第二十一話 揺れる夫婦
「やはりじゃ!やはり、織田の出来星づれに、我ら手など貸すべきではなかったのでござるッ!」
憤慨のあまり、まるで眼前の信長を面罵するような口調で、遠藤は吐き捨てた。凍るような目付きで、長政はそれを見ている。この老臣に仕掛けられた六角承禎の罠を、今からでもいい、何かしら見極めようとするかのように。
「殿はお聞き召されたか!?」
「知らぬ」
短く、長政は答えた。冷ややかな物言いである。
「何を悠長な!これをご覧じ候えッ!」
遠藤が叩きつけたのは、一枚の書状である。そこには、織田方の四将の名が列記してあるのである。
「これが如何にしたか?」
「しゃっ殿っ!知れたことでござろう!」
遠藤はついに痺れを切らした。
「これなるは平定後の近江の政を司りし、代表者の名にてござる!ざまをみよ、浅井長政さまの御名どころか、浅井家のどこの重臣の名もありませぬ!」
長政は応えず、将たちの名を読み取った。そこにあるのは、柴田勝家、森可長、坂井右近、蜂谷頼隆の四名だ。
「…藤吉郎どのの名が見えぬな」
長政は思わず、苦笑した。名誉職はまず、重鎮が占めるとして、あの働き者の目は恐らく、次の方向へ向いているのだろう。
「これがどうかしたのか?」
長政は挑むように、問い返した。
「知れたことにござる!信長めはこの浅井家を差し置いた!これにて信長の心底見えたり!もはや愛想も尽き申した!」
「おのれが義兄上にいつ、愛想を振りまいたと申すか?」
抑えていた長政が、ついに憤怒で顔が青ざめたのは次の瞬間だった。
「浅井家を差し置いてだと!?なれば、うぬらは観音寺城攻めのとき、一体何をしていたッ!?六角承禎めはこの長政の仇敵なるに、あろうことか、先手を放棄して、高みの見物かッ!!」
「…義弟なれば、長政さまに信長めが花を持たせるのは当然のこと!それが危険な先手を押しつけておいて、なんの同盟かッ!」
「信長公は、お前らの都合良く使える親戚ではないぞッ!!」
長政はついに、遠藤の胸ぐらを掴み上げた。
「それほどこの近江を仕切りたくば、おのれで切り取れッ!!信長公も承禎めも、おのれの駒使いなどと思うていたら今に痛い目にあうぞッ!」
「殿っ!言うに事を欠いて何たる暴論か!誰がっ、誰の駒使いなるや!?」
「黙れっ!」
長政はそのまま、遠藤を突き倒した。刃向かえば、即座に斬り捨てる気である。
「おのれっ」
遠藤は到頭、柄に手をかけた。しかし、長政の抜刀のが、数段速い。
「やるなら容赦せぬぞ」
長政の刃を、首筋につけられたように遠藤は、背筋を強張らせた。
「その紙はどこで手に入れた?」
遠藤は応えなかった。
「内通者が、隅々にまでいるようだな。お前も思わぬ者の縁者と通じているのだろう。弁解は聞かぬ。…それより教えてやろう、浅井家の者の名は外してくれと義兄上に頼んだのは、この長政よ」
長政は言わなかったがそれは、藤吉郎の進言でもあった。
「はっきり言おう。六角承禎の狙いは織田ではない。この浅井家よ。…承禎が施すは離間の策、この上洛遠征を表向き成功させておいて、そののち浅井家を切り離す。信長公を京にて封じ込め、じっくり囲んで滅ぼす。二段構えの策と見た」
長政の看破は、まだ捉えきれぬ敵の急所をついていたはずである。それに与する遠藤も、思わず目を見張った。
「ふっ、さすがは長政さま…それだけ遠く、物事が見えるのであれば、信長めの末路が分からぬはずがありますまい…?」
長政は苦笑した。この男は何がなんでも、信長が失敗すると見たいらしい。
「分からぬな。信長公がどこまで天下を馳せられるのかも、憎き承禎めが、おのれの家を潰してまで、浅井家にいかなる害をなしたがるのか、それもな。だがこればかりはお前に言える。…お前はしょうこりもなく、自ら破滅の道に我らを誘っているのだ!」
この言葉が、この男の胸に響く日はいつくるのだろうか。徒労を感じつつも長政は、精一杯の気持ちを浴びせるしかなかった。
「ふっ、くくく…長政さま。こうなれば、仕方がありますまいな」
「喜右衛門、血迷ったか」
