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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第十一話 将軍と信長

「それは随分、無謀な真似をしたね」

 と、言う長政の眉間のしわは、見たこともないくらい深かった。


 あの賤ヶ岳での死闘がすでに遠い過去のようである。


(思えばあれは、何であったのか…)

 当事者の市ですら、上手く語る自信はない。


 結局のところ。

 六角承禎には会えたものの、まんまと目的を遂げられ、尋ね者の龍興も取り逃がした。後に残ったのは遺体ばかりである。そう言えば小谷城に収監されているはずの赤兵衛を、牢内での病死と言う形で取り片付けるにあたっては、長政の手をかなり煩わせただろう。


「…そう言うことを言っているのではないよ、お市」

 長政の憂慮は遅れて、市の手柄話を聞いたところから始まっているようだ。

「弓矢をとって龍興と渡り合うなど。かような危険を犯されては、この長政、信長どのに顔向けが出来ない」

「申し訳ありませぬ…」

 ここは、謝るしかない。市はすぐに観念した。


 何しろあれほどに心配して送り出してくれた長政を不安にさせる無謀な行動に出たのだ。あの場合は、帰蝶を救うためのやむを得ない行動だったと言う言い訳も、ひとまず呑み込んでおこう。


「負傷したのが市ではないと知って、ほっとしてしまった。不慮の傷を負った人間は他にいると言うのにね。…あまり、心配させないでほしいな」


 第一報に負傷者が出たと聞いて、長政の心労は相当に深かったようだ。


 だが不幸中の幸いと言うべきか、負傷したのは帰蝶であり、それも言うほどの傷ではなかった。龍興の上から、承禎に蹴り落とされたときに、額を擦りむいた程度である。これくらいで済んだと言うのが、むしろ奇跡的だ。


 しかしそれより問題は、帰蝶が目覚めてからのことだった。まるで魔性が覚醒したようだった帰蝶を鎮めるのに火偸と埋火はかなり苦心したようだ。


「次、同じような事態になりそうなときには…必ずこの長政も同道させてもらう。もはや否やはござらぬぞ」

「はあ…」


 珍しく長政は、市を説教した。もちろん、言葉を重ねるほどに、自分の身を案じてくれる長政の気持ちが市にも痛いほど伝わってきた。なので次はもっと、長政が心配しないよう危ない橋は極力渡るまいと心に誓う市だった。


「元々、承禎との因縁は浅井家の領分。龍興めも含めてあの老体の暗躍には、向後も目を光らせておく。…それより、お市どのは、長政に再び知恵を貸して欲しく」

「知恵…でござりまするか?」

 市は首をかしげた。

「義兄上が、この小谷へ来る」

 長政は、晴れやかな声音で市に告げた。

「えっ、兄上が…何故(なにゆえ)!で、いつおいでになりゃあすのか!?」

 市は我知らず、声を上擦らせた。何しろ信長に出会うのは、もはや輿入れのとき以来のことになっている。

「理由は二つ。一つ、長政はまだ、織田の市姫を頂いた礼を、信長公ご本人にまだ、していない」


 浅井家の婚礼は、織田との政略的行事なのである。従って両国の誼を深める、と言う政治的目的を果たすのには、花嫁をもらった礼を長政が、舅代わりの信長にするのが、最も分かりやすく、手っ取り早くもあるのである。


「でっ!ではッ、また兄上の度肝を抜くような珍しいご馳走を…!?」

「いや、こたびはそれほど堅苦しく考える必要もない。接待の段取りは城方の人間が考えるし、市どのは信長どのの気に召すよう、ご本人の好き嫌いの具合など、こまめに口入れしてくれれば」

「は、はあ…分かりました」


 不承不承ながら、市は安請け合いをしたが、もうしばらく会っていない兄である。信長の好き嫌いを教えるとか、そんなことで長政の役に立てるだろうか。


「大丈夫。…本当にそんな難しい話ではないから」

 長政は市の緊張を見透かしてから、口調を和らげた。

「実際のところ、ただ、楽しみにしてくれればいい。久々に信長どのに会うのを。必ず水入らずの時間を作るゆえ」

 長政は限りなく、優しい。


 時折、その細やかすぎる気遣いに、甘えきってしまって良いものか、市は心配になるが、この場合は、素直に嬉しかった。往時は、片時もその姿を見失うまいと、つきまとった憧れの兄に再会できるのだから。


