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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第二十二話 浅井につくか、織田に戻るか

「帰蝶さま…!」

 お市は掠れた声を上げた。まさかこんなところで。この腕利きの美濃の姫に出逢えるとは、思っていなかった。

「何て顔をしているのあなた」


 お市の頼りなげな様子に、ここへ忍んできた自分の事情を説明するよりも帰蝶はまず、驚いたようだった。


 戸惑う市の身体を、帰蝶はなにも言わずに抱き締めた。帰蝶の柔らかな身体のぬくもりと懐かしい匂いに包まれて、市は思わず、泣きそうになってしまった。


「なっ、なんでもないだわ…!」

「今さら強がっても、もう遅いわ。…それに別に強がる必要はないでしょう。ここには妾と、あなたしかいないのだから」


 帰蝶の態度はいつも、変わらない。相変わらずの冷酷にして沈着な蝮の姫なのだが、それが何故か自分を安らがせていることに市は驚いていた。


(この浅井家に頼るものが、今のわたしにはおらんで)


 長政のいない寄るべのなさが、これほどまでに、自分を細らせていたことに、市は愕然とする想いだったのだ。


「その様子では、すでに何かがありましたね?」

 帰蝶は、いきなり聞いた。


 この人の察しの良さは心臓に悪いのだ。市はうなずくしかなった。火偸にも埋火にも、ずっと誰にも言えなかったことなのに。


「なるほど…だったら話は早いかも知れませんね。妾が来たのは、他でもありません。吾が不倶戴天の仇、斎藤右京のことですよ」

「龍興めが…!?今度は一体何を…?」

 気圧されながら、市が尋ねると、話しかけた帰蝶は思い直したように、首を振った。

「それは後です。…妾の話よりもあなたの話をしなさい。もしかしたらそれは、誰かにずっと、話したかったことではないの?」

(この方には敵わぬだわ…)

 市は内心舌を巻いた。帰蝶は、なんでもお見通しなのだ。


 それにしても、やっと吐き出すことが出来た。承禎が接触してきたと言うのは、敵方の話である。


 本来は誰に知らせても良いはずなのだが、なぜか気後れがして市は、火偸たちにも話せずにいたのだ。


「なるほど、そうでしたか。…それは興味深い話ですね」

 帰蝶は、誰にも話さなかった市を責めない。ただじっと、市の話すことに耳を傾けていた。

「あなたの情報は、とても耳寄りな話です。実は斎藤右京めの足取りが掴めたので、その承禎の動きと考え合わせると、かなり有力な間諜(しらせ)になりそうです」

「あの二人が何を…!?」

「まだ、正確には分かりません。それより承禎は、東へ向かったのでしょう?」

 帰蝶の問いに、市はうなずいた。

「斎藤右京も、伊勢長島で織田勢と小競り合いをしたのち、東方へ落ち延びたそうです」

「…されど、東方は織田領ではありますまいか?」


 承禎も龍興も、東は敵領、鬼門のはずなのだ。長政も訝っていたが、危険を冒して追捕される可能性の高い美濃・尾張方面へ逃げて、なんの得があると言うのか。


「得ですか。そう言うことなら、一つだけ心当たりがありますよ」

 帰蝶は、言った。この蝮の姫の慧眼は、長政の持たない答えをすでに、見抜いて持ち合わせているようだった。

「甲斐武田家」

 市は目を見張った。

「武田!?と言えば、あの甲斐の虎と言われる武田信玄の…」

「そうね」

 帰蝶は苦笑した。市の答えは、例え火偸あたりからの受け売りであったとしても、よく答えたと思ったのだろう。

「いや、でも帰蝶さま…!確か武田は兄上の同盟国であった気がしとりゃあすが…」

「その通りです」

 帰蝶は、唇を引き結んでうなずいた。それは市の物覚えが、意外にもうろ覚えの範疇を超えてきた証拠であった。

「確かにおやかたさまは、武田には懐柔策を取っています。此度の上洛に際して最も怖いのは背後をつかれること。すでに我が物とした美濃・尾張の根拠地を侵されれば、万事休す。…されどその懐柔策と言うのは、真の同盟ではありません。『虎』の尾を踏まずに済ますための、言わば苦肉の策」


 この戦国に武田信玄ほど、権謀術数を駆使した武将はいないと言える。大陸の兵書『孫子』の策略をこの戦国乱世に応用し、実戦仕様化した信玄の武略は硬軟変幻自在と言われ、誰にもその魂胆を読みきることは出来ないと言う。


「信玄は『裏切る』。例え同盟を結んでいたとしても好機と見れば、容易く盟約を踏み破って攻めこんでくるでしょう。甲斐武田家はそうやって今日の大国になったのよ」


 信玄の代で、武田家の領土はほぼ倍増しつつあると言っていい。帰蝶によるとその契機は、信濃諏訪の平定。信玄は諏訪から嫁を取って縁戚関係を結んでおきながら、当主暗殺に手を染めたとされる。


「『甲斐の虎』はすぐに腹を空かす。そして我慢もしない。信玄がおやかたさまの後方を侵せば、我らは手も足も出ません」

「なんとそんなおそがい奴を担ぎ出そうとは!あんの承禎坊主めがッ!なんととんでもにゃあことを!」


 市は顔を真っ赤にして怒った。浅井家から逃げろ、と忠告してきたのは、ただ自分を嘲弄するためだったではないか。そう思うと、恐怖や不安など引っ込んで、久々の信長譲りの怒りがめらめらと燃え上がってきた。


 帰蝶はそれをみて何故かくすりと笑った。この血の冷たい蝮の姫は人の見えないものばかり見て可笑しがっているのである。


「なっ!何が可笑しいでありゃあすのか!?」

「ふふふ、ごめんなさい。…でもお市どの、やっとあなたらしくなりましたね。あなたに怯えた顔は似合わないわ。そうやって顔を真っ赤にして、怒らないとね」

「…それ、ほめておられるのですよね?」

 帰蝶は珍しく無邪気に笑った。

「そうね。…今のは面白かったから、そう言うことにしておきましょう」

「う、嬉しくにゃあわ…」

 変なほめられ方をして釈然としない市なのだった。

「ほっとする話もしましょうか。…さっき斎藤右京が甲斐へ向かったと言う話をしましたが、今、奴めが信玄に逢える可能性は限りなく低いでしょう」


 薄氷を踏む同盟関係とは言え、やはり武田は織田の同盟国なのである。信玄がその『建前』をひっくり返すときにはすでに、尾張の城下は焼き払われているだろうと言うのが、帰蝶の見解だった。


「それにはあと一手足りない、と見るのが妥当ね」


 信玄が動くには、それなりの『理由』が必要だと言う。


「例えば、浅井長政が寝返れば、信玄は確実に立つでしょう」

「帰蝶さま!!長政さまに限ってそんなことがあるわけにゃあで!」

「お市どの、聞きなさい。…この戦国乱世、ありえないことはありえない、のよ」

 声を張り上げた市を、帰蝶は改まった口調で諌めるのだった。

「…だから何が起きても、『生きていくおのれ』を貫きなさい。誰か次第で生かされて生きていくのではないの。自分の生き方で生き抜くにはどうしたらいいのか、いつも全力でそれを考えるの」

「帰蝶さま…」

 唖然とする市に、帰蝶は、言った。

「だから、決めておきなさい。抜き差しならぬときが来る前に。…この浅井家について織田信長を棄てるか、浅井長政を棄てて織田家に戻るか」


 それは紛れもなくお市のこれまでの人生において、最大の選択であった。







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