第七話 承禎狂奔
まるで存在自体が、幻戯のような男だ。
底冷えするような気持ちで市は身震いした。しゃべり言葉はもの柔らかな近江言葉だがそれが冷ややかに、妖しく聞こえるほどに。
「…おっ、おのれ…いつの間に…」
赤兵衛はもう、足腰が立たない。首の出血を手で懸命に抑えているが、着ているものがみるみる黒く濡れ始めている。剃刀のような薄刃で裂かれたあの傷は、致命傷に近かった。
「赤兵衛、それにしてもお前腕が落ちたのう。…まさか、この程度の変相が見破れんとはなあ」
六角承禎は手のひらでつるりと、おのれの顔を撫でた。何か、化粧でもしていたのか。気づくとなんと、あの願人坊金渓の放浪焼けした青黒い肌色が一変している。どうもその肌色は、顔料で作っていたようだった。
しかし、だ。ただそれらしい顔料を塗ったばかりで、果たして面相まで誤魔化せるものなのか。ついさっきまで明らかにこの座の誰もが、この男は赤兵衛の古馴染みの僧俗くずれだと思っていたのである。
「優れた忍びは、人相を変えるとき顔つきすらもおのれで変えられまする」
火偸が、言った。
だから変装ではなく、変相なのである。相好を変えているのは、化粧だけではなく、術者の超人的な演技力によるもの。立ち居振る舞いは当然のごとくして、それはその人物の持つ雰囲気や、果ては顔つきすらも、似せてしまうものなのか。
「お初にお目にかかります。あなたが、六角家の承禎さまでしたか」
帰蝶は、ゆったりと尋ねた。今、この座にいる全員の腰が浮きかけているが、この蝮の姫は、動じない。思い切り虚を突いて驚かせることが、相手の目的だと知っているからだ。
「そう言うあんたは、どこのお姫様だったかね?」
承禎もまるで、たまたま道で会った顔見知りに話しかけるかのような口調で帰蝶に向き直った。
「…そうや、分かった。美濃の蝶火…稲葉山の帰蝶どのか。今は織田の正室やったな。えらい大きゅうなったもんや」
まるで人を喰ったような男である。名家の当主を務めた男と言えば、もう少し格式張った男を予想していたが、拍子抜けするようだ。
だがこの男が別の意味で厄介であることは、すでに見せつけられている。今は指にたばさんだ髭剃りのような刃物が一本きりだが、他にどんなかくし球を呑んでいるか、知れたものではない。
証拠に帰蝶はまだ、手勢を出さない。埋伏している火偸もじりじりしているだろうが、承禎の出方が読みきれないからだろう。
「今宵は、僥倖であった。赤兵衛がごときしみったれにしては、酒も食い物も、上等の振る舞いであったしなあ。…それが織田家のおごりで宴を楽しみ、旧交も温めた。わしにとっては、とても満足な催しやったわ」
「よもやもう、お帰りになられるおつもりですか。こちらはまだ、おもてなしが足りませぬと思うておりますのに」
「はは、蝮の娘よ。これで十分じゃ、欲を掻くな。この老体など噛んでも、腹を壊すだけぞ」
さすがに承禎は貫禄がある。逃げ腰を口にしながら、帰蝶の殺気を上手くいなしている。見せつけるように二指でかざした血まみれの剃刀には、それだけの牽制力があるのだ。
「な、何かないのか火偸…!」
市は火偸の袖を引いた。言われなくても火偸は、組立式の半弓を用意している。
「それでも無闇には射れませぬぞ、お市さま」
矢をつがえながら、火偸は短く舌を打つ。位置が悪いのである。なるほど、月明かりがある今夜、見通しは悪くない。だがこの場所では、同一斜線上に、帰蝶を捉えてしまう。
「いざとなれば、帰蝶さまを人質にとる。恐らく今の承禎の魂胆はそこにありまする」
市は覚えず、息を呑んだ。
承禎は単身である。
もしかしたらどこかに助勢を隠しているかも知れないが、そこに今、たった一人であることは確かだ。帰蝶に見破られたとは言え、堂々とそこに正体を現したのは、勝算があるからである。
帰蝶を人質にとる。最困難に見えるが、それさえ出来てしまえば、状況は一変する。そうなったら、この場の誰も手は出せない。
(裏目に出た)
織田信長の正室がいると分かった以上、相手がそこに活路を見出してくるのは、自明の理である。
「これはしくった。今、この市があそこにおりさえすれば…」
「余計最悪でござる」
火偸は、呆れた声を出した。
「だが…まだ、帰蝶さまが人質に取られたわけではありませぬ」
帰蝶にももちろん、危険に身をさらしている自覚はあるはずだ。
しかし、この蝮の娘は慄きはしない。何者にも平等たる蛇の双眸で冷たく潤ませて、事態のなりゆきを見守るばかりである。
「とは言ったもののさて、どうやって帰ったものやらのう帰蝶どの」
暢気そうな口調で、承禎は言う。しかしその足元では、赤兵衛が死に瀕している。すっかり血の気を喪った身体からは震えが去り、紫色になった唇からは、かすかなうめき声が漏れるだけだ。
「せっかくじゃ。織田の土産くらいは欲しい」
承禎は、大きく目を剥いた。あからさまな脅しである。帰蝶もかすかに間合いを読んで後ずさった。
しかし、ことは承禎の思惑通りには運ばなかった。
「…待っ…たんかいッ!」
承禎の足首に、瀕死のはずの赤兵衛が両腕でしがみついたのだ。
「土産ゆうたら、わしが冥途の土産が先じゃろうがッ!…おのれの気まぐれで仲間が何人死んだか…!おのれの罪に一矢でも報いなんだら、わしの命は終われぬわいッ!」
「黙れ下郎」
赤兵衛が、承禎の動きを封じている。するとその間に帰蝶は、一歩飛び下がることが出来た。
「承禎を捕えなさい」
帰蝶が命じるとともに、埋火をはじめ、武器や網を持った帰蝶埋伏の忍びたちが、隙なく飛び出してきた。
「おのれッ!」
「殺さないのよ、分かりましたね?」
帰蝶の合図で、投網がかけられる。死にかけの赤兵衛もろとも、承禎の姿は忍びが使う黒く塗られた網の中へ捕えこまれた。革を巻いた棍棒を持った手勢が続いて群がる。この革棍棒で殴られれば、さしもの承禎と言ってもなす術もない。生け捕りの獣同然だ。
「網を曳きなさい」
頃合いで、帰蝶が捕り方を下がらせる。このまま網を曳けば、承禎が罠にかかった熊のように、そこへ横倒しになるはずだった。
「おりませぬ…!」
しかし、網の中に承禎はいない。そこで無惨に叩きのめされていたのは、すでに死体になっていた赤兵衛であった。その咽喉仏の辺りには、止めとばかりに、棒手裏剣が深々と打ち込まれている。
「捜しなさい。…まだ近くにいるはずです」
帰蝶が、ざわめく配下どもを鎮めようとした時だ。ふいに背後から、二つの腕が音もなく伸びてきて、帰蝶の肢体を絡め取った。その咽喉首には、さっき赤兵衛を殺した剃刀の刃が当てられている。
「はい、お疲れさん」
承禎であった。
「全員、足元に得物捨てえ」




