第十九話 捨て身の罠
「長政どのが、兄上をう、う、裏切るだと!?」
市は一瞬、我を忘れた。もはや目の前にいるのがあの六角承禎だと言うことすら、失念していた。
「たわけたことを申すでにゃあわ!言うに事を欠いて、長政どのがそんなことをするなんて信じられるわけがにゃあわ!」
「あのなあ小娘ちゃん、そう興奮せんといてくれんか」
承禎は、無礼を怒る風もない。
「わしはな、親切で寄ったんや。曲がりなりにも、敵地のそれも浅井家なぞに嫁に入って、一生懸命やっとる、そんなあんたが健気やと思うたから、気の毒なことにならんように、冥土の置き土産をやなあ…」
「なっ!なっ!ぬわにがっ!冥土の置き土産だでや!おのれっ、その一言で心底知れたでかんわっ!やはりこの市が命を狙いに来たのだな!?」
「だから落ち着けて。あのなあ、わしがその気になったらなあ、あんたなんかに騒がれずにやるし、その後、誰にも騒がれずに去れるのや。それがわざわざ、危険を冒してこの面見せた理由…分かるやろ?」
「分からんっ」
「…それならええ。まあとにかく、危険なのや。あんた、死にたくなったらさっさと小谷を出え。なりふり構わず出え。忠告はしたったからな。…ほな!」
「ま、待て待て待てえ!おのれは、お尋ね者であろうがや!ここで会ったが百年目、逃しはせぬぞ!」
お市は勝てる目算もないのに、大手をふるって立ちはだかった。
「なんや、やるんか?わしは観音寺を明け渡した。今さらこの隠居の首、取ろうともなんの意味もないで?」
「長政どのや兄上が今、攻めておる城を明け渡した、などと!見え透いた嘘も大概にせえ!ここへは大方、何か策を仕掛けに来たのであろうが!?」
「はは、策か。…策なら、もはや成った。だがなあ、わしの『目的』はあくまで、信長と長政や。この二人にさえ、吠え面かかしたったら、それでええのや」
「吠え面だと!?かくのはおのれめであろうが!し、知っておるぞ!もはやそのー…城が落ちたのであろう!観音寺じゃなくて…そう、箕作!箕作城が!」
と、市が得意満面になって言ってやると、承禎は自分の顔をぴしゃりと平手で真っ向から叩いて、
「せや。あれはやられたあ、わしの負けや。…これでええか」
「馬鹿にしておるな!?」
「やっと分かったか」
「ぐぬ…!」
そこまで言われてさすがに、お市も、闇雲に怒鳴るのを止めた。実はさっきから気になっていたのである。なんだろうこの風に柳と言うか、ひらひらと、のらりくらりと、まるで正体の分からない承禎の態度は。
「もうよい。…話したいことがあるならば、この市に勝手に話し尽くしてとっとと去ればええだわ。どうせこの市にはかなわぬ手練れであるし、別して追いはせぬ」
「なんや、急に潔うなったな。…だが、神妙なのは感心や。ならせっかくやから、聞いたらどうや。今、色々疑問に思うことあるやろ。なんでわしが、城を明け渡しても余裕でいられるか、とかな」
と、意味ありげに言う承禎を、市は白い目で見た。
「要はしゃべりたいのであろう?」
「ふっ!そうや。言われてみれば確かにそうやったかも知れん。誰もおれの腹のうちなど気にしてへんからな」
承禎は言うと、腰縄につけた何かをおろし始めた。見るとそれは、干魚である。腰瓢箪には酒も入っているらしい。
琵琶湖の畔で、二人は焚き火を囲んだ。干した魚を炙る香ばしい煙が、漂ってくる。承禎が毒味とばかりに先に口をつけてみせたので、盃で酒の相伴にも預かってしまった。
(調子の狂う男だわ)
見た目は本当に、どこの寺にもいそうな老住職と言う感じだ。だが賤ヶ岳で、帰蝶たちを翻弄した凄まじい忍びの技の冴えを、市も目の当たりにしているし、決して油断ならぬ存在のはずなのである。