(兄上はまた、大きく変わられておりゃあすのか…)


 思えば稲葉山を獲って、岐阜を称したとき、信長の全身にまとう覇気は、さらにまばゆいものになっていっていた。


 その信長が小谷へ足を運ぶ二つ目の理由は、長政が手を貸したことに関わる。それは言うまでもなく、足利将軍、義昭の動座である。


 余呉湖の会見で、朝倉義景から浅井長政の保護下に移った義昭は、三日の小谷滞在を経て、今度は岐阜へ向かったのだ。


 七月二十七日、義昭は美濃西ノ庄立政寺に到着した。


 一重麻地小紋染めの素襖に、烏帽子をつけた足利義昭は、覚慶と称していたときは痩せぎすで、眉根のしわが深いのが目立つばかりのいかにも学僧上がりの男だったが、今やそれなりの威厳をまとい始めている。


 ここ数日、武家貴族としての心利いたもてなしを朝倉家、浅井家と渡り歩いて受けるうちに、堅苦しさが解け、世人が求める将軍の姿を演じられるようになったのだ。


「信長はまだか」

 などと、見苦しく騒ぐこともなくなった。遠路、京を離れ、三好三人衆たちに追われていると言う実感も薄れてきて、逃亡生活にも余裕ができたお陰とも言えよう。


「くれぐれも、卑屈になりませぬこと」


 と、義昭をことあるごとにしつこくしつけたのは、細川藤孝と明智光秀であった。


「今をときめく大名衆が、自前の領国一つ持たぬ御方を公方さまとなぜ慕うか。それは何より、畏れ多くもその御身に備わりましたる血筋と威厳あってこそ」


 将軍とは、まさに将棋の駒の王将そのもの。例え飛車角退き、側近の金将銀将を奪われたとしても、王たる駒はその動き方を変えることは決してないのだ。だからこそ、人はその見えざる威厳を尊いと感じるのである。


「織田弾正忠馳せ参じましてござりまする」


 と、義昭が奏者の声を聞いたのは、彼が立政寺に落ち着いて二日後のことである。


(どれ)

 と、上座で身じろぎした義昭は、身につけた威厳で信長を伏させる気で待ち構えていた。


 やがて、身ごなしの軽い、すらりとした長身の男が入ってきた。それだけで義昭は目を見張った。


 涼やかな青色織筋小袖を着こなし、肩衣に半袴姿のその男は大きく月代を剃りこぼち、茶筅髷を美しく結い上げ、輝くような気品に満ちていた。


 いくさに明け暮れる悪党大名と聞いていたが、その悪名とは程遠い。思いの外、色白の肌は日の光を弾き返し、縦にしっかり通った鼻筋は、覇王の面構えである。


 だがそれにもまして、上座の義昭を居すくませたのは、その切れ長の眼差しであった。


 抜き身そのものと言っていい切れ味を持ったその眼光は、たった一瞬で義昭の肚の底まで見抜こうとするように一瞥をくれてきたのだ。


 本来、貴人を直視するような無作法は、室町式の礼法では許されていない。しかし信長は、あえて平伏する刹那の隙をついて、義昭と言う男を値踏みしたのだ。


 事実、たったそれだけで義昭は一気に口から肛門まで、串刺しにされたような恐怖を味わった。


 信長は、平然と挨拶の口上を述べている。甲高く張りのある声だ。だがそのよく通る声が話す内容を義昭は、まともに聞く心地になれなかった。


(ふん、彼奴めが将軍かや)


 話しながら、信長は義昭に値をつけていた。信長の肚に聞けば、少なくともこの将軍は、王将の駒などではない、と断じただろう。だが、大事な駒である。


 この男の目的は無論、自らが王将たることであった。そのために使える駒は、すべて使う。その脳裏には早くも、この将軍を飾り雛に、浅井長政とともに上洛を果たすべく絵図が描かれていた。






















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