急に笑い出した遠藤を見て、長政は、身構えた。ここまで追い詰めれば、この家老が万一改心するか、思いきった暴挙に出るか、二つに一つと覚悟していたのだ。
「長政さまはご当主たるに、どうも相応しくないようだ。説き伏せられれば良いとは、思っていたがこうなったら、別の手段に訴えるしかありませぬな」
「ついに本音が出たな」
今のは手打ちにしても、当然の非礼である。公然たる謀反を遠藤は今、口にしたのである。たった二人とは言え、主人の長政が謀反人として遠藤を斬れば、ことはそれまでなのだ。
「近づくな!!」
遠藤は大喝した。長政が一足一刀の間合いに入ったとみて機先を制したのだ。
だがそれでも、長政からしてみれば、構わず斬ればよい局面である。いや、問答無用に拝み撃ちにしておけば良かったのだ。
長政には、それが出来なかった。例えば信長ならしたかも知れない。信長は何にせよしでかしてから、ことを考えるたちである。しかし、長政は違った。ふと、心に暗雲が兆したのである。
(この仕掛けに関わっているのはこの遠藤、一人ではない…)
激情のままに遠藤を斬って果たしていいものか。それが、長政の剣を鈍らせた。そこを遠藤に虚をつかれたのである。たかだか大声に過ぎないが、人間の呼吸と言うのは馬鹿に出来ない。無言で長政に斬られなかった、ただそれだけで遠藤は長政の気を呑む疑惑と言う化け物に成りおおせたのである。
「仕掛けは万端。…どうせ手遅れにござる」
さも意味ありげに、遠藤は言った。深謀遠慮を匂わせれば長政はますます、自分を斬れなくなることを、この男は知ってしまったのだ。
「この遠藤を斬っても、無駄。…かくなる上は、仕上げを篤とご覧じろ」
この日を境に、浅井家は長政の手を離れた。
(今頃兄上たちは、近江を出るかのん…)
この頃お市は、空を眺めることが多くなった。長政が去った方向へ、空模様を読もうとし、晴れて暑くなれば長い行軍の辛さを案じ、雨雲が集まれば、野営の長政の苦労を察しようとした。
「市さまもようよう、正室らしくなられたか」
火偸のは皮肉だが、長政を想う市はだんだんに、心細やかになっていった。
鉄炮隊列が一斉に放つ銃声のような雷迅が、空で炸裂したときである。小谷城が真っ白になるほどに雨が降りつくしたその晩だった。宿直の目をかいくぐり、お市は長政の書斎にいた。眠れないのである。そして、自分でも良く分かっている。長政に頼りたい、おのれの弱さが心もとないのだ。
(このわたしが、かように女々しい女だったとはな…)
火偸の皮肉を笑い飛ばせない。人には言えないが最近は、思い悩んでばかりいる。迅雷の如く、他人を蹴散らしていく兄、信長に迫れると思い上がった少女の頃が微笑ましい。この時代に惚れた男の妻になれたと言うのに、自分は不安に思い煩ってばかりだ。
だが、無理もない。秘密は人を弱くするものだ。お市はあの日、遠乗りに出て六角承禎から警告を受けたことを、誰にも打ち明けていなかった。
(逃げろ、と言われたからだ)
命が惜しかったら、長政を捨てて織田家へ帰れ。
六角承禎が言っていたのはつまり、そのことだ。従う気はないと、あのときは突っぱねたが、
(もしかして万一、そうなってしまったら…)
と思うと、不安で人に言えなかった。長政が兄を裏切るかも知れない。そんな恐ろしいことを一体、誰に相談したらいいのか。そう思うと、火偸にも埋火にも話しにくい。話せばいつか、自分が恐ろしい決断を迫られる気がして。
とめどない不安が、長政の書斎へ市を向かわせた。もし長政がいたなら、市はこのことを相談しただろうか。市は迷わず、長政を信じることが出来ただろう。その上で、承禎の罠を乗り切る知恵を出して行動できたはずである。すべては二人の間に開いた距離のせいだ。
だから夜雨の音を聴きながら、今夜も薄い眠りにありつくのだろう。市は、どうしたらいいのか分からぬままだった。長政の面影を求めて何気なく、書斎に忍び入ったときである。
「叱っ…」
柔らかな衣擦れの気配がしたと思ったら、市はいきなり藤の花の香気に包まれた。この雅な甘い匂いに、市は嗅ぎ覚えがあった。
「静かになさい」
声は、帰蝶である。