「さて、どこまで話したかの」
承禎は、酒を飲むとさらに語り口が気安くなった。
「そうや。わしが城を捨ててきたことやな。…間もなく、観音寺城も落ちるであろう」
「まさか…!」
と、市は言ったものの、考えてみれば当の城攻めされている大将がそう言っているのである。
「かっての室町将軍が手を焼いた六角氏を難なく退治て、信長は得意絶頂で、京へ凱旋するやろう。長政もそれに着く。軍勢は六万や。華々しくてかなわん。されど、目出度いのはここまでや」
それが言いたかったのだと言う顔で、承禎は何故か、自分の膝を叩いた。
「信長は高転びする。浅井長政に裏切られてな。織田の兵は立ち往生、これで終い、間違いなしや」
「だから!それが信じられぬて!まず、長政どのが裏切るはずがにゃあで。誰がどんな策を弄しようとあの人の心は変わらんでかんわ!」
「なるほどな。…愛妻の意見ちゅうやつやな」
「馬鹿にしておるな?」
「馬鹿にはしてへん。それはそれで正しい。妻として間違ってない。だがあんたは武家のことが分かってへん」
「どう言うことだでや?」
いかにも率直に、市が尋ねると承禎は、老獪な笑みを見せた。
「そうやな。…例えば、わしや。わしは何者か。由緒ある六角家の当主にして、南近江の支配者や。観音寺城はじめ、城もようけ持ってるし、家臣どももおる」
「それがどうかしたのかや?」
「『それでも』言う話をしとる」
承禎は、片頬に深いしわを刻んだ。
「簡単に言えば、わしはえらい。だがえらいわしでも、ぎりぎり自由になるんは、おのれの身の振り方一つ。そやな、いくさ放り出して、さっさと城を落ちてくることくらい」
「だからなぜそんなことするか?」
「『不自由』だからよ」
承禎は、意味ありげにその言葉を口にした。
「武家の大将はみな、えらい。だがえらい故に、決められることはごくわずか。だから『不自由』なのや」
「訳が分からんでや。だって、えらいのであろう?」
お市は眉をひそめた。
「なぜえらいか、と言うことだ。血筋家柄筋目が良いからと人は口では持て囃すが、自分に利益をもたらさんものに命までは懸けん。えらい人は『推戴』されておるから、えらいのだ。推し戴かれるゆえ、担いで意味ない神輿に成り果てれば、放り捨てられるまで」
にべもなく承禎は言うと、
「例えば長政の浅井家。世間ではあれが十五歳にて野良田合戦を制し、その武名で保っていると思いがちや。だが実態は、浅井家使って美味い汁吸いたい豪族、国人どもが担ぎ上げるゆえ、保っておる。それが浅井家の家老よ。彼らにそっぽ向かれては、長政は大名ですらいられん。ゆえにおのれで決められることはごくわずかでしかない。信長より確実に少ないだろう。いや、むしろこのわしよりも『不自由』や。どや、間違ってへんやろ」
「それは…分からないが、長政さまは兄上を裏切ることなどないはず…!」
どうしてもそればかりは、想像もしたくない市なのだった。
「まあ、あくまでそう思うならそう思って、良かろう。大名が娶る他国者の妻が、取るべき道としてそれも正しいのかも知れんな」
さっさと、自分の魚と酒をおえると、承禎はすそを払った。
「後は一人で考えるといい。そして何かあったらでええから、わしの言葉をせいぜい思い出して、自分の身だけは、守ることや。ほなな」
市は引き留められなかった。信じたくないと思いつつも、承禎の不吉な言葉が、耳に残って離れない。迫る危険から、長政と自分を守る術を知りたかった。
長政が信長を裏切る。
その承禎の予言はまだ現実のものではないが一つ、すぐに明らかになったことがある。
観音寺城が落ちた。
六角氏は戦わずして、信長に敗退したのである。




