第十二話 城中の脅威
「待たせたな、十兵衛よ」
岐阜城大広間に入った信長は普段よりも、気安い口調になる。せんだって、将軍と対峙したときよりも、親しみが深いと言っていい。
明智光秀がそこに控えていた。足利義昭の側近である光秀は当然、今回の動座の供回りに名を連ねている。
「ご無沙汰しており申す。…お陰さまにて、岐阜殿は頼もしき限りと、公方さまもご機嫌斜めならぬご様子」
「で、あるか」
信長は毛脛を放り出すと、光秀のすぐ前に座り込んだ。
「ふん、これで『上洛手形』の方は抜かりのう手に入ったでかんわ」
手形、とは義昭のことである。将軍を通行手形呼ばわりされても、光秀は顔色一つ変えない。何しろこれは、密談なのである。
「せんだって申しました通り、手形の方は容易く候。元を正せばただの学僧、我と細川どのにて作りあげし急ごしらえの将軍にて」
「こやつめ、不遜なことを申すだわ」
むしろ信長がたしなめた。将軍の正体についての認識は、信長も光秀も同じ穴の貉である。と、言うよりそもそも信長をその穴に引き込んだのは、この光秀なのである。将軍擁立からこの方、そのからくりは裏の裏まで話し尽くしていた。
つまり。
手作りの将軍を守り立ててくれる有力な大名を探し当て、その借り物の軍事力によって、幕府の復権を図る、と言うのがこの光秀の魂胆である。
目的は一にも二にも、京都の治安回復。信長の後ろ楯を受ける義昭がどこまで行っても実体のない権力者であると言うことは百も承知なのである。
現在の三好三人衆が牛耳る洛中は、それほどにひどい。一にも二もなく彼らが率いる悪党足軽たちが蔓延るお陰であった。
食い詰め者の集まりである彼らは安い対価で働く代わりに徹底的な乱暴狼藉、持っていくものは戸板ですら引き剥がしていくと言う強欲ぶりで、永らく京を荒廃させる元凶となっている。
信長の上洛は、その元凶を一気に一掃する絶対的な正義を喧伝するものとなるだろう。天下公認の武を以て、悪を祓う。これこそまさに信長自身が掲げる『天下布武』となろう。
「上洛はこの信長の名に懸けて、空前の軍勢を率いて臨むでかんわ」
信長は、すでに上洛の空を仰いでいるかのような眼差しだ。
「大望ある信長公なれば、必ずや実現かないましょう」
と、晴れがましく言ってから光秀は少し声を潜めた。
「して次なる問題は、行路の露払いにてござりまするな?」
光秀は地図を取り出した。そこには朱筆で、近江路から京都に至るまでに信長が行き当たる敵の名が書き込まれている。
「さしあたっての問題はこの御老にてありましょうや」
訳知り顔の光秀は、その中で一際大きく書かれた文字を指す。南近江を覆い尽くす『六角承禎』。その四字に、信長は鋭い目を細めた。
「…やはり承禎は、仕留めておくべきでしたね」
帰蝶はなんとまだ、小谷にいる。あれから、市たちが奥へ匿っているのである。
「…そろそろ、帰って欲しいだがね…兄上もすぐ、この小谷へ来ると言うとりゃあすし…」
「何か言いましたかお市どの?」
「いえ何も全然!」
市はあわてて、口をつぐんだ。
正直なところ、帰蝶との一件は、早く忘れたいのである。今は長政に頼まれた信長へのもてなしの準備に集中したい。帰蝶が、小谷に残っていると気が気でないのである。
(もし兄上に、賤ヶ岳でのことが知れたら…)
それはもう、おもてなしをする、などと言うどころの騒ぎではなくなるだろう。
「そんなに心配な顔をしなくても良いのですよ。…おやかたさまが、まもなくここへ来るのでしょう。帰蝶は今日中には消えますから」
「いやっあのっ…そおゆうつもりでわ…!」
思ったことが、すぐに顔に出るお市である。
「ただし、戻るに当たっては火偸を借りていきます。少し岐阜で用事があるので。…埋火、お市どのの身辺が手薄になるけど任せていいわね?」
と帰蝶は、火偸と共に傍らに控えている埋火を見る。
「はいッ!…お市さまの御身、こたびのそは、この埋火の命に変えましても必ず!」
「いやいやいや…!重い!重いでや、埋火!そんなに思い詰められておられては、この市の息が詰まるだわ!」
「ごめんなさいっ…」
埋火は、声を絞って顔を伏せた。
もともと思い詰める性質なのに、そこをさらに追い込まれては、こっちが根を上げてしまう。
埋火は、賤ヶ岳の一件で、帰蝶の身も市の安全も守れなかったことを、悔やみすぎているのである。この帰蝶すら、防ぎ得なかった六角承禎の忍術はやはり、一筋縄ではいかない。
「いいのよ。この子は少し、反省しないといけないの。…次に同じ轍を踏めば、お市どの、あなたの身が危うくなる可能性が高いのだから」
「へ?…いったい、それはどう言うことで…?」
思わぬ帰蝶の不穏な言葉に、お市は首をかしげた。
「この小谷には、おやかたさまの命を狙う人間がいるでしょう…?」
「えっ…」
市は思わず、息を呑んだ。無論、まったく心当たりのないことではない。そう言えば、輿入れの初夜にも事件が起きたし、長政からじかに注意も受けている。確か、裏で糸を引いているのは、
「遠藤喜右衛門尉」
と言う家老だ。
「妾も、その名は耳に入れておきましょう」
市からその名を聞いて、帰蝶は、神妙にうなずいた。
「その上で何か心当たりがあるなら、細心の注意を払うこと。…何かがあれば長政どのは、動くのが難しい。表向きのことをつつがなく、しなくてはなりませんからね」
帰蝶は音もなくすり寄ると、いつの間にかお市の手を取っていた。
「今度こそどうにか出来るのは、本当にあなたしかいないのだから」




