の世を、生きているのよ」

 あの気丈な帰蝶の目には、涙さえ浮かんでいた。

「だから断言する。…今のあなたごときでは、必ず『後悔する』。長政を選んで信長を棄てても、信長を選んで長政と離縁(はなれ)ても。…生き残っても、苛むでしょう。滅びても悔やむでしょう。大事なのは結果じゃないの。戦国の女はッ!何を愛して死ぬかなのッ!」

 肉ごと骨まで噛むような、まさに帰蝶の本音であった。


(結局のところ、今の市めは…)

 と、愕然とお市は思う。

(誰と会うても、打ちのめされてばかりいる)


 つまり、弱いから負けるのだ。それはとりもなおさず自分がどうしようもなく弱いからだと、骨身に沁みて分かってきてはいる。腕っぷしや気性は関係ない。それはつまり違いは『覚悟』なのだ。


 帰蝶が言うように、たとえその場で殺されても退かぬ女の一生は、誰がどう思おうとこの戦国では価値あるものだろう。


 だがその強さを、おのれの身一つからどうやって絞り出したらいいのだろう。市がいかに、強くあろう、誰にも負けない、と気を張り、心を練ってみても、それはなお『違う』、そんな気がするのだ。


 吉乃は強い(ひと)だった。

 なす術もなく病魔に蝕まれる、己の身の不安と孤独を、ほとんど信長に背負わせることなしに、自分の見つめる幸せだけを貫いて逝った。


 自らに課した使命は、信長に捧げること。小牧山に移ったのも、自分のためではない。せめて短い一生の終わりまで側にいて欲しい、と言う信長の望みに寄り添ったのだ。


 引き換え、自分はどうだ。

 崇敬する兄、信長と最愛の夫の長政との狭間で揺れ翻弄され。一途に信長を想えば良かった吉乃とは違う。真似をしたって、なんの意味もないではないか。


「この市にも…骨身に沁みて分かっておりまするわもッ!」

 市は、声を上げた。生きなくてはならない。生きると決めたのだ。あの日、小牧山の夜風を浴びながら。もはや袖を通せぬ椿の小袖をくれた吉乃の遺志を背負って。

「されどいかにせば、あの方の『覚悟』に迫れまするか。あの方は一途に、兄上を愛しておられた。この市とは違いまする!あの方はただ一人ッ!想うことはただ一つッ!同じ兄上を想う、帰蝶どのとも違うッ!」


 ようやく、表に引き出せた。紛れもなく、それが市の本音だった。自分が背負う苦悩は、他の誰のものとも違う。分かちがたい二つの、どちらか一つを取らねばならない。それが市の運命なのだ。


「そうね、あなたの背負うものは他の誰とも違う。それでもね…わたしや吉乃と、その生きざまに違いはないわ」

「わたしは…どうしたらいいのです」

 帰蝶は答えをもたない。帰蝶が言えるのは、答えを出すための手がかりでしかない。

「あなたの好きになさい。…ただ、それを死ぬまで人に譲っては駄目」


 市にも、それは判ってきていた。だが問いを投げつけざるをえない。帰蝶でなくても、誰でも良かった。答えは自分で選ぶしかない。二つに一つしかないのだ。どちらを選んでも、必ず後悔する。それでも、生きることを全うしようと、断固たる決意を持つのが大事なのだ。


「わたしは生きたい…!市と名づけられしこの人間(じんかん)を余すところなく全うしとうござりまする…ッ!」

 と、言った瞬間、ふっ、と市は白い光に包まれたのを感じた。深い夜の帳は消え失せ、重苦しい意識が軽くなった。

「お市ッ…!」

 差しのべられた帰蝶の手を掴もうとする。掴まねばどこへ落ちてしまう。なのに、それがどんどん遠くなるのだ。

(死ぬときはかようなものか)

 市がぼんやりと想った瞬間、その帰蝶の姿も、消えた。



「…さまっ、お市さまっ…!」

 次に市の夢寐を醒ましたのは、あの帰蝶の声ではなかった。すでに宵闇の城中の薄暗がりはない。まばゆい日の光が、市の薄目をこじ開けた。

「帰蝶さま…はっ!帰蝶さまは…!?」

「帰蝶さま…?」

 怪訝そうな顔がある。見ると、埋火であった。

「なっ!何じゃ!かようなところで何をしとりゃあすか、埋火!」

「…お市さま、ご容態を崩されたのですよ?」

 心配そうに埋火が言う。市はあわてて身体を起こしかけた。

「むっ…ここは」

 市と帰蝶が話していた場所ではない。奥の寝所だ。しかも夜はすっかり明けて、埋火に聞けば、あくる日の午後だと言う。正味半日は、市は昏倒していたらしい。

(あれは一体…何だったのか…)


 帰蝶に出逢ったことは、たぶん夢ではない。帰蝶の着物の柄も香りも、話した内容も、現実のものとして覚えている。問題はそのあとだ。


 話の途中でふっ、と意識も記憶も途切れて、あとは何もない。市は自分が死んだのかと錯覚したほどだった。何が起きたのかは分からないが、まるで夢のようだった。


(確かに。あれさえなくば、帰蝶さまに会ったのも夢ではないと言えるのだが…)


 そこで市は自分のおでこに、濡れ布巾が貼りついていることに気づいた。


「んん!…何だでやこれは!わたしは(すく)やかだでや!どこも悪いところはないでかんわッ!」

「お平らに!お心を落ち着け下さい、お市さま!」

 埋火が市を宥めたが、次にとんでもないことを言った。

「もうお一人の身体ではないのです。お腹にややが」

「ややっ!?」

 お市は自分の腹に手を当てた。と言ってそれで何が分かるわけでもない。濡れた布巾がおでこから、ぺちゃりと落ちた。

「ご懐妊ですよ、お市さま」

 埋火は晴れがましい声で言った。

「医師の見立ては確かだそうです。…ついに、長政さまのお(たね)を宿されましたね!」




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