第十三話 兄の思惑
「殿、岐阜にて、信長公が馬揃えをなし候。…集まりたるはかねての上洛の軍勢と見えまする。その数、五万は下るまい、とのこと」
「さすがは義兄上だ」
すかさず、長政は答えを返す。この日、たった一人で伺候したのは、くだんの遠藤喜右衛門尉である。
(なんのつもりだ)
とも、長政は思わなかった。確かに、織田家を疎む内心は知っている。
だが、将軍の動座はつつがなく済み、ことは順調に推移していた。意趣を含んだ身とは言え浅井家の家老、この期に及んで妙な横槍は入れるまい、と長政も思い直していた。
「いよいよだな」
長政は明るい口調で言った。信長の晴れがましい一報である。この大軍が動き出すとなれば、上洛は揺るぎないものだ。
「我らも、支度をせねばなるまい。…生半可な軍備では、情けなし。織田勢に見くびられるぞ」
長政は試すように言った。遠藤は、抗わない。
「さん候。馬揃えの件、浅井家の名に懸けて、つつがなく進めておりまする」
上洛の織田勢は五万、恐らくこの近江路を往くことになるだろう。長政も手勢を率い、その水先案内を努めることになる。浅井家としても、家運を賭とした一大軍事行動となろう。
「して、もう一案件」
と、遠藤が自らの切り出したのは、そのときである。
「それが登城の用事か?」
長政が先走って尋ねるのに、遠藤は苦笑を含み、
「信長公、ご来訪の一件にござる。先方の使者と打ち合わせも済み、こちらも滞りなく進み候」
「うむ。こちらも浅井家を上げての接待になろう。抜かりなくやってくれ」
「無論、怠りなく」
と、短く答えてから遠藤は思いついたように、
「ちなみに接待の儀は、この小谷城にてあらず」
「何だと?」
長政は、眉をひそめた。
「会場の変更は、先方の希望でござる。…どうやら供連れは小姓、旗本合わせて二百五十人余り、かの小谷の本拠へ来るにはさしもの信長公も、気後れがするのでござりましょう」
「かようなことを聞いているのではない。まず、なぜ早く場所替えをこの長政に伝えぬか」
「いや、なに。実を申せば、この遠藤もたった今聞いたゆえ、取り急ぎご報告に参った次第」
長政が顔色を変えるのを楽しむように、遠藤はほくそ笑んだ。
「織田家は、どこがよいと言うておるのだ?」
長政が声を硬くして聞くと、遠藤は形だけは畏まって答えた。
「佐和山城にて候」
「佐和山城だとお!?何ゆえ兄上は小谷に来ぬだわッ!」
遠藤からの一報は、市の血相も変えた。
「すぐに…岐阜へ戻る予定だからだと思います。ご城下にはもう、上洛の軍勢が集結していますので。佐和山は、美濃西との国境ですし、両家が落ち合う場所としてはこの小谷よりも安心かと…」
埋火が恐る恐る答えたが、市はそれどころではない。
「この日のために、どれだけ準備してきたと思っておるのだわッ!兄上はッ!もおおー兄上はぁッ!」
「大声は控えなされ。奥方ともあろう御人が、みっとものうござるぞ」
火偸がいつものように、水を浴びせる。
実はこの場にいるのは、この二人ばかりではない。遠藤から変更を知らされ、急ぎ奥へ知らせに来た長政もいるのだ。
「気づかずにいてすまなかった。この件は、長政の手落ちでもある。…お市には佐和山へ同道出来るよう、取り急ぎ計らうつもりだ」
「良いのですか、長政さま。…その、遠藤と言う家老の思惑はどうあれ、うかつに市さまを連れて行けば、信長さまの意に沿わぬことになるのでは?」
何か知っているのか、火偸はすでに訳知り顔である。
「兄上の意に沿わぬ、とはいかなる意味だでや?」
「…佐和山で会う意味があるのではないでしょうか」
埋火が代わって答えた。
確かに、普通の婚礼の返事ともなれば、小谷へ来れば良い話だ。それが急きょ、今になって佐和山へと変わるのには、政治的な背景があると言わざるを得まい。
「相談したいことが、別儀にあるのだろう、と思う」
長政がそれを、口にしたのはそのときだった。
「佐和山には、丹波守がいるのでね」
「誰じゃ?」
市は火偸へ、水を向ける。もちろん、火偸もそれを心得ていたようだ。
「佐和山城主でござる。磯野丹波守員昌。浅井家を代表する名高き猛将」
かつては京極家の家臣である。浅井家の先鋒と言えば、この磯野員昌が預かることになっていた。
「員昌は、さる男の天敵と言って良い男だ。信長公が退治を相談するには、最もうってつけの相手」
さる男、とは言うまでもなく、六角承禎のことである。京都上洛に向け、近江第一の障害となる南の六角家領を信長は武力で押し通る腹積もりなのだ。
「この長政にとっては、年来の敵を除く好機となる。信長公がその気とあれば、こちらも念を入れて相談に及ぶ考えだ」
「と、言うことは兄妹団らんは後回しでござるな」
どこか、引っ掛かる言い回しで火偸は言う。長政が立ち去ったあとだ。
確かにさすがに武張った席ともなれば、奥方を伴って和気あいあいとはいくまい。
「必ずそのあとで別席は設ける」
長政は念を押して市を説得したが、佐和山に市を伴うとまでは言わなかった。
「こうなったら、自力で佐和山に行くしかにゃあで…!」
「お市さま、正気ですか!?賤ヶ岳の一件で勝手に出歩くなと、長政さまにもきつく言われておりましょう!?」
さすがに火偸たちは、色をなした。
当然である。賤ヶ岳のような火遊びが続いては、二人も身が持たないと言うところだろう。
「それはそうだが…この市も、承禎めの顔をみておるゆえ、役に立たぬと言うことはにゃあで…」
「お市さまは奥方にござりましょう。…居場所は奥向きになさいませ」
「だが…」
「長政さまが機会は作ると仰せでしょう。信長公には会えまするゆえ、くれぐれも大人しく!」
賤ヶ岳の件があるので、市も表立っては二人に抗えない。だがその脳裏には、帰蝶が置き土産にした言葉が、居残っていた。
(いざと言うとき、兄上や長政さまをお守り出来るはこの市しかいにゃあで…)




