第四話 帰蝶の宿
「忍び…宿…?」
無論、市には聞きなれぬ言葉である。
「忍び宿と言うのは、忍びたちの寄り集まりのことですよ」
同じ姫育ちなのに、帰蝶は精通しているようだ。
「諸国諸家に渡り歩く忍び働きの者たちが、手持ちの情報を分かち合うのです」
実力主義の忍びたちの生きるよすがのようなものだ。本来なら主人がいる忍びたちがここで情報を漏洩することは内通行為なのだが、これを禁じれば逆にどんなしっぺ返しを喰うか分からないので、黙認する武家がほとんどであると言う。
「承禎は自ら忍びのふりをして出ることもある、と聞きます。ご本人も、甲賀流を修められているようですし、何よりこの外道がお好き、と言うことらしいですしね」
帰蝶は我が身も省みず、ほくそ笑む。なるほど、六角家は名門の家柄ではあるが、承禎にあっては、忍術で保ってきた家柄としての、並々ならぬ矜持があるらしい。
「何しろ、芸の多い方と聞きます」
それに関しては帰蝶も、長政と似たような見解のようだ。
「この近江で、何か目に立つ出来事があるとするならば、必ず一矢は報いてくる腹積もりはあるでしょう」
承禎は、将軍の動向について情報を欲しがっている。ならば下手に秘匿するよりも、こちらから胸襟を開いて相手を誘い込もう、と言うのが、帰蝶の魂胆のようだ。
「畏れながら、危険すぎはしませぬか?」
「本来、危険は承知でお前たちをここへ遣わしたつもりなのよ?」
火偸が恐る恐る諌めたが、帰蝶は、歯牙にもかけない。
「二人では頼りないから、この妾が来たのでしょう。忍び宿を開くなら、ある程度、名の知れた忍び者の顔がなくては人は集まりません」
「え…でもまさかそれは、帰蝶さまのお名前で集めるおつもりなので?」
口に出してから市は、自分でも愚問だったと思った。
「妾の名は使えません。…しかし、顔を借りることぐらいは出来るでしょう」
「お話の意図が掴めませぬが!?」
いつもながら、帰蝶の考えは突飛すぎて捉えようがない。だが、火偸が心配する通り、危険極まりない策であることは確かなようだ。
「この男は欠け脚の赤兵衛と言う、古い忍び者です。甲賀の里を足抜けして、馬泥棒をしていました」
帰蝶が連れてきたのは、小谷城の地下牢である。市などにはまだ、こんな恐ろしい場所があるとは夢にも思ってもなかったところだが、帰蝶はその勝手も知っているようだ。
長政が命じて、牢から罪人を引き出させている。引き立てられた男は、白髪混じりの初老だ。薄汚れた胴服に頭巾を被った風体は一見、商人上がりと見えたが、不穏に赤らんだ眼に盗賊の罪業が宿っている。
「まさかこの男の主催と偽って、忍び宿を?」
帰蝶はこともなく頷いた。これは想像以上の危険である。
「赤兵衛は抜け忍の盗人です。…忍び宿を開いたのなら、甲賀者の忍びどもから格好の標的になるやも知れませぬ」
「忍び宿を修羅場にするおつもりですか…?」
恐ろしく危険な気がするが、帰蝶は、気にしていないようだ。
「その方が、甲賀者の人目に立ってかえって好都合でしょう」
「ですが、それはただ危険なだけで、そこに承禎が現れるとは限らにゃあのでは?」
余りにもなことのなりゆきに愕然としている火偸たちに代わって市がもっとも聞きにくいことを、尋ねた。
「大丈夫、承禎は必ず現れます。それだけは、妾が保証します。…されどそれ以上は、言わぬが花でしょう」
確証のある口ぶりで、帰蝶は即答する。だがその確証をここで、つまびらかに話すつもりはないようだ。
「赤兵衛、この忍び宿の夜を生き残ればあなたは放免してあげます。顔を貸す条件はそれでいいわね?」
「ああ、おれに異存はねえ」
物憂げに赤兵衛は、うなずいた。この男も中々、酔狂な盗人だと、市は思った。
どうやってこの帰蝶に持ちかけられたのかは分からないが、自らの命を的にして因縁ある甲賀者たちを呼び込もうと言うのだから、生半可な理解が及ぶ世界ではない。
「赤兵衛、あなたも稲葉山の大釜で油煎りされるよりはましでしょう?」
と、そんなお市の顔色を見てか、帰蝶は聞こえよがしに言った。どうやらあの釜、帰蝶と一緒にこちらに来ているらしい。なるほど、あの釜、脅しに使ったのである。やはり、蝮の娘の異名は伊達ではない。
(この御方、絶対敵に回したくないだわ…)
と、市は思った。
「まったく!なにを考えておられるか帰蝶さまは!なんと放免とは…!まさか世に害ある科者を解き放つおつもりか!?」
ひと通り話が済むと、火偸は目を剥いて怒った。
「よう言うた火偸。正論をな。だがさっきが良かったな」
「ぬぐ…!」
市に図星を指されて、火偸は黙った。
「まったくお前と言うやつは!帰蝶さまがいないとこで言うても、仕方あるみゃあ!?この市に言うても仕方あるみゃあ!?」
「それは…!うっ、その通りなのでござりまするが…!」
火偸は、お市以上に主君の帰蝶が怖いのである。
「されど、今、忍び宿を開くのには好都合やも知れません…」
やっと声を出したのは、埋火だ。
市はこの内気な忍び者が、怖くて帰蝶に意見出来ず、じっと下唇を噛んでいたのを知っている。
「お前は怖くはないのか、埋火」
「怖いです。されど、さすがは帰蝶さま、目の付け所はいいと思います」
「あえてこちらから探さず、承禎を誘きだそう、と言う策まではな。さすがは、帰蝶さまだ。…だが、今度ばかりは、あの赤兵衛だけではない、我らにすら、命の危険があるぞ!?」
火偸の言うことには、理がある。市も六角承禎と言う近江のヌシを一目見たいとは思っていたものの、さすがにこれほど危険な術策に、一枚噛むことを長政は決して許可してくれないだろうと、半ば諦めかけていたところだ。
「恐らく赤兵衛は、承禎公の『あくとう』なのかも知れません」
赤兵衛は、承禎からも狙われているのではないか。帰蝶は明言しなかったが、そうとなれば、すべての辻褄は合ってくる。
「それに承禎公は、すでに足を向けているかも知れません」
「どう言うことか?」
市が尋ねると、埋火は懐から一枚の油紙を拡げた。
「忍び宿を開く場所が、それらしいのです」
地図は、近江国全体の鳥瞰図のようだ。市はさらに尋ねた。
「帰蝶さまはどこで忍び宿を開くおつもりか?」
埋火は指で、地図の北側をさした。
「賤ヶ岳です」
「そこに何がある?」
埋火の目は、その賤ヶ岳からさらに北にある小さな空白に向いている。
「すぐそこに余呉湖…公方さまのお引き渡しはここで行われるのです」




